この世界ではあらゆるモノがダンジョンと化す
この世界では、あらゆるものが──ダンジョン化する。
建築物や洞窟といった定番はもちろん、井戸や祠、船、車、さらには子供が遊ぶ玩具にまで、「ダンジョンになる」可能性がある。
一度ダンジョン化すれば、内部空間は肥大し、物理法則の縛りから解き放たれる。
建物は塔と化し、洞穴は奈落へ。
玩具は周囲の人間を飲み込む底なしの穴となり得る。
初めてその異常性が公式に認知されたのは、A市にある古びた一軒家でのことだった。
庭にあった、苔むした石組みの古井戸。
それが、最初の記録された「ダンジョン」だった。
当初、その空間は決して広くはなかった。
井戸の内部とその周囲に、ごく不自然な広間が広がっていた程度。
しかし、問題はその広さではなかった。
そこにいた「ボス」だった。
後にSと命名されたその存在。
「女の悪霊」は、住人を皆殺しにし、遺体を敷地中に撒き散らした。
異変を察知した隣人からの通報により、警察が現場へ赴いた。
が、敷地へ足を踏み入れた瞬間、警官たちは全員、捩じり殺された。
現場は即座に封鎖される。
だがその頃には既に、周囲には野次馬が溢れかえっていた。
それが、地獄の始まりだった。
現場には報道陣もいた。
中継用のヘリコプターも飛んでいた。
そのときの映像は、今でもアーカイブに残されている。
「ご覧ください! 現場は現在、阿鼻叫喚の騒ぎです!」
興奮気味のアナウンサーの声。
その向こうに、問題の家屋。
そこに──動く異形の姿があった。
生放送される「それ」の映像。
全国の人々が、目撃した。
明らかに人間ではなかった。
異形。
人型ではあるが、皮膚は剥がれ、髪は宙に浮き、顔面には無数の目。
どこかで「悪霊」と表現されたのも納得の、それは神秘そのものだった。
Sは、カメラに気づいた。
次の瞬間、奴は飛翔する。
空を裂き、ヘリへと肉薄する。
カメラが大写しにその顔を捉えた刹那──画面が乱れ、視点が回転し始める。
悲鳴。
機体が傾き、音声が消える。
そして──墜落。
その瞬間まで、映像は配信され続けていた。
騒然とする中、出動した機動隊がダンジョンへ突入。
銃火器を用いてSを討伐することに成功した。
だが、多くの者が疑問を抱いた。
なぜ、あれほどの「化け物」が、あっさりと倒されたのか?
後日、政府の情報統制下にある専門家が、こう語った。
「神秘ってのは、秘されてこそ力を発揮するんだよ」
「大勢の人間の目に留まれば、神秘は薄まる」
「少なくとも、この世界ではそうなってる」
突拍子もない理屈だった。
科学万能と信じていた世界で、誰もが初耳の常識だった。
その日を境に、日本各地にダンジョンが出現し始めた。
しかも、それは無差別に。
モノを媒介に、突如としてこの世界の裏側が姿を現す。
それが「ダンジョン化」という現象だった。
建築物や自然洞穴といった場所だけではない。
井戸、祠、使われていない車、旅客船、廃棄されたテレビ、果ては子供の玩具に至るまで、あらゆるものが、空間を異常に拡張し、別の法則で動き出す。
そして、出現したダンジョンの内部には、必ずボスが存在する。
「ボスを倒せば、ダンジョンは消滅する」
それだけは、この世界において今のところ唯一の「絶対法則」だった。
当初は自衛隊が対応に当たっていた。
が、それも長くは続かなかった。
ダンジョンは、まるで発症する病のように、日本の至る場所で立て続けに発生したのだ。
都市部の廃ビル。
誰も住まなくなった村の祠。
離島に打ち捨てられた自動販売機。
都心の駐車場に放置された自動車。
出現場所の特定は困難を極め、しかも発見される頃には周囲で死者が出ている。
単純に手が回らない。
「ゲームのように、ボタン一つで即座に部隊を派遣できればいいが──」
誰かがそう呟いた。
だが、ここは現実だ。
ボタン一つで動く兵隊などいない。
加えて、ダンジョン内部の環境は予測不能。
ある時は水没した迷宮、またある時は重力が逆転した遺跡、時にはコロシアムのようにボスとの一騎打ちを強制される構造すらあった。
当然、必要とされる装備や戦術はすべて異なる。
事前に構造がわからないダンジョンに、適切な部隊を投入することなど不可能だった。
戦力を測るのにも戦力がいる。
それが、この世界の新しい現実だった。
政府は、対応を迫られた。
提示されたのは、二つの選択肢。
「自衛隊の戦力を大幅に増強し、日本各地に常駐させる」
「ダンジョンの偵察・構造把握を外部機関に委任し、自衛隊は“戦闘”のみに集中する」
結論から言えば、前者は実現不可能だった。
徴兵制が存在しない日本で、今の規模の自衛隊を何倍にも増やすなど、時間も人材も予算も足りない。
そこで採られたのは、消去法による「第二の選択肢」だった。
政府が通達した「緊急ダンジョン対応指針」は次の通りだ。
・ダンジョン出現直後の偵察・構造把握は外部機関に任せる
・自衛隊は戦闘行動のみに集中する
・出現から3時間以内に情報が届かない場合、自衛隊は爆撃などによる強制排除を行い、ダンジョンごと対象区域を消し去る
・これに伴う民間被害は許容されるものとする
当然、この指針は猛烈な批判を浴びた。
「民間人の犠牲を前提とするのか」
「なぜ外部機関に丸投げするのか」
「その“外部”とは、具体的にどこなのか」
ワイドショーやSNSは連日炎上し、街頭インタビューでは誰もが口々にこう言った。
「結局、民間に押しつけるってことでしょ」
「誰がそんな仕事、やりたがるのよ」
結論から言えば──
そんな仕事に就く者は、思ったより多かった。
その先頭に立っていたのが──かの「専門家」だった。
政府の方針発表の時に、「神秘」について語っていた、口ひげの男。
彼は自らを「言霊使い」と名乗っていた。
「俺が目をつけたのは──報道機関だった」
カメラの向こうで、彼は指を立てて続ける。
「連中に化け物の映像を流させれば、それだけで神秘は薄まり、化け物は弱体化する」
「実際“S”を倒せたのはそれが理由だ。あれだけ人目に晒されれば、神秘の力も萎む」
だが、問題はそこからだった。
「俺の提案に、報道機関の連中はこう答えた」
「スタッフの安全が確保できない、中継は危険だ……まあ、正論だわな」
「大勢を引き連れてダンジョンに入るなんて、非現実的だってよ」
彼は肩をすくめた。
そして、満面の笑みで宣言する。
「だから俺は考えたんだ。報道が無理なら──個人に頼むしかねえ、ってな」
個人なら動きが早い。決断も早い。何より、命の値段が軽い。
この世界で「無謀」という名の自由を持つのは、常に「個人」だった。
「もちろん手ぶらで行けってわけじゃねえ。俺が作った配信用のアプリを使ってもらう」
「ダンジョンでの配信はリアルタイムで自衛隊にも共有される。これで政府も動きやすくなる」
「……ま、そっちはオマケだな」
そう言って彼は、画面の下部に表示されたコメント欄を指さす。
「一番注目してほしいのは、コメント機能だ」
このアプリの最大の特徴。
それはコメントに「力」が宿るということ。
「同じようなコメントが、何度も、何百回も重なれば──それは言霊になる」
「飛べと本心からコメントされ続ければ、人間でも空を飛べる」
「殺せとコメントが渦を巻けば、腕力が数十倍になる」
「ただし、コメントの内容に沿った強化しか得られねえ」
「自作自演も意味はねえ、本気のコメントでないと言霊は動かない」
それが、「言霊使い」と名乗る彼の力。
そして、配信者たちの唯一の武器。
この発表を境に。
ダンジョン攻略を生業とする者たちが爆発的に増えた。
理由は単純だった。
「成功すれば対策局から報酬が入る」
「配信がバズればヒーローになれる」
「何より、コメントの後押しがあれば、超常の力を発揮できる」
そして、今。
今日もまた、どこかで誰かが。
命と、視聴数と、言霊を背負って、ダンジョンへと踏み込んでいく。