第6話 皇子の溺愛と労働改革
ここは、戦場なのだろうか。
書類の塔が崩れ、悲鳴が上がる。
廊下を行き交う文官たちの目は死んでおり、足取りは亡霊のように重い。
帝国城の執務エリア。
そこは、物理的な汚れこそないものの、濃密な「疲労」の空気に満ちていた。
「……すまない。見苦しいところを見せた。」
案内役のレオンハルト様が、気まずそうに顔を背ける。
彼自身、執務室の机には未決裁の書類が山積みだ。
武力に優れた帝国は、領土拡大に伴う事務処理がパンク寸前なのだ。
「歓迎しよう、マリエル。君の部屋は最高級のスイートを用意した。仕事なんて忘れて、まずはゆっくり……」
「いいえ、レオン様。」
私は彼の言葉を遮り、腕まくりをした。
エンジニアの魂が、この非効率な惨状を見過ごせないと叫んでいる。
かつて私の店に倒れ込んできた彼と同じ顔をした人々が、ここには数百人もいるのだ。
「これは『業務改善』の案件です。休息はそのあとで。」
「え?」
「宮廷魔導具師としての初仕事、始めさせていただきます。」
◇
私は即座に、持ち込んだトランクを開いた。
中から転がり出たのは、私の相棒たちだ。
掃除用の試作一号機だけではない。
店で開発を進めていた、事務処理用の小型魔導具たち。
「全自動書類仕分け機、展開。ターゲット、決裁優先度別。」
「文字認識スキャナ、起動。重複申請の弾き出し。」
「自動搬送ドローン、ルート設定。各部署へ。」
私は次々と術式を起動させた。
魔力を帯びたアームが動き出し、人間が手作業で行っていた分類作業を、秒速で処理していく。
シュッシュッ、と小気味よい音が廊下に響く。
「な、なんだこれは……!」
通りがかった文官長が、目を剥いて立ち止まった。
彼が三日かけて処理するはずだった山が、数分で整理されていく。
「仕分け完了です。承認印を押すだけの状態にしました。」
「か、神よ……いや、女神よ!」
文官長は、私に向かって拝み始めた。
その様子を見ていた他の職員たちも、わらわらと集まってくる。
メイドたちも同様だ。
私が放った掃除ゴーレムが、高い天井の蜘蛛の巣を一掃するのを見て、歓声を上げている。
「マリエル様! こちらの部署にも一台お願いします!」
「食堂の配膳効率化も相談に乗ってください!」
私は一瞬にして、城内のスターになった。
需要と供給が合致する瞬間。
これこそが仕事の醍醐味だ。
◇
数時間後。
城内の空気は劇的に改善されていた。
皆、久しぶりに定時で帰れる喜びを噛み締めている。
私は心地よい疲労感と共に、レオンハルト様の執務室へ戻った。
「お待たせしました、レオン様。あらかた片付きま……」
言葉が止まる。
執務机の向こうで、レオンハルト様が頬杖をついて私を見ていた。
その表情は、少しだけ拗ねているように見える。
書類の山は消え、彼の机もピカピカだ。
「優秀すぎるのも考えものだな。」
「何か不手際がありましたか?」
「いや、完璧だ。完璧すぎて、俺の出番がない。」
彼は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。
そして、そっと私の手を包み込む。
大きく、温かい手だ。
「俺は、君に楽をさせたかったんだ。なのに、君はまた働いている。」
「これが私の生きがいなので。」
「わかっている。輝いている君を見るのは好きだ。だが……」
彼は私を引き寄せ、その肩に額を乗せた。
以前、店のソファで見せたような、甘える仕草。
大型犬モードだ。
「少しは俺にも構ってくれ。寂しくて死にそうだ。」
「……皇子殿下が、そのようなことを。」
「ここではただのレオンだと言っただろう。」
耳元で囁かれ、背筋がぞくりとする。
これは、契約書にはない業務だ。
けれど、拒絶する気にはなれなかった。
私はためらいがちに、彼の手を握り返す。
「では、業務外の時間として……お茶でもいかがですか?」
「ああ。君の淹れた茶がいい。」
彼は嬉しそうに顔を上げ、私の腰に手を回した。
その距離感は、既に雇用主と被雇用者のそれを超えている。
城の皆が私を「救世主」と崇める中、この国の最高権力者だけが、私を「一人の女性」として見ている。
その事実は、どんな成功報酬よりも私の胸を満たした。
だが、平穏な時間は長くは続かない。
窓の外、国境の方角から、不穏な雲が近づいているのを、私はまだ知らなかった。
かつて捨てたはずの国が、私という「資源」を取り戻そうと、牙を研いでいることを。




