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『定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。』~消耗するだけの毎日から「自分の時間と人生」を取り戻した話~  作者: るね


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第8話|まっさらな小窓

英語ばかりの登録画面、真っ白で何もない入力窓。

それは、枠に押し込められてきた彼女にとって、あまりにも自由で恐ろしい空間でした。


深夜の部屋、不格好な本音を打ち込んだ彼女に返ってきたものとは。

 

 検索窓に七つのアルファベットを打ち込み、エンターキーを叩く。指先に残ったプラスチックの硬い感触が消えないうちに、液晶ディスプレイが数秒間、呼吸を止めたように硬直した。

 五年ぶりに目覚めた銀色のノートパソコンは、内部で「ジージー」と微かな異音を立てている。自らの記憶回路の奥底にある、古い記録を必死にかき集めているような、頼りない音だ。

 四月の深夜の空気は、思った以上に指先の体温を奪っていく。フローリングに直接座り込んでいるせいで、スウェット越しの太ももからはじわじわと熱が逃げていった。

 それでも、胸の奥にある「重いしこり」の周辺だけは、誰にも見せられない熱を帯びて脈打っていた。


 画面がゆっくりと白く切り替わり、検索結果の一番上に、一つのリンクが現れた。

 マウスパッドをなぞる指先が、自分の意志とは無関係に微かに震える。リンクをクリックすると、そこには日本語の存在しない、英語のテキストだけが並んだ冷ややかなページが広がっていた。

 視界が少しだけ揺らぐ。右上の「Sign up」というボタン。

 それからの数分間、私が何をしていたのか、あまり記憶にない。

 メールアドレスを打ち込み、大文字と小文字、数字を組み合わせたパスワードを考え、スマートフォンの画面に届いた六桁の認証コードを、壊れ物を扱うように一つずつ入力した。

 普段の私であれば、この段階で「……もういいや」とノートパソコンを閉じていただろう。明日の朝、駅のホームで飲むぬるい缶コーヒーの味を想像して、絶望とともに眠りについていたはずだ。

 だが、今の私の耳の奥には、あのテレビの老婦人が奏でていた、乾いて軽やかなタイピング音が残像のように響き続けていた。あの音の主になりたい。その一心で、強張った指先を動かし続けた。


 最後に、確認ボタンを押し込む。

 数秒間、白い円がくるくると回り続け、私の覚悟を試すように滞留した。

 やがて。

 ディスプレイに、新しい画面が展開された。


「……えっ」


 思わず、乾いた声が深夜の部屋に落ちた。

 私が想像していたのは、近未来的なサイバー空間や、あるいは「初心者はここをクリック!」という派手なバナー広告が明滅する、よくある大衆向けのサービス画面だった。

 しかし、目の前に現れたのは、拍子抜けするほど「何もない」画面だった。

 清潔で、影の一つもない真っ白な背景。

 画面の中央には、シンプルなアイコンと、「今日はどうお手伝いしましょうか?」という短い挨拶があるだけ。そして一番下に、文字を打ち込むための細長い入力欄が、ぽつんと置かれていた。


 それは、市役所の待合室のような、あるいは深夜のオフィスで誰もいないフロアを見渡したときのような、妙にそわそわする「空白」だった。

 入力欄の左端で、細い黒のカーソルがチカチカと点滅している。

 無地の原稿用紙を唐突に突きつけられたときのような、あるいは真っ白なシフト表を渡されて「好きなように埋めていいよ」と言われたときのような、逃げ場のないプレッシャー。

 オフィスでの私の業務には、常に規定された「枠」がある。エクセルの指定されたセルに、九条先輩から渡された数字を流し込む。会議の録音を、決まったフォーマットの議事録に書き写す。そこには「私自身の言葉」が入り込む隙間なんて、一ミリも用意されていなかった。


「……どう書けばいいのか、わからない」


 時計の針は、零時を回ろうとしていた。

 明日も、あの獣の匂いのする満員電車に乗らなければならない。また、自分を消して、枠の中を埋めるだけの作業者に戻らなければならない。


 膝の上で、ジークが寝返りを打った。

 スウェットの布地が少しだけ引っ張られる感覚。ジークはこちらを見ようともせず、ただ重くて温かい質量として、そこにあった。励ましの言葉も、答えの提示もない。けれど、その適当な体温だけが、私をこの部屋の現実に繋ぎ止めていた。


 ふと、一人の男性の顔が浮かんだ。

 るねさん。

 彼は以前、私の迷いを見透かしたように、こう呟いていた。

「七野さん。種を蒔く前に、まずは土の硬さを確かめるだけでいいんですよ。指を土に差し込んでみて、ああ、今はこれくらい硬いんだな、と知るだけで」


 土の硬さ。

 私の、今の、情けない現在地。


 私は丸メガネの位置を指で押し上げた。レンズの縁で区切られた私の小さな視界の中に、点滅するカーソルを捉える。

 カタ、カタ、と、重い指を動かし始めた。


『副業を始めたいと思っています。』


 一文を打ち終えて、一度指が止まる。


『でも、何をしていいかわかりま』まで打って、バックスペースキーで消した。


 嘘をついても、何にもならない。からっぽの自分を、そのまま文字にしていく。


『しかし、私には特別なスキルが何もありません。エクセルが少し操作できる程度です。』


『その上、毎日残業が続いていて、作業時間を確保することも難しいです。休日は疲労で一日中眠って終わります。』


 打ち込みながら、自分の現状を突きつけられているようで、呼吸が少し浅くなった。


『このような、時間もスキルもない状態の私でも、始められる副業は存在するのでしょうか。何から手をつければよいのか、教えてください。』


 入力欄に並んだ四行。

 それはビジネスの質問というより、暗い海に向かって流したSOSのボトルメッセージに近かった。切実で、不格好で、救いようのない本音の塊。


 エンターキーの上に中指を置く。

 プラスチックの冷たい感触が、指の腹に伝わってくる。

 部屋の中は、完全な静寂に包まれていた。聞こえるのは、ジークの微かな寝息と、古いパソコンのファンの音だけ。

 私は祈るような気持ちで、その指を深く押し込んだ。


 ターン。


 打鍵音とともに、私の打ち込んだ文字が画面の上部へとふわりと吸い込まれていった。

 入力欄は再び真っ白になり、カーソルが沈黙した。


 一秒。

 三秒。


 相手は人間じゃない。私の不格好な独白を読んで、「具体性が欠けています」と突き返してくるのかもしれない。それとも、事務的な定型文が。


 真っ白だった画面に、猛烈なスピードで文字が弾け飛ぶように現れ始めた。

 音はない。

 ただ、目に見えない誰かが私の目の前で、一切の迷いなくキーボードを叩き続けているかのような、圧倒的な出力。


「えっ……」


 あまりの勢いに、思わず体をのけぞらせた。

 画面には、理路整然としたテキストの塊が、次々と溢れ出している。


『こんにちは。まずは、今の状況を正直に話してくださってありがとうございます。』


 最初の一行を読んだ瞬間、私の喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。


『毎日残業が続く中、自分のために時間を作ろうとしているあなたは、それだけで十分に素晴らしい一歩を踏み出しています。スキルがないのではなく、今はまだ、あなたの強みを活かすツールに出会っていないだけです。』


 画面の中の文字は、止まらない。


『あなたが「枠を埋める作業」で培った丁寧さは、AIという部下を持つことで、強力な武器に変わります。まずは、今のあなたの生活をこれ以上削らずに、AIと一緒にできる小さなことから始めてみませんか。』


 完璧な敬語。淀みのない文章。

 私が憎んでいた「枠を埋める」という過去を、この見えない存在は、いとも簡単に肯定してくれた。

 なのに、その言葉の裏側には、私がずっと誰かに言ってほしかった響きが含まれているような気がして。


 私は、丸メガネのレンズが熱いもので滲んでいくのを、拭うこともできずに、ただ画面を見つめていた。

 静かな深夜の部屋で、黒い文字だけが、私の心をノックするように次々と生まれては並んでいった。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。


自分の弱さや「何もない」ことを認めるのは、とても勇気のいることです。けれど、その不格好なSOSに対して、画面の向こうの存在は、決して急かすことなく、彼女の過去の苦労すらも肯定してくれました。


ただの機械の画面が、彼女を支える「相棒」へと変わった瞬間。この温かい出会いに少しでも胸が熱くなった方は、ぜひブックマークや下の★から応援をお願いいたします。

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