第9話 黒の風、カインの遺した書簡
北方の戦から半年が過ぎた。
雪が溶け、王都に春の風が戻る。
街路の石畳には花が咲き、子どもたちの笑い声が響いていた。
それは、長い冬の終わりを告げる音だった。
私は王城のバルコニーに立ち、遠くを見つめていた。
風に乗って、かすかに鐘の音が聞こえる。
あの戦いのあと、王国は再び平和を取り戻した。
レオニード様は正式に国王として即位し、
民の前で「戦わずに守る王」を誓った。
その傍らに立つ私は、依然として“婚約者”のままだった。
けれど、その指に指輪はない。
あの日から、彼は何度も私に言ってくれた。
「もう悲しませない」と。
でも、彼自身がまだ悲しみの中にいた。
私たちは、カインを失ったまま前に進めずにいた。
*
カインの墓は、王城の北庭にある。
春の花が咲き乱れる中、ひときわ静かな場所。
私はそこを訪れ、ひとりで祈りを捧げた。
「あなたがいない世界は、こんなにも穏やかで、こんなにも静かです」
言葉にして初めて、涙がこぼれた。
彼の剣が眠る石碑に手を当てる。
冷たい感触が、あの夜の記憶を呼び起こす。
――貴方の罪も、俺の怒りも、すべてここで終わる。
あの声が、まだ耳の奥で響いている。
「……エリナ」
背後から声がした。
振り向くと、レオニード様が立っていた。
黒の外套を羽織り、いつものように穏やかに微笑んでいる。
「ここにいたのか」
「はい。……少し、お話を」
「彼のことか?」
「ええ」
沈黙。
風が二人の間を抜けていく。
「彼がいなくなってから、まだ一度も夢を見ません。
でも、時々……風の音が、彼の声に聞こえるんです」
王は小さく頷いた。
その瞳には、優しさと痛みが混ざっていた。
「君は強い。
私も、ようやく彼の言葉の意味が分かった気がする」
「言葉……?」
「“この国を正すのは、あなたです”と。
――あれは、私ではなく、君に向けた言葉だったのかもしれない」
そう言って、彼は懐から小さな包みを取り出した。
古びた封筒。
赤い封蝋には、見覚えのある印章――カインの紋章。
「……それ、どこで?」
「昨日、北方の修道院から届けられた。
“亡くなる前、もし殿下か彼女が生きていたら渡してくれ”と、預けていたらしい」
私は息を呑んだ。
手が震える。
「開けても?」
「もちろんだ」
封蝋を割ると、淡い紙の匂いが立ちのぼる。
筆跡は、間違いなく彼のものだった。
――レオニード殿下、そして、エリナ様へ。
*
手紙の冒頭は、驚くほど穏やかな筆致だった。
戦場の喧騒の中で書かれたとは思えないほど、静かな言葉。
『この国は、たぶんこれからも間違えるだろう。
それでも、人は何度でもやり直せる。
殿下、あなたなら、それができる。
……そして、エリナ様。
あなたが殿下の傍にいる限り、この国は光を失わない。』
指が震えた。
文字を追うたびに、胸の奥に温かいものが広がっていく。
『俺は、愛に敗れたのではなく、愛に救われた。
だから、この剣はもう誰も傷つけない。
代わりに、この言葉を残す。
“生きることを、恐れないでください”。』
そこまで読んで、私は声を上げて泣いた。
レオニード様は何も言わず、私の肩に手を置いた。
彼もまた、目を閉じていた。
*
手紙の最後には、たった一行だけ、震えるような文字で書かれていた。
『――風が吹くとき、私はそこにいます。』
読み終えた瞬間、庭に風が吹いた。
春の香りを運ぶ、柔らかな風。
まるで彼が微笑んでいるようだった。
私はそっと手紙を胸に抱きしめる。
「ねえ、レオニード様。
あの人、死んでしまったのに……どうして、こんなに生きてる感じがするんでしょうね」
彼は静かに微笑んだ。
「生きた時間よりも、残した想いが強かったからだろう。
――私たちは、あの男にまだ生かされている」
風が再び吹いた。
花びらが宙に舞い、陽光がきらめく。
その瞬間、どこか遠くで剣の音が聞こえた気がした。
まるで「まだ終わっていない」と告げるように。
*
その夜、王はひとり、執務室で地図を広げていた。
蝋燭の炎が揺れ、壁に影を作る。
机の上には、もうひとつの封筒があった。
――カインが残した二通目の手紙。
そこにはこう書かれていた。
『もし、国の平和が再び揺らぐとき、
北の風を辿れ。
その先に、もうひとつの真実がある。』
レオニードは目を細め、封筒を静かに閉じた。
そして窓の外に目をやる。
夜風が、黒い旗を揺らしていた。
王は小さく呟く。
「……まさか、お前、まだどこかで……」
誰もいない部屋で、その声だけが残った。
*
春の王都に、新たな風が吹いた。
誰もまだ知らない、“黒の騎士”の物語が、再び始まろうとしていた。




