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悪役令嬢は、裁きの夜に方舟を閉ざす

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/06/29

 ミウゼリカ・ヴェルグレインは、王太子に愛されなかった令嬢だった。


 それだけで充分だった。


 宮廷では、愛されない婚約者には必ず理由があることになっている。


 美しすぎるから冷たい。正しすぎるから高慢。笑わないから陰湿。笑えば、何か企んでいる。王太子殿下に意見をすれば嫉妬深い。黙っていれば、腹の底で相手を見下している。


 彼女が何をしたかではない。


 彼女がどう見えるか。


 彼女が、どんな役を与えられているか。


 王城の大広間には、今夜もその不文律が満ちていた。


 百年祭の夜。


 天井から吊るされた水晶灯は、氷の実をつけた大樹のように白く輝いている。磨かれた大理石の床には貴族たちの靴音が薄く響き、楽師たちの奏でる弦の音が、香水と葡萄酒の匂いの間を滑っていく。


 窓の外には、低い雲が垂れ込めていた。


 まだ雨は降っていない。


 けれど、城の古い石壁は、今夜だけはいつもより冷たく見えた。


「ミウゼリカ・ヴェルグレイン」


 王太子オルヴァン・レグナードの声が、音楽を断ち切った。


 その瞬間、大広間は驚いたふりをした。


 誰もが、今夜それが起きると知っていたくせに。


 ミウゼリカは静かに振り返った。


 銀灰色の髪を結い上げ、真珠を散らした白いドレスをまとっている。喉元まで詰まった襟。長い手袋。露出の少ない、完璧な王太子妃候補の装い。


 その完璧さが、彼らには気に入らない。


 隣に立つ聖女イリシア・ファルネは、淡い桃色のドレスを着ていた。柔らかく波打つ金髪。涙を含んだ青い瞳。守られるために生まれたような、無垢な顔。


 貴族たちは、もうどちらを見るべきか決めていた。


「この場で告げる。僕は、君との婚約を破棄する」


 ざわめきが起きた。


 小さく、上品に、けれど嬉々として。


 ミウゼリカは瞬きひとつしなかった。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


「まだしらを切るつもりか」


 オルヴァンの眉が怒りに歪む。


「君がイリシアにしてきた仕打ちは、すべて明らかになっている。ドレスを裂き、聖水に毒を混ぜ、孤児院への寄付金を横領し、彼女を階段から突き落とそうとした」


 イリシアが震えた。


 彼女の肩を、オルヴァンが庇うように抱く。


「私は、ミウゼリカ様を責めたくありません。でも……でも、怖かったのです」


 涙は出なかった。


 だが、涙が出そうな声だった。


 それで充分だった。


「証拠はございますか」


 ミウゼリカが問うと、オルヴァンは鼻で笑った。


「証人がいる」


 そう言って、彼は背後の貴族たちを見た。


 伯爵令嬢が一歩進み出る。


「わたくし、見ましたわ。聖女様のドレスの裾が裂けていたあの夜、ヴェルグレイン公爵令嬢が近くの廊下を歩いていらしたのを」


 子爵令息が続く。


「聖水の保管庫へ入れる立場にあったのは、王太子殿下の婚約者であるミウゼリカ様だけです」


 年老いた侯爵夫人が扇を口元に当てる。


「孤児院の帳簿に不備があったとか。公爵令嬢なら、そうした操作も難しくないでしょう」


 誰も、見ていない。


 誰も、知っていない。


 だが、全員が納得していた。


 彼女なら、やりかねない。


 その言葉にならない合意が、大広間の空気を満たしていた。


「ミウゼリカ」


 オルヴァンが冷たく言う。


「君は、そういう女だろう」


 その一言で、裁きは終わった。


 ミウゼリカは、ほんの少し視線を落とした。


 長い睫毛が頬に影を作る。


「……そう、でございますか」


 細い声だった。


 貴族たちの間に、甘い緊張が走る。


 折れた。


 あの高慢な令嬢が、ようやく折れた。


 ミウゼリカは胸元で手を握った。白い手袋の指先が、小さく震えている。


「わたくしは」


 言葉が途切れる。


 彼女は一歩、後ずさった。


 誰かが笑った。


 小さく、喉の奥で。


「弁明はないのか」


 オルヴァンが問う。


 ミウゼリカは答えなかった。


 もう一歩、後ずさる。


 白いドレスの裾が大理石を滑る。


 そして彼女は、くるりと背を向けた。


「逃げるのか、ミウゼリカ!」


 オルヴァンの声が追う。


 ミウゼリカは走り出した。


 大広間の扉が開かれる。衛兵たちは驚き、しかし王太子の顔色を見て道を塞がない。ミウゼリカは廊下へ飛び出し、燭台の火が並ぶ長い回廊を駆けた。


 背後から足音が増える。


 オルヴァン。イリシア。彼らを取り巻く貴族たち。断罪の続きを見届けたい者たち。最後に令嬢が泣いて跪く姿を、記憶に収めたい者たち。


 追われるうさぎ。


 それが、今夜の彼女に与えられた役だった。


 ならば、演じて差し上げましょう。


 うさぎのふりなら、お任せあれ。


 ミウゼリカは角を曲がった。


 息が乱れたふりをし、時折よろめき、壁に手をつく。追手たちが見失わないように、けれど簡単には捕まらないように。


 幼い頃、母は言った。


 ――王城には、雨の夜だけ開く扉があります。


 母はノアリス家の最後の娘だった。


 王国の建国神話に残る、方舟の血筋。


 百年に一度、国に罪が満ちると、裁きの雨が降る。黒い雨は、見えない罪を文字にして肌へ浮かべ、声なき者の涙を水に変え、夜明けまでに古い王国を洗い流す。


 その夜を越えられるのは、方舟に入った者だけ。


 王家は伝承を書き換えた。


 方舟は王のもの。王が民を選び、王が救い、王が裁くのだと。


 けれど母は、ミウゼリカの手を包んで囁いた。


 ――違います。方舟は、王が捨てた者たちのためのもの。扉を開けるのは、王ではありません。王に隣り立つはずだった、名を消された女たちです。


 母は死んだ。


 王太子の婚約者に選ばれてから、ミウゼリカは母の言葉の意味を知っていった。


 宮廷は、人を殺すのに刃物を使わない。


 噂。


 沈黙。


 目配せ。


 ため息。


 あの方なら仕方ないわ、という微笑み。


 王太子殿下がそうおっしゃるなら、といううなずき。


 ミウゼリカは何度もその水に沈められた。


 彼女の言葉は言い訳に変えられた。


 彼女の正しさは冷酷に変えられた。


 彼女の孤独は高慢に変えられた。


 王太子オルヴァンは、彼女を嫌っていた。


 いや、恐れていたのかもしれない。


 ミウゼリカはいつも正しかった。政務の誤りを見抜き、帳簿の不審を拾い、側近たちの怠慢を静かに正した。声を荒げることはなかった。ただ、事実を並べた。


 それがオルヴァンには耐えられなかった。


 彼女が黙って立っているだけで、自分が責められているような気がしたのだろう。


 だから彼は、彼女を冷たい女と呼んだ。


 宮廷は、それに従った。


 ミウゼリカは数えた。


 誰が誰を見捨てたか。


 誰が嘘をついたか。


 誰が空気に乗って指を差したか。


 誰が声を奪われているか。


 誰を方舟へ乗せるべきか。


 走るミウゼリカの耳に、背後の笑い声が届く。


「もう逃げ場はありませんわ」


「最後まで芝居がかっていますこと」


「悪役令嬢には、礼拝堂がお似合いかもしれませんね」


 そう。


 礼拝堂。


 ミウゼリカは古い階段へ向かった。


 王城の奥、使われなくなった塔の下へ続く螺旋階段。灯りは少ない。壁は湿り、空気は冷たい。貴族たちは一瞬ためらったが、オルヴァンが進むと、誰も引き返せなかった。


「ミウゼリカ、観念しろ!」


 王太子の声が石壁に反響する。


 ミウゼリカは返事をしない。


 階段を下りきると、そこには地下礼拝堂があった。


 広い石造りの空間。天井は高く、古い天窓の向こうに黒い雲が渦を巻いている。壁には波と舟の彫刻。床には、擦り減った古代文字が円を描いて刻まれていた。


 祭壇の奥には、巨大な扉がある。


 木ではない。


 鉄でもない。


 海の底から引き上げられたような、黒い石の扉。表面には無数の手形が浮き彫りになっている。大人の手、子どもの手、細い手、荒れた手。かつて救われた者たちの願いの痕だと、母は言っていた。


 ミウゼリカは扉の前で立ち止まった。


 追手たちが礼拝堂へなだれ込んでくる。


 オルヴァンは肩で息をしながら、苛立たしげに剣の柄へ手をかけた。


「追い詰めたぞ」


 イリシアが彼の背後から覗く。


「ミウゼリカ様……もう、おやめください。これ以上、罪を重ねないで」


 ミウゼリカはうつむいたままだった。


 侯爵令息が笑う。


「神に許しでも乞うつもりか」


「神もお困りでしょう。こんな悪役令嬢に縋られては」


 誰かが言った。


 それを合図のように、笑いが広がる。


 ミウゼリカは、ゆっくりと顔を上げた。


 泣いていなかった。


 震えてもいなかった。


 その唇に、淡い微笑があった。


「まあ」


 礼拝堂の空気が変わった。


「まだ、ご自分に席があると思っていらっしゃるの?」


 オルヴァンの顔から怒りが一瞬抜け落ちた。


「何を言っている」


 ミウゼリカは振り返り、扉に手を触れた。


 白い手袋の指先が黒い石に沈むように見えた。


 低い音が響く。


 遠くで、何か巨大なものが目覚めたような音。


 扉の手形が、一つ、また一つと淡く光り始める。


「なぜ」


 オルヴァンが呟いた。


「なぜ君が、それを動かせる」


「方舟は、王のものではございません」


 ミウゼリカは穏やかに言った。


「王が捨てた者たちのためのものです」


 その時、天窓を何かが叩いた。


 ぽつり、ではない。


 こつん、と硬い音がした。


 全員が天井を見上げる。


 黒い雨粒が、古い硝子に当たっていた。


 こつん。


 こつん。


 こつん。


 それは雨というより、小さな指先が外から叩いているようだった。


「裁きの雨……?」


 年老いた侯爵夫人が掠れた声で言った。


 王国の誰もが知っている伝承。


 誰も本気にはしていなかった伝承。


 しかし、その黒い水は天窓の隙間から一滴、石床へ落ちた。


 広がったのは水ではなく、インクのような染みだった。


 染みは床の古代文字へ流れ込み、礼拝堂全体を淡く照らす。


「皆様は、わたくしをよくご存じでいらっしゃいました」


 ミウゼリカの声は、低く澄んでいた。


「冷たい女。高慢な女。嫉妬深い女。聖女様を害する女。王太子殿下に愛されなかった、救いようのない悪役令嬢」


 誰も口を挟まない。


「わたくしが何を言っても、皆様はそれを言い訳と呼びました。わたくしが何をしても、悪意と呼びました。何も知らないまま、わたくしを全部お分かりになった」


 ミウゼリカは微笑む。


「では、今度はわたくしが、皆様を分けて差し上げます」


「ふざけるな!」


 オルヴァンが叫んだ。


「君に僕たちを裁く権利などない!」


「権利?」


 ミウゼリカは首を傾げた。


「皆様がわたくしを裁いた時、そのようなものをお持ちでしたか」


 オルヴァンが黙る。


「証拠もなく、事実もなく、ただ、そういう女だからとおっしゃった。場の空気がそうだからと、誰も疑わなかった。人を裁くのは、楽でございますものね。知る必要も、悩む必要も、責任を取る必要もない。ただ指を差せば、それで済む」


 扉の内側から、小さな音がした。


 ゆっくりと、黒い扉が開き始める。


 隙間から、暖かな灯りが漏れた。


 その光の中に、人影が立っていた。


「ネリス……?」


 イリシアが息を呑む。


 現れたのは、ミウゼリカの侍女ネリス・ロウエンだった。


 断罪の場に証人として呼ばれるはずだった少女。数日前から姿を消し、貴族たちの間では「主に恐れて逃げた」と噂されていた。


 ネリスは青ざめた顔で、それでもまっすぐ立っていた。


「わたしは、聖女様のドレスを裂いてなどいません。裂くよう命じられました。断れば弟を孤児院から追い出すと、そう脅されました」


 イリシアの顔が強張る。


「私は知らないわ。そんなこと、神官たちが勝手に」


 ネリスは唇を噛んだ。


「お嬢様は、わたしを責めませんでした。嘘を言わされるくらいなら、先に逃げなさいと。弟も一緒に、方舟へ行きなさいと」


 扉の奥で、小さな少年がネリスのスカートを掴んでいるのが見えた。


 次に現れたのは、痩せた商人だった。


「王太子殿下の狩猟会で店を潰されました。補償を求めたら、王家に逆らう不届き者だと。ヴェルグレイン公爵令嬢だけが、帳簿を調べてくださいました」


 下級官吏が続く。


「孤児院の寄付金は、横領されておりました。ですが、ミウゼリカ様ではありません。名を隠した神官と、王太子殿下の側近方です」


 その後ろに、薄い毛布を肩にかけた子どもたちがいた。


 聖女の奇跡では癒せなかった者たち。


 神殿の名誉のために、地下の小部屋へ移された者たち。


 泣けば祈りが足りないと叱られ、黙れば諦めたと見捨てられた者たち。


 その中の一人が、痩せた腕でミウゼリカのドレスの端を握っていた。


 さらに、顔に痣の残る女官がいた。


 王太子の側近に無実の罪を着せられ、銀器を盗んだ下女として追放されるはずだった娘だった。ミウゼリカが調べなければ、今夜までに牢へ送られていた。


 下級貴族の令嬢もいた。


 イリシアを羨んだ女として婚約を壊され、家からも切り捨てられた娘だった。彼女はミウゼリカを見ると、泣きそうな顔で頭を下げた。


 イリシアが震える声で言う。


「嘘よ……私は、本当に知らなかったの」


 ミウゼリカは彼女を見た。


 その瞳には怒りよりも、深い疲れがあった。


「知らなければ、踏んでも痛くないのですか」


 イリシアは口を閉ざした。


「あなたが癒せなかった子どもたちは、失敗作として地下へ移された。あなたはその扉の前を通った。声も聞いた。けれど、祈りの時間に遅れるからと、通り過ぎた」


「だって、私は……」


「聖女だから?」


 ミウゼリカが静かに問う。


「聖女なら、見なかったことにすれば、なかったことになるのですか」


 イリシアの瞳から、今度こそ涙が落ちた。


 オルヴァンが彼女を庇うように前へ出る。


「もういい! イリシアを責めるな。悪いのは君だ、ミウゼリカ。君がもっと可愛げのある女なら、誰もこんなことにはしなかった」


 礼拝堂に沈黙が落ちた。


 ミウゼリカは、少しだけ笑った。


「そうですわね」


 白い指が、扉の縁を撫でる。


「わたくしがもっと可愛げのある女なら。王太子殿下に愛される女なら。聖女様に笑いかける女なら。皆様が望む通り、柔らかく、愚かで、扱いやすい女なら」


 彼女の声は震えなかった。


「きっと、ここには立っておりませんでした」


 外の雨音が強くなる。


 黒い雨は天窓を覆い、硝子の向こうを塗り潰していく。隙間から落ちた雨粒が、貴族たちの靴に跳ねた。


 侯爵令息が悲鳴を上げた。


 手の甲に黒い文字が浮かんでいた。


 ――あの女ならやりかねない。


「何だ、これは!」


 別の令嬢の首筋にも文字が浮かぶ。


 ――皆が言っていたもの。


 侯爵夫人の頬に、扇では隠しきれない黒い文字が滲む。


 ――空気をお読みなさい。


 雨に触れた者たちの肌に、次々と文字が現れる。


 自分が言った言葉。


 誰かを切り捨てた言葉。


 責任から逃げるための言葉。


 貴族たちは互いの顔を見て、後ずさった。


「私は悪くないわ!」


「言い出したのはあの方よ!」


「王太子殿下がそうおっしゃったから!」


「聖女様がお可哀想だったから!」


「皆がそう言っていた!」


 さっきまで一つだった空気が、音を立てて崩れ始める。


 誰もが誰かを指差した。


 誰もが、自分だけは外側に立とうとした。


 裁いていた者たちが、互いを裁き始める。


 ミウゼリカはそれを見ていた。


 勝ち誇るでもなく、哀れむでもなく。


 ただ、よく知っている光景を見るように。


「やめろ」


 オルヴァンの声にも、黒い文字が浮かんでいた。


 ――君は、そういう女だろう。


 その文字は喉元に絡みつき、王太子の白い襟を汚していく。


「ミウゼリカ、僕を入れろ」


 彼は命じた。


「僕は王になる男だ。方舟に乗るべきなのは僕だ。この国には僕が必要だ」


「いいえ」


 ミウゼリカは首を振った。


「その席は、ございません」


「ミウゼリカ!」


「王太子殿下」


 彼女は初めて、ほんの少しだけ低い声で呼んだ。


「あなたは、わたくしを一度でも見ましたか」


 オルヴァンは答えない。


「婚約者としてでも、政略の相手としてでも、同じ国を背負う者としてでもなく。ただ、わたくしという一人の人間を」


 彼の唇が動く。


 だが言葉は出なかった。


「見ていなかったでしょう」


 ミウゼリカは微笑んだ。


「それなのに、全部否定なさいました」


 イリシアが膝をついた。


 雨は彼女の桃色のドレスにも染みを作っていた。胸元に黒い文字が浮かぶ。


 ――知らなかったの。


 何度も、何度も。


「お願い、ミウゼリカ様」


 イリシアは泣きながら手を伸ばす。


「私、あなたがそんなに苦しんでいたなんて、本当に知らなかったの。知っていたら、こんなことには」


「そうでしょうね」


 ミウゼリカは柔らかく言った。


「皆様、わたくしのことを何もご存じありませんもの」


「なら、今からでも」


「いいえ」


 扉の奥から、ネリスが心配そうにミウゼリカを見ている。


 救われた者たちは、誰も歓声を上げなかった。


 誰も笑わなかった。


 方舟の内側には、怒りよりも静けさがあった。夜を越えるために集められた者たちの、疲れた沈黙があった。


「知らなかったで済むのは、知らされなかった者だけです」


 ミウゼリカは言った。


「見ないことを選んだ者は、知らなかったとは言えません」


 イリシアの手が落ちる。


 オルヴァンが剣を抜いた。


「ならば力ずくで――」


 その刃が振り上げられるより早く、黒い雨が礼拝堂の床から噴き上がった。


 水ではない。


 声だった。


 噂話の声。


 笑い声。


 ため息。


 あの方なら仕方ないわ。


 王太子殿下が選ばなかったのだから。


 聖女様がお可哀想。


 悪役令嬢らしい最期ね。


 言葉が水になり、貴族たちの足元へ絡みつく。


 彼らは叫び、互いに掴まり、押しのけ、泣き喚いた。


「助けて!」


「私は関係ない!」


「私はただ、場に合わせただけ!」


「そういう空気だったのよ!」


 ミウゼリカは方舟の内側へ一歩下がった。


 扉が、ゆっくりと閉まり始める。


「ミウゼリカ!」


 オルヴァンが叫ぶ。


「君は悪魔だ!」


 彼の顔に、恐怖と憎しみと、ようやく自分が選ばれなかったことへの屈辱が浮かんでいた。


 ミウゼリカは振り返る。


 白いドレスの裾が、方舟の灯りを受けて淡く光っている。


「ええ」


 彼女は微笑んだ。


「皆様が、そうお決めになったのですもの」


 扉の隙間が狭くなる。


 オルヴァンが手を伸ばす。


 イリシアが泣き叫ぶ。


 貴族たちの声が黒い雨に混ざっていく。


 その最後の一瞬。


 完璧な公爵令嬢として育てられたミウゼリカ・ヴェルグレインは、ほんの少しだけ淑女の仮面を外した。


 子どものように、舌を出す。


「……べえ」


 方舟の扉が閉ざされた。


 音は、それきり届かなくなった。


 方舟の内側には、暖かな灯りがあった。


 広い船室のような空間に、毛布と水とパンが用意されている。老人が座り、子どもが眠り、侍女たちが寄り添っていた。王城の地下にあるはずなのに、どこか遠い海の上にいるように、床がわずかに揺れている。


 ネリスがミウゼリカのそばへ来た。


「お嬢様」


「怪我はありませんか」


「はい。弟も無事です」


「よかった」


 それだけ言って、ミウゼリカは扉に背を預けた。


 膝から力が抜けそうになる。


 ネリスが支えようとしたが、ミウゼリカは首を振った。


「大丈夫」


 大丈夫ではなかった。


 けれど、倒れるのは後でいい。


 方舟に乗せた者たちが、彼女を見ている。彼らは救われた。けれど、奪われたものが戻るわけではない。死んだ者は帰らない。壊された店も、踏みにじられた尊厳も、消えた歳月も、そのままだ。


 だから歓声はなかった。


 ただ、夜を越える者たちの沈黙があった。


 ネリスが小さく尋ねる。


「お嬢様は、つらくはありませんか」


 ミウゼリカは目を伏せた。


「つらいわ」


 その答えに、ネリスが息を呑む。


「でも、扉は閉めなければならなかった」


 方舟の外側で、黒い雨が降り続けている。


 雨音はもう聞こえない。


 けれどミウゼリカには分かっていた。あの雨は王城を流れている。大広間を満たし、廊下を走り、王座の足元まで黒い水を届けている。


 言葉にならなかったものが、今夜だけは水になる。


 誰かを沈めてきた空気が、今度は彼ら自身を沈める。


 ミウゼリカは長い息を吐いた。


「人を裁くのは、楽なのね」


 誰にともなく呟く。


「本当に、楽だった」


 ネリスは何も言わなかった。


 だからミウゼリカも、それ以上は言わなかった。


 夜は長かった。


 方舟の中で、子どもが一度泣いた。老人が祈りを唱えた。誰かが眠り、誰かが眠れず、誰かが扉を見つめ続けた。


 ミウゼリカは最後まで眠らなかった。


 母の言葉を思い出していた。


 ――方舟を閉じる者は、救う者ではありません。ただ、数える者です。誰を乗せ、誰を乗せないか。その重さを、最後まで抱える者です。


 夜明け前、方舟の揺れが止まった。


 長い静寂のあと、黒い扉の手形から光が消えていく。


 ミウゼリカは立ち上がった。


 ネリスがそばにつく。


「開けます」


 誰も止めなかった。


 扉が開く。


 朝の光が差し込んだ。


 礼拝堂には、誰もいなかった。


 血もない。


 死体もない。


 黒い水すら残っていない。


 ただ、石床と壁一面に、文字だけがこびりついていた。


 ――君は、そういう女だろう。


 ――皆が言っていた。


 ――空気を読め。


 ――聖女様がお可哀想。


 ――王太子殿下が選ばなかったのだから。


 ――あの女ならやりかねない。


 ミウゼリカは、その文字の上を歩いた。


 礼拝堂を出て、螺旋階段を上がる。廊下の壁にも、黒い文字は残っていた。大広間へ戻ると、水晶灯はすべて消え、床には無数の言葉が散らばっていた。


 そこにいたはずの貴族たちは、誰一人としていない。


 王太子も。


 聖女も。


 彼らを裁きの場へ集めた者たちも。


 何も知らないまま人を分け、全部知った顔で否定し、場の空気に身を任せて笑った者たちは、夜明けとともに消えていた。


 ミウゼリカは王座の間へ向かった。


 扉は開いている。


 王座は空だった。


 雨上がりの朝日が、赤い絨毯を薄く照らしていた。誰も座っていない席だけが、そこにある。


 ネリスが不安げに言う。


「お嬢様。これから、どうなさいますか」


 ミウゼリカは王座を見上げた。


 かつて彼女には、王太子妃の席が用意されていた。


 従順で、正しく、美しく、扱いやすい女として座るための席。


 そこに彼女はもう座らない。


 ミウゼリカ・ヴェルグレインは、愛されなかった令嬢だった。


 冷たい女。


 高慢な女。


 嫉妬深い女。


 救いようのない悪役令嬢。


 皆がそう呼んだ。


 ならば、その名で構わない。


 ミウゼリカは朝日に濡れた王座へ向かって、静かに微笑んだ。


「まずは、席を数え直しましょう」


 彼女の背後で、方舟を越えた者たちが息を呑む。


 新しい朝が、王城の窓から差し込んでいた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は「悪役令嬢」と「裁き」と「方舟」を組み合わせて、断罪される側だった令嬢が、本当に裁きの夜を迎えるお話にしてみました。


人は、相手のことを何も知らないまま「そういう人」と決めつけてしまうことがあります。

しかもそれが一人の悪意ではなく、場の空気や不文律として広がっていくと、誰も責任を取らないまま、一人を沈めることができてしまう。


ミウゼリカは、そんな空気に沈められ続けた令嬢です。

けれど最後に彼女がしたことは、単なる復讐ではなく、「誰を乗せ、誰を乗せないか」を数えることでした。


方舟の扉を閉ざす場面は、書いていて一番楽しかったです。

救いの場面のはずなのに、そこには歓声がない。

誰かが助かったからといって、失われたものが戻るわけではない。

その静けさまで含めて、このお話の味になっていたら嬉しいです。


今回も、とある曲の空気感を少し借りて作ってみました。

「全部わかった顔で裁くこと」への皮肉と、「べえ」の毒っ気が、悪役令嬢ものと相性が良すぎました。


少しでもゾクッとしていただけたなら幸いです。

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