第12話 王都に忍び寄る影
雪の峠を離れてから三日。
風の向きが変わり、北の冷気が後ろへと流れ去る。
けれど、心の中に残る冷たさは、まだ消えなかった。
カインは去った。
その背中を、誰も追えなかった。
残されたのは、彼の言葉だけ――「王都に裏切り者がいる」。
王都へ戻る旅路で、レオニード王の沈黙は重かった。
エリナもまた、何も言えなかった。
焚き火の夜の、あの別れの光景が胸に焼きついて離れなかった。
「……陛下」
エリナがそっと声をかけた。
「ほんとうに、セドリック殿下が……?」
レオニードはゆっくりと首を振る。
「信じたくはない。
だが、あいつが最後に残した言葉がある」
「言葉……?」
「“兄上の理想は美しすぎる。だから、国はいつかそれを拒む”」
王の声に、寂しさが混じっていた。
「もしあいつがその理想を壊す側に回ったのなら、
それは、私が生んだ影だ」
馬車が揺れる。
窓の外に、王都の尖塔が見え始めていた。
*
帰還の報せが届くと、王城はざわめきに包まれた。
兵たちが整列し、重臣たちが謁見の間へ集う。
レオニード王が玉座に座ると、室内の空気が一瞬で張り詰めた。
「陛下のご帰還、慶賀申し上げます」
宰相オルフェンが跪き、深く頭を下げる。
その動きに淀みはない。
だが、王はすぐには答えなかった。
玉座の下には、信頼と疑念が入り混じる視線が並んでいる。
それぞれが、次の“嵐”の予兆を感じ取っていた。
「……オルフェン」
「はっ」
「弟の消息を、探らせているか」
「はい。しかし、北方戦以降、目撃情報は途絶えております」
王は目を細めた。
「そうか。だが、王城の中にも探してほしい」
宰相の眉がわずかに動いた。
「王城……でございますか?」
「そうだ。影は外にではなく、内に潜む」
その言葉に、重臣たちの間で微かなざわめきが広がった。
誰もが顔を見合わせ、沈黙する。
エリナはその場の空気を感じ取っていた。
冷たく張りつめた糸のような緊張。
ひとつ誤れば、城そのものが崩れる。
王が静かに立ち上がる。
「私は、今宵“告白の夜会”を開く。
全ての高官、騎士、学士を招集せよ。
この国の未来を共に語る夜だ」
その言葉の裏に、誰もが気づいていた。
――“語る”のではない、“暴く”のだ。
*
夜会は、王城の最上階「星の間」で開かれた。
透明な天蓋の向こうに、満天の星が見える。
煌びやかな装飾、整えられた食卓。
一見すると華やかだが、その場に集まった者たちの顔は皆、固い。
音楽も笑いもない。
ただ、緊張と、かすかな恐れが漂っている。
王は壇上に立ち、静かに杯を掲げた。
「我らの王国に、平穏が戻った。
だが、真の平和は、真実の上にしか築けぬ」
その声は穏やかだったが、刃のような響きを持っていた。
人々のざわめきが止まる。
「今宵、私は問う。
――この中に、“影”と通じる者はいないか」
場が凍りつく。
誰もが息を詰め、視線を泳がせた。
エリナは王の傍にいた。
その肩の震えを感じる。
彼もまた、恐れていたのだ。
真実を知ることを。
そして――そのときだった。
「陛下」
柔らかな声が、静寂を裂いた。
列の奥から歩み出たのは、銀髪の青年。
冷ややかな微笑。
瞳の色は、レオニードと同じ蒼。
――セドリック・ルヴェ・レオニード。
失踪した第二王子。
彼は静かに一礼した。
「ずいぶん探されたようですね、兄上」
会場がざわめく。
重臣たちが慌てて道を開ける。
レオニードの表情が凍る。
「……お前、生きていたのか」
「ええ。死ぬほどの価値もありませんでしたから」
軽く笑うその声には、どこか凍てついた響きがあった。
「“影”とは何の話です?」
「お前が知らぬはずがない」
「……ああ、カインか」
その名を口にした瞬間、王の瞳がわずかに揺れた。
「驚きました。
あの男、まだ生きていたとは」
「お前が命じたのか」
「さて。命じたとも言えますし、違うとも言えます」
セドリックの微笑が、炎のように危うい光を宿す。
「兄上。
貴方は“正義”に取り憑かれすぎた。
民の声を聞き、痛みを抱く王――美しい理想です。
けれど、理想は民を救わない。
支配だけが、国を安定させる」
沈黙。
その場にいた誰もが、息を呑んでいた。
セドリックはゆっくりと手を掲げる。
その袖口から、黒い印章が覗いた。
――黒の修道団の紋章。
「この印こそ、真の“王の証”です。
兄上、貴方が拒んだものを、私は受け入れた。
だからこそ、この国は変わる」
レオニードは剣を抜いた。
だが、その刃を止めたのは――エリナだった。
「陛下!」
彼女の叫びが響く。
その一瞬の隙に、セドリックは身を翻し、闇の中へ消えた。
窓が割れ、冷気が流れ込む。
夜空の向こうで、黒い影が風に乗って遠ざかる。
残されたのは、砕け散ったガラスと、王の震える手。
「……あいつが、本当に“影”の王になるつもりか」
その言葉に、エリナは強く頷いた。
「――止めましょう。
あの人が生きているなら、きっとまだ……救える」
レオニードはゆっくりと剣を鞘に戻し、
そして低く呟いた。
「……カイン、見ているか。
お前の残した戦いは、まだ終わらない」
風が吹いた。
砕けた窓から、黒い布切れが舞い込む。
それはまるで――死んだ騎士の影のように、静かに揺れていた。




