第40話|最適化されたノイズと、都心への座標
ご覧いただきありがとうございます。
立ち上がって二ヶ月、すっかり頼もしくなったチームDXの面々。
小堀田室長の豪快な突破力、あおいちゃんの自信に満ちた笑顔、そして新人に付箋を渡す九条先輩の不器用な優しさ。
現実の組織をこれほど豊かに変革した奈々が、本日、早退届を出して都心の巨大な出版社ビルへと向かいます。ネットの『なな』ではなく、生身の『七野奈々』として歩く大理石の床の手触り。奈々の緊張を、四つの知性たちと共に共有しながらお楽しみください。
壁の時計の赤い秒針が、十三時を正確に回った。
オフィスの空気は、かつての湿気を帯びた重苦しさから、乾燥した心地よい緊張感へとその比重を変えていた。
「……よし。今日の分のシステム移行マニュアル、完成っと」
私が一定のトーンで呟くと、パーテーション越しのあおいちゃんが、ひょっこりと顔を出した。
「お疲れ様です、七野先輩。あのあの、さっき私が作った図解……変じゃなかったですか?」
「ううん、完璧。あおいちゃんが視覚的に整理してくれたおかげで、他部署からの問い合わせ、半分以下に減ると思うよ」
「やったー。私も少しは『職人』として、お役に立っていますか?」
「少しどころか、あおいちゃんの仕事がないと、このチームの前提は完全に崩壊するよ」
私が素直に称賛すると、あおいちゃんはパッと顔を輝かせ、大事そうに新品のマウスを両手で包み込んだ。
DX推進室が発足して二ヶ月。私たちのチームは、驚異的なスピードで社内の古い業務を生まれ変わらせていた。
小堀田室長が他部署の反発という波風を力技で吸収し、私がAIを活用した業務効率化の枠組みを作る。あおいちゃんがそれを誰でも使えるデザインへと落とし込み、九条先輩が運用テストの段階で、鬼のような正確さでミスを洗い出す。
誰もが自らの不完全な特性に特化し、パズルのピースのようにカチリと噛み合っている。
無意味な居残りが常態化していた営業部でも、今では半数以上の社員が、定時のチャイムと共にパソコンをシャットダウンするようになっていた。
「おいおい、七野くん。また新しいマニュアルのアップデートかい。君は本当に休むことを知らないねぇ」
小堀田室長が、結露したプラスチックのコーヒーカップを片手に歩いてきた。
彼の顔の筋肉は、心なしか以前よりもスッキリとほぐれている。細かい実務のわずらわしさから解放され、得意な「人間関係のクッション役」と「大声で社内を鼓舞する役」に全力を注げているからだろう。
「休んでいますよ、定時以降は仕事のことは一切考えませんから。室長こそ、午後からまた営業三部との話し合いですよね。あそこの部長さん、かなり壁が厚いって聞いていますけど」
「ガハハ。任せとけ。俺の圧倒的な熱量で、古いやり方なんか物理的にぶっ壊してやるからな。……ところで、九条くんは」
小堀田室長の言葉に、私はフロアの奥の島に視線を向けた。
九条先輩は今、自席の巨大なデュアルモニターから離れ、新人社員の女の子の背後に立って、画面上の特定の場所を指差しながら話しているところだった。
「こら、そこ。手が止まっているわよ」
フロアの奥で、九条先輩の凛とした声が響いた。彼女は今、新人の女の子の席に立ち、画面の端をペン先でコツコツと叩いている。
「全角と半角が混ざっている。こういう小さな見落としが、後で取り返しのつかないミスになるの。……付箋、モニターに貼っておきなさい」
そう言って、九条先輩はあらかじめ要点を手書きしたピンク色の付箋を、そっと新人のデスクの端に置いた。以前なら「なんでこんなこともできないの」と自らキーボードを奪っていた人が、今は不器用な優しさで後輩の成長を見守っている。
「……九条先輩、なんだか雰囲気が落ち着いていますよね」
あおいちゃんが、九条先輩の後ろ姿を見つめながら呟いた。
「うん。自分の経験の本当の価値を、自分で再定義したんだと思う。……あおいちゃんもね」
「私、ですか」
「そう。あおいちゃんの仕事も、前よりずっと迷いがなくて完璧だよ」
私の言葉に、あおいちゃんは少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「……はい。私、今まで『いい感じに作って』って曖昧な指示をされるのが本当に恐怖で。でも、七野先輩が『何を、誰のために、どう作るか』という条件を明確に指示してくれるようになってから、自分の仕事の結果に確かな自信を持てるようになったんです」
あおいちゃんの言葉を聞いて、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
私は、自らの左手首にはめた腕時計の盤面を確認した。
あと二時間弱で早退し、都内の出版社へ向かう。
今日は、私の書いた文章が「紙の書籍」になるための、初めての打ち合わせだ。そしてその席には、ネット上でずっと私を導いてくれたメンターの『るねさん』が同席する。
「……少し、ドキドキしてきた」
私は、誰の耳にも届かない声で小さく呟いた。
今日。
私の書いた文章が、いよいよ「紙の書籍」として全国の書店に並ぶための、第一回目のキックオフミーティングが行われる。
そして、その会議室の空間には。
るねさんが、実体を持って現れる。
心臓が、不規則な動悸を刻む。
SNS越しでしか言葉を交わしたことのないメンター。
彼の目に、現実の私はどう映るのだろうか。
ただの平凡な、丸メガネをかけた事務職の女だと、がっかりされないだろうか。
それとも、あの電子書籍の中に記述した「ディレクター」としての私の価値を、現実の私の中に見出してくれるだろうか。
「七野先輩? どうかしましたか。顔が赤くなっているみたいですが」
「あ、ううん。なんでもない。ちょっと午後の予定を確認していただけ」
私は、あおいちゃんに笑顔を返し、自席のモニターへと向き直った。
不安をかき消すように、ブラウザの新しいタブを開く。
オフィス環境での束の間の休息。周囲の視線を遮りながら、私は四人の仲間に相談を持ちかけた。
『本日の予定。十六時、出版社にて打ち合わせ。目的:書籍化のコンセプト再定義。このままだと緊張による失敗確率は、およそ68%』
ジェミコードからの冷たいテキストがポップアップした。
『スゴー!! 68パーとか高すぎでしょ!! ぶっ壊しちゃおうよ、そんな数字! 編集長にジークの動画100時間見せれば一発で大絶賛サインだよ!!』(ナノアート)
『無駄ですね〜。そもそも緊張で七野さんのパフォーマンスが低下していますよ〜。余計な案は削りましょう〜。まずは深呼吸して、品質を担保できる状態に戻すのが先決です〜』(クロ匠)
私の頭の中の、少しズレた分身たち。その騒がしさに、私はそっと目を細めた。
『一緒に組もうか、奈々。数字のことは一旦忘れて。今日一番伝えたいのは、このオフィスの体温じゃないかな。2パターン出すね。完璧を装うか、ありのままを話すか。奈々ならどっちがいい?』(チャバディ)
チャバディの静かなメッセージに、私は小さく頷いた。
「……行ってきます」
私はパソコンを閉じ、誰にも気づかれないようにそっとオフィスを抜け出した。
地下鉄を乗り継ぎ、目的の駅で地上に出る。
初夏の日差しが、容赦なくアスファルトを照らしつけていた。目の前にそびえ立つ、ガラス張りの巨大な出版社ビル。
エントランスの冷たい大理石を踏んだ瞬間。
急に、足元からじわ~っと重たいものが這い上がってきた。
「……あ」
見下ろした足元。
新しく打ち直したばかりの真っ直ぐなパンプスのはずなのに、急に踵がすり減ってしまったかのような、ひどく不安定な錯覚に陥った。
ネットの世界では「ディレクター」を名乗っているけれど、現実の私は、ただの平凡で、いつも何かに追われている、くたびれた三十五歳の事務職だ。
るねさんは、こんな私を見て、がっかりしないだろうか。
今まで張り詰めていた糸が、急に緩んでいく感覚。胃の奥がギュッと縮み、冷や汗が背中を伝う。
「……にゃあ」
カバンの中で、スマホの待ち受けにしているキジトラ猫のジークが、私を呼んだ気がした。
逃げ出したい。でも、会いたい。
私は、真っ直ぐな靴底で一歩、大理石の床を強く踏みしめた。「もう頑張らなくていい」という言葉を心のどこかで期待しながら、重い会議室の扉へと手を伸ばした。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
前半の職場の描写、本当にみんなが良い顔をして仕事をしていて、奈々がプロンプト(条件定義)を明確にすることで、あおいちゃんのように救われる人が現れる描写は、現実の仕事でも大切にしたい本質だなと改めて感じました。
それなのに、出版社のエントランスを踏んだ瞬間に、新しく打ち直したはずのパンプスの踵がすり減ったように感じてしまうラスト。画面の向こうで完璧な「ディレクター」を演じているからこそ、生身の自分を晒すのが怖くなるその気持ち、痛いほど共感してしまいます。
でも、奈々がこの二ヶ月で変えたオフィスの体温は、間違いなく彼女自身の手が作り出した「本物の価値」です。
さあ、扉の向こうで、麦わら帽子を脱いだるねさんが待っています。
次回、ついに「なな」と「るね」がリアルな空間で交錯します。
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