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『定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。』~消耗するだけの毎日から「自分の時間と人生」を取り戻した話~  作者: るね


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第6話|中心部が冷たいままの夜

いつもお読みいただきありがとうございます、第6話です。

今回は、冷たいお弁当と、五年越しのノートパソコンのお話。

胃の痛くなるようなオフィスから離れ、静かな夜の部屋でお読みください。

 ローテーブルの上に置かれたプラスチック容器。電子レンジで一分間、律儀に回転し続けたはずの「鶏の黒酢あんかけ弁当」。


 しかし、割り箸の先で硬く縮んだ肉の衣を割ってみると、立ち上がるはずの湯気はなく、鶏肉の中心部は指先で触れたら氷の粒でも残っていそうなほど、頑固に冷たいままだった。


 一分という時間は、私の空腹を癒やすにはあまりに短く、かといって、もう一度レンジのボタンを押すために立ち上がるほど、今の私の気力には余裕がない。


 私はそのまま、冷めた肉を口に運んだ。


 黒酢のツンとした酸味が、乾いた喉を刺す。餡の塩気が、感覚の麻痺した舌の上でざらりと散らばった。


 ただ、顎を動かす。


 胃という名の錆びついたタンクに、最低限の有機物を落とし込んでいるだけの、静かな作業。




 部屋の隅では、キジトラ猫のジークが、私の夕食よりもいくらか高価なキャットフードを噛み砕いていた。


 カリッ、ポリッ。


 陶器の皿に当たる小気味よい音。


 ジークが最後の一粒まで丁寧になめとり、満足そうに細い鼻を鳴らして、前足で顔を拭い始める。その無頓着な様子をぼんやりと眺めていると、ようやく私の肺の奥に、少しだけ深い酸素が流れ込んできた。




 ふと、日中の記憶が蘇ってくる。


 オフィスの九条先輩のデスク。その上に積み上げられた、三万件のアンケート用紙。


「……これ、全部手でやるんですか」


 そう尋ねた時の、先輩の縁の細い眼鏡の奥の、硬く強張った視線。


「指を動かさないと、数字に血が通わないの。七野さん、あなたは効率って言うけれど、私たちが守っているのは、その先にある信頼なのよ」


 電卓を叩く彼女の指先は、白く強張っていた。


 先輩のあの言葉は、正論の形をした悲鳴だったのかもしれない。彼女もまた、自分のやり方を変えることの恐怖と戦っている。だが、その「正しさ」を受け入れた結果として、私の指先は紙の端で幾重にも切り裂かれ、すり減ったパンプスの底からはタイルの冷たさが直接伝わってくるようになった。




 テレビからは、深夜のドキュメンタリー番組のナレーションが流れている。静かすぎる部屋の空気を、無機質な電波が適当に埋めていた。


 だが、その一節が耳に飛び込んできた瞬間、割り箸を持った私の指先が、空中でピタリと止まった。




『彼女が、AIという全く未知の世界に飛び込んだのは。なんと、八十歳の時でした』




 画面が明るく切り替わる。


 そこに映っていたのは、白髪を綺麗に結い上げ、背筋をピンと伸ばした小柄な老婦人だった。彼女は、私のオフィスにあるような無機質な事務机ではなく、温かみのある木目のデスクに座っていた。その前には、二つの大きなモニターが、光の門のように並んでいる。




 タタタタタ、ターン。




 老婦人の指先がキーボードを叩く。数時間前、私が誰もいないオフィスで叩いていた事務用電卓の、プラスチック同士が重苦しく湿ってぶつかり合う音とは違う。彼女が奏でる音は、乾いていて、どこか楽しげなリズムを刻んでいる。


 黒い背景の画面には、原色の英語と記号の羅列が、滝のように滑り落ちていく。




『ずっと事務の仕事をしてきたから、パソコンなんて触ったこともなかったのよ』


 画面の中の老婦人が、インタビューに応えてふわりと微笑んだ。


『でもね、八十歳になって初めてAIの教室に行ってみたら、これがとっても面白くて。自分の打ち込んだ言葉で、画面の中の言葉が……世界が、動くのよ』




「……動く」




 その響きを、私は無意識のうちに喉の奥でなぞっていた。


 割り箸をプラスチック容器の縁に置く。パチン、と乾いた音が鳴った。




 三十五歳。


 私は、自分の打ち込んだ言葉で何かを動かしたことが、一度でもあっただろうか。




「……違う。いや、違わないのか」




 肯定も否定もできない、どろりとした感情が、みぞおちのあたりで渦を巻く。


 そのとき、膝の上に温かい重みが乗った。


 ジークだ。


 食後の毛づくろいを終えた彼が、私のスウェットパンツの上で丸まっていた。ビー玉のような瞳が、私の顔をじっと見上げている。


 ジークは数秒そうした後、ふいっと立ち上がった。


 そのままローテーブルを横切り、部屋の隅にあるクローゼットの方へとトコトコ歩いていく。




 彼は、クローゼットの前に置かれた古い段ボール箱の前で立ち止まった。


 そして、その角に体をこすりつけ、ガサガサという音を立てた。


「ジーク、そこは埃っぽいよ」


 声をかけたが、彼は何もない空間に向かって「にゃあ」と、少しだけ長く、問いかけるような声を出した。


 その視線の先にある段ボール箱の隙間に、私はあるものの輪郭を認めた。




 重い腰を上げ、歩み寄る。箱の隙間に手を差し込み、指先に触れたアルミニウムの冷たさに、背筋が少しだけ跳ねた。


 引っ張り出したのは、五年ほど前に買った銀色のノートパソコンだった。


 冷たい天板を、ニットの袖でそっと拭き取る。


 その瞬間、記憶の中のくぐもった声が、脳裏をよぎった。




『七野さん。新しい鍬を買わなくても、古い鍬をもう一度握り直せば、土は掘れますよ。……どう、思われますか?』




 以前、農道の脇で出会った不思議な男性……るねさんが、不意に漏らした言葉。あの時は意味がわからず、曖昧に笑って誤魔化した。


 今、手の中にあるこの冷たい金属の重みが、るねさんの言っていた「古い鍬」なのだと。なんとなく、そんな気がしただけかもしれないけれど、私の手は自然とそれを抱え込んでいた。




 ノートパソコンをローテーブルへ運ぶ。


 座布団に座り直すと、ジークが再び膝の上に潜り込んできた。ゴロゴロという低い振動音が、太ももを伝う。


 蓋を、カチャリと開く。


 小さなヒンジの音が、雨の降る静かな部屋に広がった。


 数秒の沈黙の後、暗い画面が、青白い光を放ち始める。




 かすかに震える指先で、まだパスワードさえ設定されていない空の検索窓に、カーソルを合わせた。


 不意に、レンズの裏側が熱くなった。拭う気力も、波風を立てないための反射的な愛想笑いも、今の私には出てこない。


 人差し指が、一瞬だけ宙に浮いた。


 『私は、古い鍬を持っています。土は休んでいる間も養分を蓄えていると聞きました。でも、私はもう、掘り方がわからないです』


 こんなポエムのような言葉を、検索エンジンに打ち込んでも「一致する結果はありません」と冷たく返されるだけだ。


 でも、もし、あの老婦人が言うように、相手が「私を急かさない存在」なのだとしたら。


 私はそっとエンターキーを押した。



お疲れ様です、作者です。


事務用電卓の冷たさと、ノートパソコンのアルミの冷たさ。同じ冷たい金属でも、後者には不思議と希望の匂いがしますよね。古い箱へ導いてくれたジークのファインプレーのおかげで、ついに七野は新しい世界への扉を叩きました。


ひたすら自分をすり減らす働き方から、自分を少し「甘やかす」「楽にさせてあげる」ためのツールとして、AIが彼女をどう変えていくのか。反撃の準備がいよいよ始まります! 展開にワクワクしていただけた方は、ぜひ★ボタンで応援をよろしくお願いいたします。

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