第10話 北の風を辿る者たち
春が終わりを告げる頃、王都に一通の報せが届いた。
「北方ノルヴァ、再び雪嵐の兆しあり」
それは気象の知らせであると同時に、ある者たちにとっては合図でもあった。
――黒の風が吹いたら、真実が動く。
王城の書斎で、その報せを見つめる王と、ひとりの女がいた。
レオニードと、私――エリナである。
「……北方の風。あの手紙の言葉と同じですね」
「“北の風を辿れ”。あれは単なる比喩ではなかった」
王は地図を広げた。
そこには、ノルヴァのさらに北――“白の峠”と呼ばれる、雪に閉ざされた地があった。
「この峠には、古い修道院の廃墟がある。
かつて王国の禁忌を守る“影の修道団”がいたとされている。
カインが最後に立ち寄った修道院も、その系列だ」
私は息を呑んだ。
まるで、すべてが一本の線でつながっていくようだった。
「殿下……いえ、陛下。行くおつもりですか?」
「行くしかない。
――カインの言葉は、まだ終わっていない」
その横顔を見た瞬間、胸がざわめいた。
また戦の道を歩もうとしている。
でも、今回は違う。
彼は“失うため”ではなく、“取り戻すため”に進もうとしている。
*
三日後、私たちは北方へ向けて出発した。
王都から同行を許されたのはごく少数。
王直属の近衛二名と、補佐官セリオ。
そして私。
旅は長く、厳しかった。
春の残り香が消えると、雪と風がすぐにそれを奪っていった。
王は黙々と馬を進め、夜になると小さな焚き火の前で地図を広げた。
「陛下……少しお休みを」
「平気だ。眠れば夢にあいつが出てくる」
彼は苦笑した。
その笑みが、あの日のカインに似ていて、私は言葉を失った。
「殿下……」
「……その呼び方、懐かしいな」
少し照れたように彼が言った。
その声音に、遠い夜のぬくもりが戻ってきた気がした。
*
七日目の夜。
雪嵐の前触れが訪れた。
空が低く、風が鳴っている。
「ここが白の峠です」
セリオが地図を見ながら言った。
目の前には、氷に閉ざされた渓谷が広がっていた。
廃墟のような建物が、雪に埋もれて姿を見せている。
石の十字架が傾き、風が鳴るたびに古い鐘の音が微かに響いた。
「……ここが、カインが最後にいた場所」
王の声がかすれる。
私たちは慎重に建物の中へ足を踏み入れた。
冷気が肌を刺す。
崩れかけた壁の中に、古い机と、散らばった紙片。
そこに、一本の剣が立てかけられていた。
黒い鞘に刻まれた紋章。
間違いない――カインの剣。
王が震える手でそれを掴む。
その瞬間、風が吹いた。
黒い紙片が宙に舞う。
そのひとつが、王の足元に落ちた。
拾い上げると、それは封の切られていない小さな手紙だった。
――王都宛。
差出人の名には、確かに「カイン・ヴァルディス」とあった。
「……読めるか?」
「はい」
私は封を開いた。
中の紙は、雪のように白かった。
けれど、書かれていたのは血の色に似た赤い文字。
『これを読んでいるなら、殿下はまだ生きている。
ならば、伝えたいことがある。
“反乱”は終わっていない。
本当の敵は、王都の中にいる。』
その瞬間、部屋の奥から音がした。
ガシャン、と鉄の軋む音。
近衛が剣を構える。
王が私を庇い、奥へ進んだ。
崩れた柱の影に、ひとりの影が立っていた。
白い雪を背に、黒い外套をまとった人影。
顔は見えない。
だが、その立ち姿には見覚えがあった。
「……まさか」
王が低く呟く。
その人影がゆっくりと顔を上げた。
――そこにいたのは、確かに彼だった。
血のような傷跡を頬に残し、片目を覆う布。
けれど、その口元にはあの頃と同じ穏やかな微笑み。
「……随分と探しましたね、陛下」
空気が凍る。
誰も息をしていなかった。
「カイン……なのか」
「ええ、殿下。……いえ、“陛下”」
笑いながら、彼は剣を抜いた。
「ここでは、誰が味方で、誰が敵か。
――それを確かめる時が来たようです」
風が渦を巻き、雪が吹き上がる。
焚き火が消え、闇が覆う。
その中で、カインの声だけが鮮明に響いた。
「生き残ったのは、俺だけではない。
“黒の修道団”の残党が、この国を取り戻そうとしている。
――殿下、貴方の王座が狙われています」
剣の音が鳴る。
風が吹き荒れる。
死んだはずの騎士が、再び立っていた。
かつて愛した主と、もう一度剣を交えるために。




