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路面電車で春を待つ

作者: 時輪めぐる
掲載日:2026/02/21

 道路脇に停めた車中から、大通り中央を右から左へと視線でなぞる。半世紀前に廃線になった路面電車の痕跡は何も無い。数年前まで残っていたレールや敷石も撤去され、アスファルト舗装された。往時に思いを馳せると、温む春風の中に、路面電車のベル音が聴こえる気がした。





 幼い頃、路面電車を見た時の感動を忘れない。チンチンチンとベル音を立てて走るクリーム色に赤いラインの入った一両編成の電車。「乗ってみたい」と母にせがんだが、「用も無いのに乗れない」とすげない言葉が返って来た。


 念願かなって路面電車に乗ったのは、昭和四十年代後半、高校生になった春だった。


 内部は両側に二列のベンチシートが伸びている。立っている人はいないが、座席はほぼ満席だった。空いている席を見付けて座る。


 子供の頃の夢を叶えた喜びを噛み締めながら、車窓を流れる街の景色を見ていた。


 幾つかの停留場を過ぎて、幾人かが乗降する。


「お隣り、良いですか?」


 若い女性の声に車内に視線を戻すと、同じ高校の真新しい制服を着た少女が立っていた。艶やかな黒髪のおかっぱ、どこか憂いを含んだ眼差し。その時はまだ、彼女の名前を知らなかったが、後に隣のクラスの青山ミドリさんだと知った。


 ミドリさんも、僕の真新しい制服に気付き「新入生ですね」と言い、「一度これに乗ってみたかったんです」と少しはにかんだように続けた。


「僕も、幼い頃からの夢でした」と返す。


 同じ夢を持った少女は、その日から僕の気になる存在になった。その名を口にすると胸にレモネードが満ちる。初恋だった。




 ミドリさんは、可憐で寂しそうだった。高校の校門前に、一人佇む姿を何度か見かけた。黒い外車が送迎し、友達と登下校するのを見たことがない。


 一学期の終わりに、僕は高校で友人になった長田に訊ねた。


「隣のクラスの青山さんって……」


「儚げで可愛いよな」


「何だ、知ってるのか」


 胸がざわつく。僕だけが気付いた訳じゃないようだ。


「隠れファンクラブがあるらしい。写真も売ってるって」


「えっ」


 当時はまだ、携帯電話は普及していなかった。誰かが写真部に頼んで撮らせた彼女の写真は、秘密裏に売買されているという。


 ミドリさんの写真を手に入れた僕は、想いの丈を便箋十枚に綴り、彼女の靴箱に入れた。生まれて初めて書いたラブレター。靴箱に入れる時、手が震え心臓が破裂しそうだった。


「返事はあったのか?」


「いいや」


 長田の言葉に僕は首を振る。ミドリさんは、翌日もその翌日も、何事も無かったように、いつも通りだ。


 僕は本当に彼女の靴箱に手紙を入れたのだろうか。もしかして間違えた? 意味ありげに、ミドリさんを見詰めても、ミドリさんは困ったような顔をするだけだった。


「直接訊いてみろよ」


 長田に何度も言われ、手紙を書いてから十日経った頃、昇降口で待ち伏せて声を掛けた。


「あ、あの、青山さん」


 ちょっと驚いたように靴を取り出す手を止めて、ミドリさんは僕を見た。


「……」


「手紙、読んでくれたかな」


 ミドリさんは、黙って頷いた。


「それで……」


「お気持ちには答えられないです」


 ミドリさんの瞳が一瞬揺れて、小さく続ける。


「……路面電車は、楽しかったです」


「僕もだよ! 好きな人がいるの?」


 嫌われている訳ではなさそうなので、僕は勇気を出す。


「ううん、養父母が厳しくて、恋愛はご法度なの。勉強に集中しろって」


「養父母?」


 僕は思いがけない単語に反応したが、ミドリさんはそれには答えず、靴を取り出すと軽く会釈して去る。後姿が見えなくなるまで、僕は昇降口に立ち尽くしていた。校門の外に影のように待つ車。宙ぶらりんになった僕の恋心が涙を零す。あの時、僕は泣く以外どうすれば良かったのだろう。




 その後卒業まで、ミドリさんに告白して振られる者が続出し、彼女は「お高くとまっている」とか「氷の女」等と噂されるようになった。「違うんだ」僕は心の中で呟く。


 二年後、卒業した長田と僕は地元の大学へ、ミドリさんは都会の大学に進んだ。時を同じくして、あの路面電車は廃線となった。ラストランの日、僕は『電車通り』で去り行く青春と電車に手を振った。





 あれから、半世紀。


 子供達は独立し、妻が亡くなった。前後して、ミドリさんが未亡人になったのを知る。


 高校卒業以来、ずっと交流のある長田が時折、同窓生の消息を何処かで仕入れて教えてくれた。


「ミドリさん、こっちに帰っているらしいぜ」


 胸の奥が砂糖のように甘く溶けて焦げ、キャラメリゼされた。もうすぐ七十歳に手が届く。しかも、渾身の告白をして、玉砕した僕の胸が。


 どこに住んでいるのかも分からない。出会えることなど無いと思いつつ、路面電車の走っていた旧『電車通り』を訪れずにはいられなかった。


 あの春の日、乗り込んで来た停留場辺りに車を停め、目を彷徨わせ彼女の幻を探す。


 ふと目が留まる。


 今はバス停になったその場所に一人佇む銀髪の女性は、可憐で寂しそうだった少女の面影を残していた。





 了

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