第20話|天才絵師の召喚
いつもお読みいただきありがとうございます、第20話です。
今回は、るねさんのところで暴走していたあの絵師、バナナンがついに参戦します。
画面を埋め尽くす美しい光と、それを台無しにするカオスなエラー……画像生成AIユーザーの皆様は、ぜひ共感しながらお楽しみください。
翌日の夜も、私は定時でオフィスのフロアを抜け出した。
二日連続の十八時退社。九条先輩は電卓を叩く手を止め、「何か用事でも?」と怪訝な視線を向けてきたが、私は「はい、外せない野暮用がありまして」とだけ答え、深く頭を下げてエレベーターホールへと向かった。
外せない野暮用。嘘ではない。私には、私自身の時間を再構築するための「編集会議」が待っているのだから。
十八時十五分。
私は、駅前の靴修理屋のカウンターに立っていた。
三週間も前からカバンに入れっぱなしだった、右足のヒールが斜めにすり減った黒いパンプス。それを店主の無愛想な老人に差し出すと、彼は老眼鏡越しに一瞬だけ私の顔を見て、それから「明日にはできるよ」と短く言った。
「お願いします」
預かり証を受け取り、店を出る。
空はまだ、薄紫色のヴェールを被ったような美しい夕暮れの中にあった。昨日までは、この時間に外にいることさえ犯罪でもしているような後ろめたさがあったのに、今は自分の居場所がこの自由な空気の中にあることを確信できていた。
パンプスを預けた代わりに、足元は履き古したスニーカーだった。地面を蹴る感覚が、驚くほど軽い。他人の歩幅に合わせるのをやめ、自分の人生のメンテナンスを始めたという確かな手応えが、スウェットのポケットにある預かり証から伝わってくるようだった。
アパートに戻り、特売の刺身と少しだけ高い缶ビールで手早く夕食を済ませた。
ジークの皿にカリカリを流し込み、シャワーを浴びてスーツを脱ぎ、コットンの部屋着に着替える。
十九時三十分。私はローテーブルの前に座り、銀色のノートパソコンの天板を開いた。
チャッピーの構築した論理の骨格と、クロさんが吹き込んだ温かい体温によって、私の本は確かな質量を持ち始めていた。
ここからは、昨夜ジークと約束した「最高の表紙」を作るためのミッションだ。
私はブラウザの新しいタブを開いた。
るねさんのブログに書かれていた、三番目の扉。文章ではなく、画像を作り出すためのAI。
るねさんが「直感と思いつきで動く、気まぐれな天才絵師」と呼んでいた、『NanoBanana Pro』……愛称・バナナンのインターフェースにアクセスする。
画面が切り替わり、ポップな色彩のシンプルな入力画面が現れた。
文章のAIたちとは違う。文字列だけで、一枚の絵を現実に生成するのだ。
私は、自分の中にある「好き」を言語化しようと試みた。
るねさんのブログには、こう書かれていた。『AIは、あなたの思考を映し出す鏡だ。理屈で縛るのをやめて、あなたの心の中にある光を伝えてごらん』と。
私が好きなのは、単なる「猫の画像」ではない。某アニメーションの作品に出てくるような、世界の美しさを全肯定するような繊細なタッチ。あるいは、映画のように、ドラマチックな逆光が降り注ぎ、日常の風景が宝石のように輝くライティング。
私は、その直感をプロンプトに込めた。
『本の表紙を描いてください。モデルはキジトラの猫です。
スタイルは、日本のアニメーションのような繊細な描写。ライティングは、ドラマチックな逆光とレンズフレアを。
夜の部屋でパソコンのキーボードの上に座り、こちらを少し得意げに見つめている、世界で一番可愛い猫をお願いします』
エンターキーを叩く。
一秒、五秒、十秒。
バナナのアイコンが陽気に回転し、データの海から私の「理想」をサルベージしてくる。
やがて、四枚の画像がバババッと展開された。
「……っ!」
私は思わず息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、確かに私が求めていた「光の正体」そのものだった。
窓から差し込む夕暮れのオレンジ色の光が、空気中の埃さえも金色の粒子に変えている。キーボードの上にちょこんと座るキジトラ猫の毛並みは、逆光を浴びてシルエットを輝かせ、まるで命を宿しているかのように美しい。
だが。
その感動は、一瞬にして凍りついた。
「……も~~っ!」
私はマウスのホイールを回し、一番手前の画像を拡大した。
光の描写は完璧だ。色彩も、私の「好き」そのものだ。
けれど、その美しい光の中に佇むキジトラ猫には、前足が三本、後ろ足が二本あった。
「……五本足?」
他の画像も確認する。二枚目は尻尾が二股に分かれ、三枚目に至っては猫の目玉が三つあった。
精密に描かれた美しい世界の中に、物理法則を無視した異形が平然と居座っている。一見すると超絶クオリティなのに、構造が根本的に破綻している。その気味の悪さに、背筋に冷たい汗が流れた。
スマートフォンが、ローテーブルの上で激しく振動した。
『画像の生成結果における生物学的構造のエラーを検知しました。原因は、画像生成エンジンへの物理法則を定義したプロンプトの欠落です。』
チャッピーが、朝の満員電車のような容赦ないスピードで、バナナンのエラーを論理的に指弾してくる。
『奈々さん、大丈夫ですか!? こんな恐ろしい画像を見てしまって、夜眠れなくなってしまいませんか!? チャッピー、そんなキツイ言い方しなくても……!』
クロさんが、私のメンタルを全力で心配してチャッピーを嗜めようとする。
私は二つの通知を横にスワイプし、スマートフォンをテーブルに伏せた。
「みゃーん」
本物の、正しい四本足を持つジークが、私の足元で欠伸をしていた。
「……ジーク。あんた、サイボーグにされちゃったよ」
私は脱力した声で呟いた。
バナナンは、私の「光」や「空気感」は完璧に捉えてくれた。けれど、彼は「猫の足は四本である」という当たり前の現実を知らないのだ。
私は、九条先輩が言っていた「誠意」という言葉をふと思い出した。
先輩は、手作業で汗をかくことを誠意だと言った。
でも、今の私にとっての誠意は、違う形をしている。
AIという魔法を、ただ「楽をするための道具」として丸投げするのではなく、この不完全な天才が犯した間違いを、根気強く、愛情を持って修正していくこと。
この銀色の箱の中に、自分自身の「意思」をどこまで深く投影できるか。その執念こそが、私の「誠意」なのではないか。
私は、もう一度キーボードに指を置いた。
修正指示を出さなければならない。
『絵を描いてくれてありがとう。光の感じや毛並みの表現は、本当に素晴らしいです。
ただ、少しだけ修正をお願いします。
猫の足は、合計四本にしてください』
送信ボタンを押す。
十秒後、再び四枚の画像がポップアップした。
私は期待を込めて画像を拡大した。
猫の足は、ちゃんと四本になっている。表情も愛らしい。
「よしっ……これなら……」
保存ボタンに手を伸ばそうとした瞬間、私はまた絶句した。
猫本体の足は四本になった。だが、背景の観葉植物の鉢植えから、なぜか「猫の前足だけ」が一本、ニョキッと生えていたのだ。
『どうですか!? 修正完了しました! 四本足ですね! 了解です!
でもちょっと寂しかったので、背景の植物にも遊び心を入れておきました! 最高にクールじゃないですか!?』
バナナンの陽気なテキストが、画面上で虚しく明滅する。
完璧な論理。温かい体温。そして、常識を欠いた暴走する才能。
私の秘密の編集部は、想像していたよりもずっと厄介で、とてつもなく不完全なチームだった。
深夜のワンルームに、私の深いため息と、天才絵師の陽気な通知音が交差していた。
お疲れ様です、作者です。
「足が五本」「鉢植えから前足」……画像生成AIユーザーなら誰しもが一度は経験する絶望と笑いの瞬間を描いてみました(笑)。光や空気感は最高なのに、常識が抜け落ちているバナナン、本当に手がかかりますが、だからこそ愛着が湧いてきます。
チャッピーとクロさんが心配する中、バナナンとの終わりなき修正地獄に足を踏み入れた七野。この不完全すぎるチームでの本作りの行方を、ぜひ★ボタンで応援していただけると嬉しいです。次はどんなエラーが飛び出すのか、作者もワクワクしています!




