第9話 聖女のざまぁと新しい光
「離しなさいよ! 私は聖女なのよ!」
甲高い叫び声が、帝国の謁見の間に響いた。
静謐な空気を切り裂く、場違いなノイズ。
衛兵に両脇を抱えられ、引きずり出されてきたのは、金髪の女性だった。
かつて王城で、王太子の隣に侍っていたアリスだ。
だが今の彼女に、あの頃の華やかさはない。
ドレスは裾が破れ、泥にまみれている。
髪は脂ぎって束になり、肌は荒れていた。
「レオンハルト殿下! 助けてくださいまし!」
玉座の横に立つレオンハルト様を見つけるなり、彼女は媚びた声を上げた。
衛兵の手を振りほどき、すがりつこうとする。
しかし。
「……寄るな。」
レオンハルト様は、汚物を見る目で一歩下がった。
ハンカチを取り出し、口元を覆う。
その反応は、演技ではない。
「臭い。」
「えっ……?」
「腐敗臭と、それを隠そうとする安物の香水。鼻が曲がりそうだ。」
彼は冷酷に事実を告げた。
アリスの顔が引きつる。
彼女は自分の体臭に気づいていないのか、あるいは認めたくないのか。
かつて私が管理していた清潔な城では、彼女の悪臭など発生する余地もなかった。
だが、今の彼女はただの「不衛生な逃亡者」だ。
「ひ、ひどいですわ! 私は被害者なのです! あの国が勝手に崩壊して……」
「黙れ。不法入国の罪は重い。」
レオンハルト様が指を鳴らすと、衛兵たちが槍を構えた。
アリスは青ざめ、キョロキョロと視線を彷徨わせる。
そして、私を見つけた。
「マリエル! あんた、そこにいたのね!」
彼女は鬼の首を取ったように指差した。
「殿下、騙されてはいけません! その女は無能な悪役令嬢ですのよ! 私こそが、光魔法に愛された真のヒロイン……」
「ヒロイン、ですか。」
私は静かに口を開いた。
彼女の論理は、物語の中にしか存在しない。
ここは現実だ。
物理法則と、因果関係が支配する世界だ。
「アリス様。貴女の言う『ヒロイン』とは、何もしなくても愛され、汚れても誰かが綺麗にしてくれる存在のことですか?」
「当たり前でしょ! 私は聖女なのだから!」
「それは、ただの『寄生』です。」
私は手元にあったモップを放り投げた。
カラン、と乾いた音が床に響く。
使い古された、掃除用のモップだ。
「な、なによこれ。」
「貴女に必要なものです。」
私は彼女の足元まで歩み寄った。
鼻をつく甘ったるい悪臭にも、眉ひとつ動かさない。
これは分析対象だ。
「魔法は、自分を飾り立てるためのエフェクトではありません。生活を維持し、人々を快適にするための技術です。貴女が馬鹿にしていた『掃除』や『洗濯』こそが、文明の基盤なのです。」
「……っ!」
「自分の汚れくらい、自分で落としなさい。」
私の言葉は、魔法よりも重く彼女に刺さったようだった。
彼女は震える手で、床に落ちたモップを見下ろした。
拾うべきか、プライドを守るべきか。
だが、周囲の冷ややかな視線が、彼女に選択の余地を与えなかった。
「……連れて行け。」
レオンハルト様が命じる。
投獄ではない。
帝国の労働教化施設への送致だ。
そこでは、働かざる者は食うべからず。
彼女はこれから、自分の手で床を磨き、服を洗い、生きるためのコストを自力で稼ぐことになる。
それが彼女にとって、最大の罰であり、唯一の更生の道だろう。
「いやぁぁぁ! モップなんて持ちたくないぃぃ!」
泣き叫ぶ声が遠ざかっていく。
扉が閉まると、再び静寂が戻った。
◇
騒動が片付いた後。
私はレオンハルト様に連れられ、城のテラスへ出ていた。
夜風が心地よい。
眼下には、帝都の明かりが宝石箱のように広がっている。
その光の一つ一つに、私の開発した魔導具が使われていると思うと、胸が熱くなった。
「マリエル。」
不意に名前を呼ばれ、振り返る。
レオンハルト様が、真剣な眼差しで私を見ていた。
その手には、小さな箱が握られている。
「俺は、不器用な男だ。気の利いた言葉も言えないし、すぐに服を汚す。」
「知っています。貴方の洗濯係は私ですから。」
「……ああ。だからこそ、君が必要なんだ。」
彼は箱を開けた。
中には、透き通るような青い魔石の指輪が収められていた。
高価な宝石ではない。
だが、その魔石には見覚えがあった。
かつて私が、初めて作った試作一号機の核に使った魔石と、同じ波長を持つ高純度な石だ。
「この石には『恒久的な浄化』の術式を組み込んである。君が二度と、悲しみや理不尽に汚されないように。」
それは、最強の魔術師であり、剣士である彼なりの、精一杯の愛の言葉だった。
契約でも、取引でもない。
純粋な贈与。
「……レオン。」
私は指輪を受け取った。
指にはめると、じんわりと温かい魔力が流れ込んでくる。
それは、どんな高性能な魔導具よりも、私の心を震わせた。
「お受けします。ただし、条件があります。」
「条件?」
「私が開発に没頭して部屋を散らかしたら、貴方が片付けてくださいね?」
「……努力する。」
彼が苦笑いしながら、私を抱き寄せた。
その匂いは、もう泥や血の臭いではない。
陽だまりのような、洗いたてのシーツのような。
私の一番好きな香りだった。
月明かりの下、私たちは初めての口づけを交わした。
それは、どんな甘いお菓子よりも甘く、そして確かな未来の味がした。




