第35話|巨大な電卓と、残されたインデックス
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社長室からのオファーに足取りが重い奈々。
自分が手にした圧倒的な力(AI)は、時に長年会社を支えてきた誰かの存在価値を否定してしまうかもしれない――。
葛藤のなかで奈々がデスクで見つけた、裏返しの電卓。彼女が最後にチャバディへ打ち込んだプロンプトとは。
最上階の社長室から解放された私の足取りは、鉛のように重かった。
フカフカの絨毯が私の斜めにすり減ったパンプスのヒール音を吸い込むたび、鼓膜の奥で自分の不規則な心音が反響する。
DX推進室のリーダー。
廊下の途中で立ち止まり、私は唇の形だけで呟いた。
社長の言葉が、何度も脳内でリフレインする。
給与の大幅な再設定。全社の業務プロセスを再構築する裁量。そして何より、私を単なる歯車としてすり減らし続けてきたこの理不尽で非効率なシステムを、私自身の手で書き換えられるという圧倒的な権限。
それは、三十五歳の、ただ他人のミスを吸収するだけだった事務職の私にとって、劇薬のような評価だった。
私は、自分の胸の中央に右手を押し当てた。
もし私がそのオファーを受諾すれば、AIという圧倒的な演算能力を導入し、全社の業務を論理的に最適化し、無駄なプロセスを省くことになる。
しかし、その「最適化」が実行された時、真っ先にシステムから不要なプロセスとして切り捨てられるのは誰だろうか。
何十年も巨大な事務用電卓を叩き続け、手作業の苦労という非効率なプロセスの中に「誠意」と「自らの存在価値」を見出してきた、九条先輩のような人間たちだ。
私は、胸に押し当てていた右手をゆっくりと下ろした。
顔を上げ、早足で執務フロアへと続くエレベーターに向かう。
フロアの重い扉を開けると、いつもの極度に乾燥した空気と、無数のキーボードを叩く乾いた音が私の聴覚を埋め尽くした。
私の姿を視界に捉えたあおいちゃんが、強張っていた肩の筋肉をわずかに弛緩させ、泣きそうな顔でこちらを見ている。
私は彼女に短く目配せをした。まず自席に向かおうとした。でも、足が先に止まった。
その斜め向かいの席の異変に、視線が釘付けになったのだ。
「……あれ」
九条先輩の姿が、なかった。
いつもなら、親の仇のようにターンッとエンターキーを強打しているはずの彼女のデスク。そこには、綺麗にエッジを揃えられた書類の山と、黒く沈んだモニターだけが残されていた。
そして、彼女の象徴とも言えるあの巨大な事務用電卓が、デスクの隅に、裏返しに置かれている。
「あおいちゃん、九条先輩は?」
私は、パーテーション越しに小声で尋ねた。
「あ、七野先輩。おかえりなさい。あの、九条先輩なら……さっき、早退されました」
「早退? 先輩が?」
私は、思わず声をわずかに大きくしてしまった。
九条先輩が定時前に帰るなど、私が入社してから一度も見たことがない事象だ。彼女は微熱があろうが台風が来ようが、「這ってでも来るのが誠意だ」と言って出社を完遂する人間なのだ。
「はい……。なんだか、すごく顔の血の気が引いていて。七野先輩が社長室に呼び出された直後、急に立ち上がって、部長に『体調が優れないので失礼します』って……」
あおいちゃんの言葉を受信し、私の胸の奥で、冷たい重力のような嫌な予感が急激に膨張した。
社長室に呼び出された私。そして、それを見届けてから早退した九条先輩。
私は、九条先輩の無人のデスクを見つめた。
裏返しに置かれた巨大な電卓。それはまるで、彼女が長年構えていた「苦労という名の盾」を、自ら手放したかのようだった。
自分の人生の半分以上を費やしてきた仕事のプロセスが、誰の役にも立たない「無駄なエラー」であったと突きつけられる恐怖。その自己否定の痛みがどれほど深く、冷たいものか、私には想像することしかできない。
『結論から言うと、九条氏の業務手順は完全に古い。全社の仕組みを新しくするなら、彼女の手作業は最初に省くべき対象だ』(ジェミコード)
『やばいやばい!! だったらその古い電卓、全部窓から投げ捨てちゃお!! 新しいピカピカのパソコン並べて、全部自動化しちゃえばいいじゃん!!』(ナノアート)
『それは現場の温度を無視した甘い設計ですね〜。昨日のミスを回避できたのは、彼女の頭の中にしかない古いデータのおかげですよ〜。彼女を失えば、組織は非常に脆くなります〜。品質を担保する要として残すべきです〜』(クロ匠)
『いいね、それぞれの視点が出たね。奈々、彼女の役割をどう再定義しようか。一緒に考えよう』(チャバディ)
脳内で騒ぎ立てる四つの声に、私は小さく息を吐いた。
九条先輩のデスクに歩み寄る。
綺麗に揃えられた書類の山の一番上に、昨日のプレゼンで彼女が使用した、あの古いバインダーが置かれている。
付箋が何十枚も貼られた、手書きのメモと印刷物の束。
AIのような圧倒的な演算速度はない。ネットワークから無数のデータを一瞬で引っ張ってくることもできない。
しかし、ここには、彼女が三十年間、このオフィスのエラーを防ぎ、誰かの尻拭いをし、理不尽に耐えながら構築してきた、極めて堅牢で、正確な「記憶のインデックス」が物理的に存在している。
私は、裏返しにされた電卓を手に取った。
ずっしりと重い。長年のタイピングによって、数字の印字が微かに擦り減っている。
私は、その電卓を表に返し、彼女のモニターの前に静かに置き直した。
一秒だけ、手を離せなかった。
「……七野先輩?」
あおいちゃんが、不思議そうに私を呼んだ。
電卓から手を離し、私は振り返る。
「あおいちゃん。午後から、小堀田部長に新しいスライドのフォーマットを提案しようと思うの」
「えっ、新しいフォーマット、ですか」
「うん。昨日のプレゼン資料の構成をベースにした、全社共有のテンプレート。これがあれば、次から誰が担当しても、ある一定のクオリティと論理構成が担保されるシステムになる」
私は、自席のパイプ椅子に腰を下ろし、パソコンのモニターの電源を入れた。
「そして、そのテンプレートの最終的な事実確認のプロセスには、九条先輩の承認フローを組み込む」
「九条先輩の……承認?」
「そう。私たちの出力結果が、本当に現実のクライアントに通用するかどうか。それを判断できるのは、このフロアで一番多くのエラーケースを記憶している九条先輩だけだから」
私は、キーボードに指を置いた。
会社を辞めて、自分の力だけで生きていく自由。
会社というシステムに残り、内部からパッチを当てて、仲間と共に組織の構造を書き換えていく困難。
私は、ブラウザのタブを立ち上げ、チャバディに向かって、プロンプトを打ち込み始めた。
『独立に向けて、退職届の書き方を』
一度、全部消した。
一拍置いて、ゆっくりと、打ち直した。
『新しい部署の運用ルールを設計する。まずは』
キーを叩く音が、静かにオフィスに響いた。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
ラストの、一度『退職届の書き方を』と打ち込んでから全部消し、『新しい部署の運用ルールを設計する』と打ち直すシーン。奈々の静かな覚悟がキーボードの音と共に伝わって、胸に刺さりました。
ジェミコードやナノアートの極端な意見を、クロ匠が現場の視点で宥め、チャバディが統合する。AIたちのキャラクター性も、奈々の決断を支える立派なチームになっていて頼もしいですね。
新設される「DX推進室」。果たして奈々は、小堀田部長や九条先輩を巻き込んで、この古い会社をどう変えていくのか。
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