断水の村【夏のホラー2025】
------1日目
八月の熱気は、アスファルトの上で揺らめいていた。
気温は朝から三十七度。家にはエアコンが無い。
窓を開けても、生ぬるい風が押し返してくるだけだった。
蝉の声は耳を圧迫するように響き、首筋を汗がつうっと伝った。
蛇口をひねる。
ーーゴポッ、ゴポッ。
空気の泡が喉を鳴らすような音だけが響き、水は一滴も落ちてこない。
「……まだ駄目か」
額の汗を拭いながら、思わず声に出す。
断水は昨日の昼に始まった。
役場の放送では「配水管の破損が原因」とのことだったが、詳細は不明の様だ。
スーパーやコンビニの棚からはミネラルウォーターを始めとして、お茶やコーヒーなど、ペットボトルが消え、町の人々は数本の水を抱えて帰っていく。
湿った空気が体にまとわりつき、口の中は乾いた紙のようだった。
夕方、外に出ると、道の向こうの古びた平屋で、隣の木村さんが金属のバケツを抱えていた。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。中には澄んだ水が揺れていた。
「木村さん、それ……水?水道止まってるはずじゃ?」
「井戸さ。昔からあるやつでな、枯れたことはない」
木村さんは口の端をゆっくり吊り上げた。
「喉が渇いたら来るといい」
その笑みは、夏の日差しよりも、どこか冷たかった。
------2日目
翌朝も断水は続いた。
役場の広報車が「復旧には今しばらくお時間をいただきます」と機械的な声を流しながら通り過ぎる。
町のあちこちで、ポリタンクや空きペットボトルを抱えた人々がうろついていた。
スーパーの駐車場では、数本の水を巡って小競り合いが起き、怒鳴り声が蝉の鳴き声に混じって響く。
「おい、順番守れ!」
「ふざけんな!こっちは子どもがいるんだ!」
火照った空気に声が刺さり、熱がさらに重くのしかかる。
そんな中、また今日も木村さんを見かける。
昨日と同じバケツを抱え、家の裏から表へ回ってくる。
その水面は日差しを反射してきらきらと光っていた。
「また汲んできたんですか」
「ああ。裏に古井戸があるんだ。今じゃ使っとるのは数えるほどだ」
井戸ーー
町の水道が普及してから、衛生上の問題からほとんどの井戸は埋められたはずだ。
「他の人にも…」
と言いかけた途端、木村さんの笑みがすっと消えた。
「……あんまり人に言わんほうがええ。水ってのは、渇いた人間を狂わせるからな」
その声は、井戸水よりも底冷えがした。
------3日目
三日目の昼過ぎ、外が騒がしい。
窓から覗くと、数人の男たちが木村さんの家の前で怒鳴っていた。
何やら物凄い剣幕だ。
連日の猛暑で苛立ちもあるのだろう、男達は殺気立っていた。
「水を分けろ!」
「昨日はくれたじゃないか!」
木村さんは首を横に振る。
「もう無い。今日はもう汲んでないんだ」
男の一人が木村さんに掴みかかり、突き飛ばす。
「嘘をつけ!独り占めするつもりかっ?!」
これはヤバい、止めに入らなければ木村さんに怪我をさせてしまう程の剣幕だ。
「ちょっと、アンタ達落ち着きなよ」
男と木村さんの間に駆け寄る。
その時、誰かが裏口に回り、叫んだ。
「ここだ!バケツがある!」
「どけっ!」
男は私を押しのけ、小走りで裏手に回る。
「ちょっと、アンタ待ちなよ!」
男の後を追いかけると、裏には一瞬で人が押し寄せ、金属のぶつかる音と水がこぼれる音が響いていた。
バケツの水は地面に吸い込まれ、土が黒く染まった。
「返せ!」
木村さんが突き飛ばされる。
「やめろ!」
と私が叫んでも、肩を乱暴に押され、井戸の縁に背中を打ちつけた。
「ぐあっ!」
その衝撃で視界が揺れ、暗く深い穴が、陽炎の奥で口を開けていた。
頭が井戸の縁に当たり、世界が水底に沈むように暗くなった。
---
目を開けると夜だった。
湿った土の冷たさが服に染み、頭がずきずきと脈打つ。
井戸の底では、月明かりが水面に滲み、揺れている。
しかし、よく見るとその奥には、白く細いものが浮かび上がっていたーーそれは人の手だった。
戦慄する私の背後から、静かに声を掛けられる。
「ああ、また浮いてきたか」
ビクッと身体を強張らせ、振り返る。
声の主は木村さんだった。
声を震わせながら問いかける。
「…あ…あれは何ですか」
「昔はな、いらん奴をここに沈めとったんだ。借金踏み倒した奴、口の軽い奴、外から来た厄介者……」
息を呑む私に、木村さんは続ける。
「この水は山の地下水とつながっとる。流れがあるけえ腐りはせん。……だが、詰まってきたら流れは悪うなる。だから最近は水が減っとった」
木村さんがニヤァと笑う。
「おかげで、みんな渇き始めたろ?」
井戸の水面が波立ち、白い手が二つ、三つと浮かび、こちらに向かって指を開く。
足元の土が崩れ、井戸の闇が私の足首を冷たく舐めた。
「あんたも、ここで渇きを癒やすとええ」
その声は、水の底から響くように低かった。
------4日目
翌朝、町内放送が響いた。
「断水は復旧いたしました。水道をご利用いただけます」
蛇口をひねると水が勢いよく出たが、わずかに黄みを帯び、金属のような匂いがした。
コップに注ぐと濁りが渦を巻く。
「やっと出たなあ」
「これで助かる」
外では住人たちが笑顔で水を飲んでいた。
私はコップに汲んだ水を流しに捨てた。
流れる水音が耳にこびりつく。
あの井戸の底で揺れていた白い手と同じものが、今この水の中に混じっている様に思えてならなかった。
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夕方、再び放送が流れた。
「水道水は安全です。安心してお飲みください」
蛇口を開けると、配管の奥から、ゆっくりと水が流れる音がした。
それは水音にも聞こえたがーー
人の笑い声にも聞こえた。
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3話で終わるサクッとファンタジー
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