悪役令嬢は、裁きの夜に方舟を閉ざす
ミウゼリカ・ヴェルグレインは、王太子に愛されなかった令嬢だった。
それだけで充分だった。
宮廷では、愛されない婚約者には必ず理由があることになっている。
美しすぎるから冷たい。正しすぎるから高慢。笑わないから陰湿。笑えば、何か企んでいる。王太子殿下に意見をすれば嫉妬深い。黙っていれば、腹の底で相手を見下している。
彼女が何をしたかではない。
彼女がどう見えるか。
彼女が、どんな役を与えられているか。
王城の大広間には、今夜もその不文律が満ちていた。
百年祭の夜。
天井から吊るされた水晶灯は、氷の実をつけた大樹のように白く輝いている。磨かれた大理石の床には貴族たちの靴音が薄く響き、楽師たちの奏でる弦の音が、香水と葡萄酒の匂いの間を滑っていく。
窓の外には、低い雲が垂れ込めていた。
まだ雨は降っていない。
けれど、城の古い石壁は、今夜だけはいつもより冷たく見えた。
「ミウゼリカ・ヴェルグレイン」
王太子オルヴァン・レグナードの声が、音楽を断ち切った。
その瞬間、大広間は驚いたふりをした。
誰もが、今夜それが起きると知っていたくせに。
ミウゼリカは静かに振り返った。
銀灰色の髪を結い上げ、真珠を散らした白いドレスをまとっている。喉元まで詰まった襟。長い手袋。露出の少ない、完璧な王太子妃候補の装い。
その完璧さが、彼らには気に入らない。
隣に立つ聖女イリシア・ファルネは、淡い桃色のドレスを着ていた。柔らかく波打つ金髪。涙を含んだ青い瞳。守られるために生まれたような、無垢な顔。
貴族たちは、もうどちらを見るべきか決めていた。
「この場で告げる。僕は、君との婚約を破棄する」
ざわめきが起きた。
小さく、上品に、けれど嬉々として。
ミウゼリカは瞬きひとつしなかった。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「まだしらを切るつもりか」
オルヴァンの眉が怒りに歪む。
「君がイリシアにしてきた仕打ちは、すべて明らかになっている。ドレスを裂き、聖水に毒を混ぜ、孤児院への寄付金を横領し、彼女を階段から突き落とそうとした」
イリシアが震えた。
彼女の肩を、オルヴァンが庇うように抱く。
「私は、ミウゼリカ様を責めたくありません。でも……でも、怖かったのです」
涙は出なかった。
だが、涙が出そうな声だった。
それで充分だった。
「証拠はございますか」
ミウゼリカが問うと、オルヴァンは鼻で笑った。
「証人がいる」
そう言って、彼は背後の貴族たちを見た。
伯爵令嬢が一歩進み出る。
「わたくし、見ましたわ。聖女様のドレスの裾が裂けていたあの夜、ヴェルグレイン公爵令嬢が近くの廊下を歩いていらしたのを」
子爵令息が続く。
「聖水の保管庫へ入れる立場にあったのは、王太子殿下の婚約者であるミウゼリカ様だけです」
年老いた侯爵夫人が扇を口元に当てる。
「孤児院の帳簿に不備があったとか。公爵令嬢なら、そうした操作も難しくないでしょう」
誰も、見ていない。
誰も、知っていない。
だが、全員が納得していた。
彼女なら、やりかねない。
その言葉にならない合意が、大広間の空気を満たしていた。
「ミウゼリカ」
オルヴァンが冷たく言う。
「君は、そういう女だろう」
その一言で、裁きは終わった。
ミウゼリカは、ほんの少し視線を落とした。
長い睫毛が頬に影を作る。
「……そう、でございますか」
細い声だった。
貴族たちの間に、甘い緊張が走る。
折れた。
あの高慢な令嬢が、ようやく折れた。
ミウゼリカは胸元で手を握った。白い手袋の指先が、小さく震えている。
「わたくしは」
言葉が途切れる。
彼女は一歩、後ずさった。
誰かが笑った。
小さく、喉の奥で。
「弁明はないのか」
オルヴァンが問う。
ミウゼリカは答えなかった。
もう一歩、後ずさる。
白いドレスの裾が大理石を滑る。
そして彼女は、くるりと背を向けた。
「逃げるのか、ミウゼリカ!」
オルヴァンの声が追う。
ミウゼリカは走り出した。
大広間の扉が開かれる。衛兵たちは驚き、しかし王太子の顔色を見て道を塞がない。ミウゼリカは廊下へ飛び出し、燭台の火が並ぶ長い回廊を駆けた。
背後から足音が増える。
オルヴァン。イリシア。彼らを取り巻く貴族たち。断罪の続きを見届けたい者たち。最後に令嬢が泣いて跪く姿を、記憶に収めたい者たち。
追われるうさぎ。
それが、今夜の彼女に与えられた役だった。
ならば、演じて差し上げましょう。
うさぎのふりなら、お任せあれ。
ミウゼリカは角を曲がった。
息が乱れたふりをし、時折よろめき、壁に手をつく。追手たちが見失わないように、けれど簡単には捕まらないように。
幼い頃、母は言った。
――王城には、雨の夜だけ開く扉があります。
母はノアリス家の最後の娘だった。
王国の建国神話に残る、方舟の血筋。
百年に一度、国に罪が満ちると、裁きの雨が降る。黒い雨は、見えない罪を文字にして肌へ浮かべ、声なき者の涙を水に変え、夜明けまでに古い王国を洗い流す。
その夜を越えられるのは、方舟に入った者だけ。
王家は伝承を書き換えた。
方舟は王のもの。王が民を選び、王が救い、王が裁くのだと。
けれど母は、ミウゼリカの手を包んで囁いた。
――違います。方舟は、王が捨てた者たちのためのもの。扉を開けるのは、王ではありません。王に隣り立つはずだった、名を消された女たちです。
母は死んだ。
王太子の婚約者に選ばれてから、ミウゼリカは母の言葉の意味を知っていった。
宮廷は、人を殺すのに刃物を使わない。
噂。
沈黙。
目配せ。
ため息。
あの方なら仕方ないわ、という微笑み。
王太子殿下がそうおっしゃるなら、といううなずき。
ミウゼリカは何度もその水に沈められた。
彼女の言葉は言い訳に変えられた。
彼女の正しさは冷酷に変えられた。
彼女の孤独は高慢に変えられた。
王太子オルヴァンは、彼女を嫌っていた。
いや、恐れていたのかもしれない。
ミウゼリカはいつも正しかった。政務の誤りを見抜き、帳簿の不審を拾い、側近たちの怠慢を静かに正した。声を荒げることはなかった。ただ、事実を並べた。
それがオルヴァンには耐えられなかった。
彼女が黙って立っているだけで、自分が責められているような気がしたのだろう。
だから彼は、彼女を冷たい女と呼んだ。
宮廷は、それに従った。
ミウゼリカは数えた。
誰が誰を見捨てたか。
誰が嘘をついたか。
誰が空気に乗って指を差したか。
誰が声を奪われているか。
誰を方舟へ乗せるべきか。
走るミウゼリカの耳に、背後の笑い声が届く。
「もう逃げ場はありませんわ」
「最後まで芝居がかっていますこと」
「悪役令嬢には、礼拝堂がお似合いかもしれませんね」
そう。
礼拝堂。
ミウゼリカは古い階段へ向かった。
王城の奥、使われなくなった塔の下へ続く螺旋階段。灯りは少ない。壁は湿り、空気は冷たい。貴族たちは一瞬ためらったが、オルヴァンが進むと、誰も引き返せなかった。
「ミウゼリカ、観念しろ!」
王太子の声が石壁に反響する。
ミウゼリカは返事をしない。
階段を下りきると、そこには地下礼拝堂があった。
広い石造りの空間。天井は高く、古い天窓の向こうに黒い雲が渦を巻いている。壁には波と舟の彫刻。床には、擦り減った古代文字が円を描いて刻まれていた。
祭壇の奥には、巨大な扉がある。
木ではない。
鉄でもない。
海の底から引き上げられたような、黒い石の扉。表面には無数の手形が浮き彫りになっている。大人の手、子どもの手、細い手、荒れた手。かつて救われた者たちの願いの痕だと、母は言っていた。
ミウゼリカは扉の前で立ち止まった。
追手たちが礼拝堂へなだれ込んでくる。
オルヴァンは肩で息をしながら、苛立たしげに剣の柄へ手をかけた。
「追い詰めたぞ」
イリシアが彼の背後から覗く。
「ミウゼリカ様……もう、おやめください。これ以上、罪を重ねないで」
ミウゼリカはうつむいたままだった。
侯爵令息が笑う。
「神に許しでも乞うつもりか」
「神もお困りでしょう。こんな悪役令嬢に縋られては」
誰かが言った。
それを合図のように、笑いが広がる。
ミウゼリカは、ゆっくりと顔を上げた。
泣いていなかった。
震えてもいなかった。
その唇に、淡い微笑があった。
「まあ」
礼拝堂の空気が変わった。
「まだ、ご自分に席があると思っていらっしゃるの?」
オルヴァンの顔から怒りが一瞬抜け落ちた。
「何を言っている」
ミウゼリカは振り返り、扉に手を触れた。
白い手袋の指先が黒い石に沈むように見えた。
低い音が響く。
遠くで、何か巨大なものが目覚めたような音。
扉の手形が、一つ、また一つと淡く光り始める。
「なぜ」
オルヴァンが呟いた。
「なぜ君が、それを動かせる」
「方舟は、王のものではございません」
ミウゼリカは穏やかに言った。
「王が捨てた者たちのためのものです」
その時、天窓を何かが叩いた。
ぽつり、ではない。
こつん、と硬い音がした。
全員が天井を見上げる。
黒い雨粒が、古い硝子に当たっていた。
こつん。
こつん。
こつん。
それは雨というより、小さな指先が外から叩いているようだった。
「裁きの雨……?」
年老いた侯爵夫人が掠れた声で言った。
王国の誰もが知っている伝承。
誰も本気にはしていなかった伝承。
しかし、その黒い水は天窓の隙間から一滴、石床へ落ちた。
広がったのは水ではなく、インクのような染みだった。
染みは床の古代文字へ流れ込み、礼拝堂全体を淡く照らす。
「皆様は、わたくしをよくご存じでいらっしゃいました」
ミウゼリカの声は、低く澄んでいた。
「冷たい女。高慢な女。嫉妬深い女。聖女様を害する女。王太子殿下に愛されなかった、救いようのない悪役令嬢」
誰も口を挟まない。
「わたくしが何を言っても、皆様はそれを言い訳と呼びました。わたくしが何をしても、悪意と呼びました。何も知らないまま、わたくしを全部お分かりになった」
ミウゼリカは微笑む。
「では、今度はわたくしが、皆様を分けて差し上げます」
「ふざけるな!」
オルヴァンが叫んだ。
「君に僕たちを裁く権利などない!」
「権利?」
ミウゼリカは首を傾げた。
「皆様がわたくしを裁いた時、そのようなものをお持ちでしたか」
オルヴァンが黙る。
「証拠もなく、事実もなく、ただ、そういう女だからとおっしゃった。場の空気がそうだからと、誰も疑わなかった。人を裁くのは、楽でございますものね。知る必要も、悩む必要も、責任を取る必要もない。ただ指を差せば、それで済む」
扉の内側から、小さな音がした。
ゆっくりと、黒い扉が開き始める。
隙間から、暖かな灯りが漏れた。
その光の中に、人影が立っていた。
「ネリス……?」
イリシアが息を呑む。
現れたのは、ミウゼリカの侍女ネリス・ロウエンだった。
断罪の場に証人として呼ばれるはずだった少女。数日前から姿を消し、貴族たちの間では「主に恐れて逃げた」と噂されていた。
ネリスは青ざめた顔で、それでもまっすぐ立っていた。
「わたしは、聖女様のドレスを裂いてなどいません。裂くよう命じられました。断れば弟を孤児院から追い出すと、そう脅されました」
イリシアの顔が強張る。
「私は知らないわ。そんなこと、神官たちが勝手に」
ネリスは唇を噛んだ。
「お嬢様は、わたしを責めませんでした。嘘を言わされるくらいなら、先に逃げなさいと。弟も一緒に、方舟へ行きなさいと」
扉の奥で、小さな少年がネリスのスカートを掴んでいるのが見えた。
次に現れたのは、痩せた商人だった。
「王太子殿下の狩猟会で店を潰されました。補償を求めたら、王家に逆らう不届き者だと。ヴェルグレイン公爵令嬢だけが、帳簿を調べてくださいました」
下級官吏が続く。
「孤児院の寄付金は、横領されておりました。ですが、ミウゼリカ様ではありません。名を隠した神官と、王太子殿下の側近方です」
その後ろに、薄い毛布を肩にかけた子どもたちがいた。
聖女の奇跡では癒せなかった者たち。
神殿の名誉のために、地下の小部屋へ移された者たち。
泣けば祈りが足りないと叱られ、黙れば諦めたと見捨てられた者たち。
その中の一人が、痩せた腕でミウゼリカのドレスの端を握っていた。
さらに、顔に痣の残る女官がいた。
王太子の側近に無実の罪を着せられ、銀器を盗んだ下女として追放されるはずだった娘だった。ミウゼリカが調べなければ、今夜までに牢へ送られていた。
下級貴族の令嬢もいた。
イリシアを羨んだ女として婚約を壊され、家からも切り捨てられた娘だった。彼女はミウゼリカを見ると、泣きそうな顔で頭を下げた。
イリシアが震える声で言う。
「嘘よ……私は、本当に知らなかったの」
ミウゼリカは彼女を見た。
その瞳には怒りよりも、深い疲れがあった。
「知らなければ、踏んでも痛くないのですか」
イリシアは口を閉ざした。
「あなたが癒せなかった子どもたちは、失敗作として地下へ移された。あなたはその扉の前を通った。声も聞いた。けれど、祈りの時間に遅れるからと、通り過ぎた」
「だって、私は……」
「聖女だから?」
ミウゼリカが静かに問う。
「聖女なら、見なかったことにすれば、なかったことになるのですか」
イリシアの瞳から、今度こそ涙が落ちた。
オルヴァンが彼女を庇うように前へ出る。
「もういい! イリシアを責めるな。悪いのは君だ、ミウゼリカ。君がもっと可愛げのある女なら、誰もこんなことにはしなかった」
礼拝堂に沈黙が落ちた。
ミウゼリカは、少しだけ笑った。
「そうですわね」
白い指が、扉の縁を撫でる。
「わたくしがもっと可愛げのある女なら。王太子殿下に愛される女なら。聖女様に笑いかける女なら。皆様が望む通り、柔らかく、愚かで、扱いやすい女なら」
彼女の声は震えなかった。
「きっと、ここには立っておりませんでした」
外の雨音が強くなる。
黒い雨は天窓を覆い、硝子の向こうを塗り潰していく。隙間から落ちた雨粒が、貴族たちの靴に跳ねた。
侯爵令息が悲鳴を上げた。
手の甲に黒い文字が浮かんでいた。
――あの女ならやりかねない。
「何だ、これは!」
別の令嬢の首筋にも文字が浮かぶ。
――皆が言っていたもの。
侯爵夫人の頬に、扇では隠しきれない黒い文字が滲む。
――空気をお読みなさい。
雨に触れた者たちの肌に、次々と文字が現れる。
自分が言った言葉。
誰かを切り捨てた言葉。
責任から逃げるための言葉。
貴族たちは互いの顔を見て、後ずさった。
「私は悪くないわ!」
「言い出したのはあの方よ!」
「王太子殿下がそうおっしゃったから!」
「聖女様がお可哀想だったから!」
「皆がそう言っていた!」
さっきまで一つだった空気が、音を立てて崩れ始める。
誰もが誰かを指差した。
誰もが、自分だけは外側に立とうとした。
裁いていた者たちが、互いを裁き始める。
ミウゼリカはそれを見ていた。
勝ち誇るでもなく、哀れむでもなく。
ただ、よく知っている光景を見るように。
「やめろ」
オルヴァンの声にも、黒い文字が浮かんでいた。
――君は、そういう女だろう。
その文字は喉元に絡みつき、王太子の白い襟を汚していく。
「ミウゼリカ、僕を入れろ」
彼は命じた。
「僕は王になる男だ。方舟に乗るべきなのは僕だ。この国には僕が必要だ」
「いいえ」
ミウゼリカは首を振った。
「その席は、ございません」
「ミウゼリカ!」
「王太子殿下」
彼女は初めて、ほんの少しだけ低い声で呼んだ。
「あなたは、わたくしを一度でも見ましたか」
オルヴァンは答えない。
「婚約者としてでも、政略の相手としてでも、同じ国を背負う者としてでもなく。ただ、わたくしという一人の人間を」
彼の唇が動く。
だが言葉は出なかった。
「見ていなかったでしょう」
ミウゼリカは微笑んだ。
「それなのに、全部否定なさいました」
イリシアが膝をついた。
雨は彼女の桃色のドレスにも染みを作っていた。胸元に黒い文字が浮かぶ。
――知らなかったの。
何度も、何度も。
「お願い、ミウゼリカ様」
イリシアは泣きながら手を伸ばす。
「私、あなたがそんなに苦しんでいたなんて、本当に知らなかったの。知っていたら、こんなことには」
「そうでしょうね」
ミウゼリカは柔らかく言った。
「皆様、わたくしのことを何もご存じありませんもの」
「なら、今からでも」
「いいえ」
扉の奥から、ネリスが心配そうにミウゼリカを見ている。
救われた者たちは、誰も歓声を上げなかった。
誰も笑わなかった。
方舟の内側には、怒りよりも静けさがあった。夜を越えるために集められた者たちの、疲れた沈黙があった。
「知らなかったで済むのは、知らされなかった者だけです」
ミウゼリカは言った。
「見ないことを選んだ者は、知らなかったとは言えません」
イリシアの手が落ちる。
オルヴァンが剣を抜いた。
「ならば力ずくで――」
その刃が振り上げられるより早く、黒い雨が礼拝堂の床から噴き上がった。
水ではない。
声だった。
噂話の声。
笑い声。
ため息。
あの方なら仕方ないわ。
王太子殿下が選ばなかったのだから。
聖女様がお可哀想。
悪役令嬢らしい最期ね。
言葉が水になり、貴族たちの足元へ絡みつく。
彼らは叫び、互いに掴まり、押しのけ、泣き喚いた。
「助けて!」
「私は関係ない!」
「私はただ、場に合わせただけ!」
「そういう空気だったのよ!」
ミウゼリカは方舟の内側へ一歩下がった。
扉が、ゆっくりと閉まり始める。
「ミウゼリカ!」
オルヴァンが叫ぶ。
「君は悪魔だ!」
彼の顔に、恐怖と憎しみと、ようやく自分が選ばれなかったことへの屈辱が浮かんでいた。
ミウゼリカは振り返る。
白いドレスの裾が、方舟の灯りを受けて淡く光っている。
「ええ」
彼女は微笑んだ。
「皆様が、そうお決めになったのですもの」
扉の隙間が狭くなる。
オルヴァンが手を伸ばす。
イリシアが泣き叫ぶ。
貴族たちの声が黒い雨に混ざっていく。
その最後の一瞬。
完璧な公爵令嬢として育てられたミウゼリカ・ヴェルグレインは、ほんの少しだけ淑女の仮面を外した。
子どものように、舌を出す。
「……べえ」
方舟の扉が閉ざされた。
音は、それきり届かなくなった。
方舟の内側には、暖かな灯りがあった。
広い船室のような空間に、毛布と水とパンが用意されている。老人が座り、子どもが眠り、侍女たちが寄り添っていた。王城の地下にあるはずなのに、どこか遠い海の上にいるように、床がわずかに揺れている。
ネリスがミウゼリカのそばへ来た。
「お嬢様」
「怪我はありませんか」
「はい。弟も無事です」
「よかった」
それだけ言って、ミウゼリカは扉に背を預けた。
膝から力が抜けそうになる。
ネリスが支えようとしたが、ミウゼリカは首を振った。
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
けれど、倒れるのは後でいい。
方舟に乗せた者たちが、彼女を見ている。彼らは救われた。けれど、奪われたものが戻るわけではない。死んだ者は帰らない。壊された店も、踏みにじられた尊厳も、消えた歳月も、そのままだ。
だから歓声はなかった。
ただ、夜を越える者たちの沈黙があった。
ネリスが小さく尋ねる。
「お嬢様は、つらくはありませんか」
ミウゼリカは目を伏せた。
「つらいわ」
その答えに、ネリスが息を呑む。
「でも、扉は閉めなければならなかった」
方舟の外側で、黒い雨が降り続けている。
雨音はもう聞こえない。
けれどミウゼリカには分かっていた。あの雨は王城を流れている。大広間を満たし、廊下を走り、王座の足元まで黒い水を届けている。
言葉にならなかったものが、今夜だけは水になる。
誰かを沈めてきた空気が、今度は彼ら自身を沈める。
ミウゼリカは長い息を吐いた。
「人を裁くのは、楽なのね」
誰にともなく呟く。
「本当に、楽だった」
ネリスは何も言わなかった。
だからミウゼリカも、それ以上は言わなかった。
夜は長かった。
方舟の中で、子どもが一度泣いた。老人が祈りを唱えた。誰かが眠り、誰かが眠れず、誰かが扉を見つめ続けた。
ミウゼリカは最後まで眠らなかった。
母の言葉を思い出していた。
――方舟を閉じる者は、救う者ではありません。ただ、数える者です。誰を乗せ、誰を乗せないか。その重さを、最後まで抱える者です。
夜明け前、方舟の揺れが止まった。
長い静寂のあと、黒い扉の手形から光が消えていく。
ミウゼリカは立ち上がった。
ネリスがそばにつく。
「開けます」
誰も止めなかった。
扉が開く。
朝の光が差し込んだ。
礼拝堂には、誰もいなかった。
血もない。
死体もない。
黒い水すら残っていない。
ただ、石床と壁一面に、文字だけがこびりついていた。
――君は、そういう女だろう。
――皆が言っていた。
――空気を読め。
――聖女様がお可哀想。
――王太子殿下が選ばなかったのだから。
――あの女ならやりかねない。
ミウゼリカは、その文字の上を歩いた。
礼拝堂を出て、螺旋階段を上がる。廊下の壁にも、黒い文字は残っていた。大広間へ戻ると、水晶灯はすべて消え、床には無数の言葉が散らばっていた。
そこにいたはずの貴族たちは、誰一人としていない。
王太子も。
聖女も。
彼らを裁きの場へ集めた者たちも。
何も知らないまま人を分け、全部知った顔で否定し、場の空気に身を任せて笑った者たちは、夜明けとともに消えていた。
ミウゼリカは王座の間へ向かった。
扉は開いている。
王座は空だった。
雨上がりの朝日が、赤い絨毯を薄く照らしていた。誰も座っていない席だけが、そこにある。
ネリスが不安げに言う。
「お嬢様。これから、どうなさいますか」
ミウゼリカは王座を見上げた。
かつて彼女には、王太子妃の席が用意されていた。
従順で、正しく、美しく、扱いやすい女として座るための席。
そこに彼女はもう座らない。
ミウゼリカ・ヴェルグレインは、愛されなかった令嬢だった。
冷たい女。
高慢な女。
嫉妬深い女。
救いようのない悪役令嬢。
皆がそう呼んだ。
ならば、その名で構わない。
ミウゼリカは朝日に濡れた王座へ向かって、静かに微笑んだ。
「まずは、席を数え直しましょう」
彼女の背後で、方舟を越えた者たちが息を呑む。
新しい朝が、王城の窓から差し込んでいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「悪役令嬢」と「裁き」と「方舟」を組み合わせて、断罪される側だった令嬢が、本当に裁きの夜を迎えるお話にしてみました。
人は、相手のことを何も知らないまま「そういう人」と決めつけてしまうことがあります。
しかもそれが一人の悪意ではなく、場の空気や不文律として広がっていくと、誰も責任を取らないまま、一人を沈めることができてしまう。
ミウゼリカは、そんな空気に沈められ続けた令嬢です。
けれど最後に彼女がしたことは、単なる復讐ではなく、「誰を乗せ、誰を乗せないか」を数えることでした。
方舟の扉を閉ざす場面は、書いていて一番楽しかったです。
救いの場面のはずなのに、そこには歓声がない。
誰かが助かったからといって、失われたものが戻るわけではない。
その静けさまで含めて、このお話の味になっていたら嬉しいです。
今回も、とある曲の空気感を少し借りて作ってみました。
「全部わかった顔で裁くこと」への皮肉と、「べえ」の毒っ気が、悪役令嬢ものと相性が良すぎました。
少しでもゾクッとしていただけたなら幸いです。




