第2話 偽りの微笑と、王宮の影
朝、王城の窓から射し込む光で目を覚ました。
天蓋付きのベッド。絹のシーツ。香のように漂う花の匂い。
昨日までの世界が夢で、ここが現実なのかと錯覚するほどに、すべてが整っていた。
けれど、胸の奥には重い鉛のような違和感が沈んでいる。
――私は、王子の“偽の婚約者”だ。
侍女のミーナが扉を叩いた。
「エリナ様、本日の朝食は大広間でございます。殿下がお待ちです」
“殿下”。その響きに、胸の奥がきゅっと縮む。
契約の儀で指に触れた彼の手の熱が、まだ残っている気がした。
鏡の前で整えられていく髪。金糸の髪飾りが光を反射するたび、心のどこかで“自分らしさ”が削れていく。
私は異世界に来て、彼の「盾」になった。
本物の愛を隠すための、仮の花嫁。
なのに――その仮初めの愛に、心が揺れてしまう。
*
朝食の席には、王子と数名の貴族がいた。
私は彼の隣に座るよう促され、緊張で背筋を伸ばした。
「皆の者、紹介しよう。彼女が――私の婚約者、エリナ・クレイン嬢だ」
王子の声が静かに響く。
広間にざわめきが走った。
貴族たちの視線が一斉に私に注がれる。
驚き、好奇、そしてわずかな敵意。
そのどれもが、皮膚の上を這うように感じられた。
隣で、王子は完璧な微笑みを浮かべている。
まるで長年の恋人のように、優しく私の手を包み込む仕草まで添えて。
――演技だ。全部。
わかっているのに、心臓が速く打つ。
その手の温もりが、私の全存在を肯定してしまいそうで怖かった。
「エリナ嬢は異界より召喚された特別な客人だ。神託によって選ばれた存在だと、大神殿からも認められている」
そう言いながら、彼は私を見た。
瞳の奥に、ほんの一瞬だけ迷いのような影がよぎる。
――この人は、本当は何を思っているのだろう。
朝食の間、私はずっと考えていた。
言葉では優しく微笑みながら、彼の心は遠い場所を見つめている。
その“遠い場所”の名を、私は知らない。
*
朝食が終わったあと、王子は私を王城の庭園へと誘った。
薔薇の香りが風に乗り、白い石畳が朝日に輝いている。
そしてその光景の中に、一人の青年が立っていた。
「お初にお目にかかります、エリナ様」
黒髪に金の瞳――昨日、月下で出会った騎士だった。
鎧の上からでもわかるほど均整の取れた体躯。
無駄のない動き。まるで鍛え上げられた刃。
王子が彼の肩に手を置く。
「彼はカイン・ヴァルディス。近衛騎士団長であり、私の信頼する者だ」
カイン。
その名前を聞いただけで、鼓動が強くなる。
昨夜のあの言葉が頭をよぎる。
――殿下が誰を想っているか、知らないのですか?
私は何も言えず、ただ形だけの礼をした。
カインは薄く微笑み、そのまま私の前に膝をつく。
「殿下の婚約者をお守りするのが、私の任です」
その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。
まるで、私の存在そのものを試すように。
「エリナ嬢」
王子が穏やかに口を開いた。
「これからの数日は、君に礼儀作法や言葉を学んでもらう。君が“婚約者”としてふさわしくあるように」
「はい……がんばります」
口ではそう言いながら、内心ではひどくざらついた感情が渦巻いていた。
ふさわしくある、って何?
偽物の婚約者なのに?
偽りを“本物らしく”見せるために、私はどこまで演じればいい?
そんな私の迷いを見透かしたように、カインが小さく囁く。
「……演技の練習ですか?」
「え?」
「殿下の隣に立つには、覚悟が必要ですよ」
その言葉の響きは、警告のようでもあり、挑発のようでもあった。
目を合わせると、金の瞳がわずかに笑う。
「貴女が本物になってしまえば、困る人がいる」
息が止まる。
その“困る人”とは――誰のこと?
答えを探す前に、王子の声が割り込んだ。
「カイン、訓練場に戻れ。……私が彼女に教えることがある」
「承知しました」
そう言って踵を返す彼の背中を、私は目で追った。
その一瞬、王子の表情がわずかに揺らいだ。
まるで、何かを失いかけているように。
*
午後、王子の書斎で礼儀作法の授業を受けることになった。
分厚い書物、銀のティーカップ、そして完璧に整えられた姿勢。
隣に座る彼は、淡々と手本を示しながら言った。
「人前では、私を“殿下”ではなく、“レオニード様”と呼びなさい」
「……はい、レオニード様」
名前を口にした瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
王子がわずかに微笑む。
それは、いつもより少し柔らかい笑みだった。
「君の発音は面白いな。異界の訛りというのか……」
「へ、変ですか?」
「いや、悪くない。むしろ――少し心地いい」
その言葉に、頬が熱くなる。
彼は視線を逸らさず、穏やかにティーカップを傾けた。
「君が来てくれて、助かっている」
その声は、どこか寂しげだった。
“助かっている”という言葉の裏に、本当の意味がある気がしてならない。
「……守りたい人がいるって、昨日おっしゃいましたよね」
思わず口にしていた。
彼はカップを静かに置き、しばし沈黙したあと、目を閉じた。
「そうだ。けれど、その名を口にすることは許されていない」
その瞬間、私は確信した。
――やはり、この人の心は別の誰かに向いている。
「でも」
声が震える。
「私も、誰かを守るためにここにいるなら……それでいいです。私の“役割”ですから」
言いながら、胸の奥で痛みが走る。
役割。演技。仮の婚約者。
そう言い聞かせても、心は勝手に動いてしまう。
王子は私をじっと見つめた。
何かを言いかけて、結局、言葉を飲み込むように。
その瞳の奥にある感情を、私はまだ知らなかった。
それが“恋”とも“罪悪感”とも呼べるものだと気づくのは、もっとずっと後のことだ。
*
夜。
書斎を出た廊下で、再びカインとすれ違った。
月明かりが鎧を照らし、金の瞳が淡く光る。
「……ずいぶん仲が良さそうですね」
低く落とされた声に、思わず立ち止まる。
「仲がいいって、そんな……」
「殿下は嘘が下手だ。貴女のことを見ているときの顔、私にはわかる」
その声には嫉妬とも痛みともつかない響きがあった。
カインが一歩近づく。距離が一瞬で詰まる。
「“偽の婚約者”のはずでしょう? ――なのに、どうしてそんな目で殿下を見る」
彼の指先が、私の顎を軽く持ち上げた。
息が触れる距離。
心臓が悲鳴を上げる。
「貴女が踏み込めば、殿下が壊れる」
低い声が、夜の静寂に溶ける。
そして次の瞬間、カインはふっと微笑んで、背を向けた。
「……おやすみなさい、偽りの花嫁様」
その背中を見送ることしかできなかった。
月の光が、石畳に長い影を落とす。
私はその場に立ち尽くしながら、気づいていた。
――この三人の関係は、もう戻れない場所に向かっている。
偽りの婚約。守るための嘘。
そして、嘘の中で生まれた“ほんとうの恋”。
心が痛いほど熱くて、どうしようもなく切なかった。




