第4話 王国の腐敗、帝国の快適
かつて、王城は白かった。
磨かれた大理石、曇りなきガラス。
それらは今、見る影もない。
「臭い……!」
ギルバート王太子は、鼻を覆いながら執務室に入った。
部屋の隅には、処理しきれない書類の山。
その隙間に、飲みかけのティーカップや食べ残しが放置されている。
腐敗臭と、それを誤魔化すためのきつい香水の匂いが混ざり合い、鼻腔を刺激した。
「なぜ片付かない! 人を増やしたはずだ!」
彼が怒鳴りつけると、控えていた侍従長が青ざめた顔で頭を下げる。
床には埃が積もり、歩くたびに舞い上がった。
「人員は倍にしました。ですが……」
「ですが、なんだ!」
「汚れが落ちないのです。洗剤を使っても、ブラシで擦っても。」
侍従長の声が震える。
無理もない。
これまでは、私が密かに施していた「汚れ分解」の付与魔法が、城全体をコーティングしていたのだから。
物理的な清掃だけで、この規模の城を維持するのは不可能に近い。
その効率計算すら、彼らは放棄していたのだ。
「アリスはどうした! 聖女の力があるだろう!」
「アリス様は……『手が荒れるから』と。」
ギルバートは拳を机に叩きつけた。
積み上がった書類が崩れ、床に散乱する。
誰もそれを拾おうとしない。
拾えば、さらに手が汚れるからだ。
「マリエルだ。」
彼は忌々しげに、その名を吐き捨てた。
かつて無能と断じ、追放した元婚約者。
彼女がいた頃、空気は澄み、水は清らかだった。
それを「当たり前」だと思っていた自分の愚かさを認めるわけにはいかない。
「あいつが何かの細工をして出て行ったに違いない。」
「は?」
「でなければ、急にこんなことになるはずがない! マリエルを連れ戻せ!」
それは、あまりに身勝手な論理だった。
だが、この城で王太子の言葉は法だ。
彼は騎士団長に命令書を突きつけた。
「居場所は割れている。隣国の国境付近だ。強制連行でも構わん、引きずってこい!」
◇
一方、ベルンの街。
私の店『ライフ・ハック』は、快適そのものだった。
空気清浄の魔導具が稼働し、店内は森林のような清涼な空気に満ちている。
「どうぞ、こちらの書類をご覧ください。」
カウンター越しに、一人の紳士が羊皮紙を広げた。
帝国の紋章が入った、最高級の紙だ。
目の前にいるのは、帝国から派遣された文官である。
「『帝国宮廷魔導具師』としての招聘、ですか。」
私は提示された条件に目を通す。
金額の桁が、王国の相場とは一つ違う。
さらに「研究費は青天井」「特許権は開発者に帰属」という破格の待遇だ。
これは雇用契約ではない。
技術提携のオファーだ。
「我が国の第二皇子、レオンハルト様からの強い推薦がありまして。」
文官が穏やかに微笑む。
あの大型犬のような常連客が、裏で手を回してくれたらしい。
公私混同に見えるが、手続きは適正だ。
彼は私の技術を「国家的利益」として正当に評価し、予算を確保したのだ。
「光栄なお話です。ですが、店はどうしましょう?」
「ベルナルド商会と提携し、支店として残せばよいかと。本店機能を帝都へ移す、という形です。」
合理的だ。
この街は好きだが、国境付近は政情が不安定になりつつある。
王国の動きも不穏だ。
安全な帝都へ拠点を移し、大規模なラボを持つ。
エンジニアとして、断る理由がない。
「わかりました。その契約、お受けします。」
私はペンを取り、サインをした。
インクが紙に染み込む瞬間、胸の中で何かが決着した音がした。
もう、あの国に未練はない。
私は自分の足で、新しい地平へ行くのだ。
◇
引っ越しの準備は、驚くほどスムーズに進んだ。
私の荷物はもともとトランク一つと、増えた魔導具たちだけだ。
試作一号機が、名残惜しそうに店の床を磨いている。
「大丈夫よ。新しい場所はもっと広いから。」
私は一号機を撫でて、梱包用の木箱に収めた。
その時だった。
店の外が、にわかに騒がしくなった。
馬のいななきと、鎧の擦れ合う音。
そして、乱暴にドアが叩かれる音。
「マリエル嬢! 王国騎士団である!」
ドンドンドン!
木製のドアが悲鳴を上げる。
かつて聞き慣れた、高圧的な響き。
帝国の使者との契約を終えたばかりの、このタイミングで。
私は深いため息をついた。
どうやら、元職場からの「退職トラブル」は、まだ終わっていなかったようだ。
私はカウンターの下に隠していた、護身用のスタンロッド(出力調整済み)を握りしめた。
「しつこい勧誘は、営業妨害ですよ。」
私は冷めた目で、震えるドアを見据えた。
これから始まるのは話し合いではない。
請求と精算の時間だ。




