56、タウンハウスでの出来事【前】
公爵家のタウンハウスの門を馬車が音を立ててくぐる。
その瞬間、両親が健在であった頃の雰囲気はなく、それよりも不思議なほど重たい空気と、そして穏やかな自分ではないような空気が纏わりつくようになっていた。
―――ああ、この感じは何度戻っても慣れないわ……。叔母様が不審者からタウンハウスを守るために、呪いをしたと言われていたけれど、体が重い……。
外から馬車の扉が開かれると、別の馬車で先に向かっていた使用人が扉の前で待っていた。
差し出された手に己の手を重ね、ゆっくりと足を進める。
「……お帰りなさいませ、ベアトリーチェお嬢様」
出迎えた使用人たちの目は、普段と変わらない公爵家の真面目な者たちの目である。
しかし、どこか焦点が合わず、生気がないように見えるのだがベアトリーチェも門をくぐった瞬間からその判断はつかなくなっていた。
「戻りましたわ。荷物を運んでちょうだい」
「承知いたしました」
「ああ、それと皆さんにお茶の準備をしてあげて」
「はい」
ベアトリーチェも、公爵家の使用人も、付き添いの侍女や護衛騎士も皆、頭の中に靄がかかったかのように動きは緩慢で、ぼんやりとした笑みを浮かべている。
指示を出していると、今やこのタウンハウスの主となっている公爵夫人であるレベッカの声が響いた。
「あら、ベアトリーチェ。戻ったのね。遅かったじゃない! 待っていたのよ、早く入りなさい。色々と楽しいお話をしましょうね」
「はい、ただいま戻りました。レベッカ様」
レベッカの笑い声が、静まり返ったポーチに響く。
ベアトリーチェは無意識のうちに挨拶を返した。
―――ああ……おかしい。何かが、ずっとおかしい……。でも、でも、何がおかしいのかしら……。叔母様の言う通りにしなくては……。
「ちょっと、フォレ! 早くこれを運んでちょうだい! 使用人に取られたら、分かってるでしょうね!?」
あまりにも失礼なことを言っているにもかかわらず、公爵令嬢のベアトリーチェも、さらには言われた本人たちもレベッカから発せられる侮辱にも近い言葉が気にならない。
「ああ、ごめんよ。レベッカ、そんなに美しい顔を歪ませないで……。君は笑っている顔が可愛いのだから」
叔父である現公爵も同様だった。
かつての穏やかであった雰囲気を失い、目を吊り上げて怒鳴り散らしながら扇を揺らすレベッカの言いなりになっていた。公爵家の使用人の前だけではなく、ベアトリーチェに付けられた王城で働く者たちの前だが、誰も表情一つ変えなかった。
「さあ、行くわよ。こっちへいらっしゃい、ベアトリーチェ」
「はい、レベッカ様」
今までであれば、ベアトリーチェたちを安全に案内する役目は最も信頼のおける従者が先頭に立って歩いていた。だが、ここ数か月は屋敷に戻っても、最も信頼していた人々の姿が見えなくなっていた。
父の従者であったレオナルドも、その妻のシャルロッテ、そしてベアトリーチェの侍女だったニナも。
―――公爵領に戻っていると聞いているけれど、タウンハウスにも新しい人を雇ったのね。報告は来ていたかしら……? ああ、でもその報告もレオナルドがやってくれてたのだったかしら……ええっと、あら……どうだったかしら。
ベアトリーチェが考え事をしていると、レベッカが扇で空を切った。
その仕草に使用人たちは静かに下がっていく。開かれた扉から三人だけが中へ入るとお茶の準備もないまま、扉は最初と同じようにゆっくりと閉められた。
「フォレ、早く全部出して」
「もちろんだよ」
指示を出すとレベッカはフォレに荷解きをさせて、自身はソファに深く腰掛けた。
ベアトリーチェには何も声がかからず、それは座ってはいけないという合図である。勝手に座ろうものなら、レベッカの容赦ない力で尻や太ももを扇で打たれるのだ。
「ドレスはここに置いて行くから、レベッカは宝石でも見てて」
「ええ、そうするわ」
早速持って帰った宝石箱を開き、中身を確認する。
フォレは自ら出したドレスをソファの背に乱雑に置かれていく。その光景をベアトリーチェは当たり前のように見つめていた。
「あら? これってあの豚みたいな伯爵夫人が自慢していたイヤリングと似てるわね……。でも、王太子様からの贈り物だもの、絶対こっちの方が良いものに決まってる! どーお? フォレ、似合う?」
「ああ、君に凄く似合っているよ!」
「まあ、このルビーのネックレス……なんて大きいのかしら! こんなに大きいもの、誰も持ってないはずよ。それにこの……この……ええっと」
「それはローズクォーツだね、可愛らしい君に良く似合う」
「もう、知ってたのに! フォレなんで言うの!」
初めて会った時のレベッカの口調とはかなり変わってしまっている幼い口調に、ベアトリーチェは以前は違和感を感じていたはずだが、今はその違和感すらも感じなくなっていた。
「ねえ、ベアトリーチェ。このドレスちゃんたちは、あんたよりも私の方が似合うわよねぇ?」
「はい、もちろんです。レベッカ様にしか似合いませんわ」
「そうよねえ。だって、あんたはどれを着たって似合わないんだもの。それに、なんなの今日のそのドレス! 質素どころか飾り気一つなくてみすぼらしいわねっ。でもまあ……」
レベッカはゆっくりとソファから腰を上げると、立ったままレベッカたちを見つめていたベアトリーチェの側までやって来た。そして扇の先で顎から首、鎖骨までのなぞる。
そして、呼吸をするたびに上下する胸元で手を止めると力を込めて押した。
「……っ」
「今回のドレスもあの変態王子の好みとはちょっと違うけど、まあ体のラインを出させた下品なドレスでいいんじゃない? 我儘な公爵令嬢さん?」
「は、はい……」
「このドレス……宝石もあまり使われていないみたいだ。ディエゴ殿下はパーティーなどで使うドレス以外は、あまり派手なものは作らせなくなったのかもしれないね」
「そうね……確かにここ数年、仕立てるドレスを結構持ってこさせてるから、ベアトリーチェが持ち帰っているのもバレてるかもしれないわよね」
「うん。そろそろベアトリーチェも学園に入学するし、あまり持ち帰ることもできなくなるだろうね」
「えー! やだぁ」
薄いピンク色の指輪を指にはめて、顔より上に上げて角度を変える。
大ぶりの宝石の周りはダイヤで縁取られており、その指輪一つでレベッカの実家である男爵家が数年分の蓄えを全て出したとしても、到底買い取れぬほどの代物であった。
「はあ……でも、仕方ないか。でもまあ、仕方ないか……。はあ、ねえ、フォレ……そうなったら、フォレが新しいドレス買ってくれるよね?」
「ああ、公爵夫人としてレベッカには頑張ってもらっているんだから、欲しいものを買ってあげるよ」
「やったあ! ああ、そうだ、ベアトリーチェ。今日のそのドレスは要らないから。前着てたやつはなんか留め具に高価な宝石が使われてたからその場で脱いでもらったけど、今日は安心してよね。ふっ、なにその飾り気のないドレス……あははは、何度見ても年頃の令嬢とは思えないほど質素ねえ」
「そうだぞ、ベアトリーチェ。兄さんと義姉さんも悲しむよ。お前が公爵家の品位を落とすようなドレスを着ていると」
―――品位を落とす……ああ、でも、もっと華やかなものを着るとそのドレスはとられてしまって、侍女のワンピースを借りて帰ることになるわ……。でも、公爵家のためにも、叔母様のためにも、もっと派手なものを着ないといけないわ。とられることなんて大したことないじゃない……。
「はい、叔父様、レベッカ様……。今後は殿下にご相談してみます」
「そうしてちょうだい。学園に入学したら学園や生徒主催の小さな茶会しか出れないでしょ? その時に王太子様にとっても高いの、おねだりしなさいよ」
「はい、レベッカ様」
レベッカは自身よりも上背のあるベアトリーチェを覗き込むようにして見上げると、顔を傾けた。
あまりにも直接的な言葉ではあるが、その言葉を聞いてもベアトリーチェは特に何も思わなかった。
否、思えないのだ。
ベアトリーチェは何があろうとも、レベッカのためになることをしないといけないのだから。
微笑みを浮かべているが、ぼんやりとした表情のベアトリーチェにレベッカは歪な笑みを浮かべた。




