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『定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。』~消耗するだけの毎日から「自分の時間と人生」を取り戻した話~  作者: るね


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第32話|グラスの水滴と、初めての質量

いつもお読みいただきありがとうございます、第32話です。

怒涛の一日を終えた七野に、最高の「ご褒美」が届きます。

冷たいビールの水滴と、彼女が手にした初めての「1」の重みを、ぜひ一緒に噛み締めてください。

 カフェの大きなガラス窓の向こう、空はとっくに重たい濃紺へと沈み、駅前のロータリーを街灯のオレンジ色が照らし出していた。

 私たちは駅前の小さなイタリアンレストランに入り、壁際のテーブル席で、水滴がびっしりとついた冷たいビールのグラスを傾けていた。


「……本当にお疲れ様でした」


 あおいちゃんが、両手でグラスを持ち上げた。

 指先が、まだほんの少しだけ震えている。


「お疲れ様。あおいちゃんのスライド、最高だったよ。乾杯」

「カンパーイっ」


 カチン、と分厚いガラスが重たい音を立てる。

 よく冷えた液体を喉の奥へ流し込む。炭酸の刺激が食道を通って、今日一日、ずっと鉛のように強張っていた胃の奥を、じんわりと解きほぐしていくのがわかった。


「七野先輩。私、今日……途中で本当に逃げ出したくなりました」


 あおいちゃんは、取り分けた生ハムのサラダをフォークでつつきながら、ポツリとこぼした。


「でも、プレゼンが終わった後。先方の役員の方が『わずか数時間でここまで当社の課題を言語化してくるとは』って言ってくれたじゃないですか。あの瞬間……なんだか、息ができるようになった気がして」

「うん、そうだね。午前中のあの絶望的な空気から、あそこまで持ち直せるなんて思わなかった」

「ですよね。部長のあの腹の座った挨拶と、七野先輩の言葉と……そして何より、九条先輩のあの紙の資料。あれがなかったら、本当に終わっていました」


 あおいちゃんは、少しだけ声を潜めて、グラスの縁を指でなぞった。


「私、今まで九条先輩のこと、ただ自分のやり方を押し付けてくる怖い人だって思っていました。でも……違いましたね」

「……うん」


 私は、プレゼンを終えてオフィスへ帰る道すがら見た、九条先輩の背中を思い出していた。

『勘違いしないで。私はただの事務よ』とそっけなく言い捨てた彼女の横顔。

 膨大な時間をかけて、何万枚もの紙をめくり、何千回も電卓を叩いてきたという、彼女だけの孤独なプライド。それは決して、私たちへの嫌がらせなんかじゃなかったのだ。


「先輩は先輩のやり方で、私たちに『盾』を貸してくれたんだよ。すごく不器用で、重たい盾だけどね」

「ふふっ。確かに、すごく分厚くて重そうでした」


 私たちは小さく笑い合い、ピザの端を口に運んだ。

 チーズの塩気が、疲れた身体に心地よく染み渡る。

 夜の副業で、モニターの中の『彼ら』から学んだこと。相手の適性を見極め、言葉で翻訳して、点と点を繋ぎ合わせる。それが、ディレクターという役割なのだと、今日、現実のオフィスで初めて実感できた気がする。


 ブーッ。


 ふいに、テーブルの隅に裏返して置いていた私のスマートフォンが、短く振動した。

 画面を表に返すと、Amazon KDPからの自動送信メールのプッシュ通知が表示されていた。

 今日のお昼過ぎに受信した『審査完了』のシステムメッセージに続く、新たな通知。


『おめでとうございます。あなたの書籍が初めて購入されました』


「……えっ」


 私の喉の奥から、ヒュッと空気が漏れるような音が鳴った。

 周囲の喧騒が一瞬にして遠のき、世界が真空になったように感じた。


「七野先輩? どうかしましたか?」

「あ……ううん」


 私は慌ててスマホを手に取り、テーブルの下に隠すようにして、メールの文面を凝視した。

 見間違いではない。

 私の書籍が、購入された。

 出版ボタンを押してからわずか数時間。広告も打っていない、フォロワーもいない、ただの無名の初心者が書いたテキストデータが。


 肋骨の裏側で、心臓がバクバクと暴れ始めた。

 誰だろう。一体どこのネットワークの海を経由して、誰が私の本を見つけ、ワンコインという対価を支払ってくれたのだろう。

 その見知らぬ誰かは今、私が紡いだ文字列を読んでくれているのだろうか。あのクロさんがそっと血を通わせてくれた『はじめに』の文章に触れて、「これは自分のことだ」と思ってくれているだろうか。


『奈々! 見た!? 売れたよ! 初陣で勝利だよ!!』

 脳内で、絵師のバナナンがクラッカーを鳴らして飛び跳ねる。

『……サンプルとしての一件に過ぎませんが、ゼロからイチを生み出した事実は、確率論的にも極めて大きな進歩です』

 論理のジェミーが、いつになく早口でデータを出力する。

『ふふっ。無駄じゃなかったですね、あなたの夜の時間は』

 職人のクロさんが、優しく目を細める気配がした。


 私は、微かに震える親指でKDPのダッシュボードを開いた。

 これまでゼロのまま横ばいだった灰色の折れ線グラフが、確かな角度を持って上向きに折れ曲がり、そこに「1」という数値が刻まれていた。

 金額にして、数百円。

 たった数百円だ。

 けれどそれは、私が三十五年の人生で初めて、会社という大きな看板に頼らず、誰の顔色も窺わず、自分自身の手で耕した土から芽吹いた、何よりも重くて、確かな質量を持つ「1」だった。


「……七野先輩? 本当に大丈夫ですか。なんだか、目が赤いですよ……」


 あおいちゃんが、心配そうに覗き込んでくる。

 私は、スマホを両手でギュッと握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 きっと今、ひどく不格好な顔をしていると思う。


「あおいちゃん。私ね……」


 言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。

 夜の副業のこと。自室のモニターにいるAIの彼らのこと。それを今、あおいちゃんに打ち明けることもできる。

 でも、これはまだ、私だけの秘密にしておきたかった。この小さな「1」の重みは、私が自分一人の足で立って、静かに噛み締めたい。

 家に帰ったら、ベッドの上で丸くなっているキジトラ猫のジークの背中に顔を埋めて、一番に報告するんだ。


「ちょっとだけ……嬉しい通知が、あったの」


 私は、ゆっくりと口角を上げた。


「ずっとやりたかったことを始めて、それが今日、ほんの少しだけ形になったみたい」

「やりたかったこと……」

「うん。会社とは全然関係ない、私だけのちっぽけなことだけどね」


 あおいちゃんは少しだけ目を丸くして、それから、パァ~ッと顔を輝かせた。


「すごいです。先輩、最近すごく変わったなって思っていたのですけど……そういう、自分のための時間を持てたからだったんですね」

「かもしれない。だから、これからも絶対に、定時で帰るよ」

「はいっ。私、ついていきます。定時退社同盟ですね」


 あおいちゃんは、水滴のついたビールグラスを両手で包み込むようにして持ち、幸せそうに笑った。

 私も、自分のグラスをそっと持ち上げる。

 二人の分厚いグラスが、再びカチ~ンと心地よい音を立てた。


 店を出ると、初夏の夜風が火照った頬を撫でていった。

 少しだけ土の匂いが混じった風。

 壁の時計は、二十一時を回ろうとしていた。


 ふと見上げた夜空に、星は見えなかったけれど、私の心の中には、確かな光が灯っていた。

「君のペースでいい。少しずつ、土を作ればいいよ」

 AI職人のるねさんがかけてくれた言葉が、夜風に溶けていく。


「お疲れ様でした、七野先輩。明日も、よろしくお願いします!」

「うん。お疲れ様、あおいちゃん。気をつけて帰ってね」


 駅の改札で手を振り合い、私たちはそれぞれの家路についた。

 新しく打ち直されたパンプスのヒールが、アスファルトを心地よく叩く。

 明日も、明後日も、きっと理不尽な仕事は降ってくる。

 でも、今の私には、夜の静寂の中で待ってくれている「彼ら」がいる。私だけの、小さな土がある。

 だから、もう大丈夫だ。

 私は、ポケットの中のスマートフォンの確かな重みを感じながら、真っ直ぐに夜の街を歩き出した。


お疲れ様です、作者です。


KDPで初めて「1」の数字を見たときの、心臓が跳ねるようなあの感覚。七野を通して、どうしても書き留めておきたかった瞬間です。

帰ったらジークに一番に報告するという描写に、彼女の日常の温かさが戻ってきたことを感じていただけたら幸いです。


これにて、七野の「秘密の編集部」立ち上げと初出版の物語はひとまずの区切りとなります。不器用な彼女とカオスなAIたちの奮闘を応援してくださった皆様、本当にありがとうございました! ぜひ最後に、★ボタンで七野の門出を祝してあげてください!

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