53、ベッファの過去⑬
ハンナは自分の体の奥深くから神聖力が吸い上げられていく感覚に、吐き気を覚えた。
今までは自分自身で神聖力を使うという気持ちがなければ、多くの神聖力は体の中に留まっていた。しかし、訓練を積む前は確かに体から漏れ出ていた。
その感覚は当時は理解できなかったが、今やっと理解できた。
「ハンナ様、申し訳ございません。これも国のため、殿下のためでございますので……。ハンナ様の神聖力の蓋が閉まらないように、無理やり開けたままにさせていただきました。ハンナ様がどれだけ力を使うことを拒否しようと、その刻印がある限りハンナ様は自分自身では蓋を閉じることはできませんわ」
「…………っ」
じんわりと漏れ出ていた感覚が、確かに当時の感覚と似ている。
だが、今はそんなものの比ではない。無理やり嘔吐させられている感覚に近く、立つことに怠さを覚えるほど、力が抜けていく。
「刻印は術者である私が死ぬか、術を切るまで、ハンナ様は私に隷属する存在に成り下がってしまいました。大聖女様が魔術師の下……ふふ」
「ゔぅっ〜〜〜んんっ」
ハンナはもはや声にもならない悲鳴を上げ、自身の鎖骨の下にある刻印を掻き毟った。美しい指先と白い肌は、見る間に血で赤く染まっていく。
「ハンナ、私は心底お前が憎い。私の時間を無駄にしたのだからな。それは国力を削ぐ行為と同じである。お前はその罪を償うために、長く苦しみながら生き永らえるといい。この国を騙し、私を陥れた罰なのだから、私を愛しているお前には嬉しいことだろう? お前が作り出す平和で安全な世界で、私はソフィアを妃にし、真実の愛の中で幸せに生きていくとするよ」
「ゔうぅぅうゔっ」
悔しそうに肩を震わせながら、ベッファの足にしがみつこうとするハンナを、アリアが静かに何かを呟くとハンナの体が不自然な体勢で床に沈みこんだ。
ベシャリ。
「やめろ、靴が汚れる」
ベッファはハンナのドレスで靴の先を拭うと、ハンナを見下ろした。
背後で響く慟哭は声にもならず、鼻をすする音と呻き声だけが大きく響く。
「アリア、この呻き声すら煩わしい。もっと強い術式にしろ」
「承知いたしました。それではハンナ様には眠りについていただきましょう。そして……ベッファ様、お約束は守ってくださいね」
「ああ」
ベッファはハンナを足蹴にすると、一度も振り返ることなく部屋を出る。
「さあ、ハンナ様。どうぞ穏やかにお眠りになられてくださいね。もう、殿下とお会いできないでしょうが……寂しくはありませんわ。あちらにはアイリス様もいらっしゃいますから」
アリアの優しい声色が耳に届くと同時に、扉は締まる。
閉まる瞬間、僅かな呻き声と衣擦れの音がした。
外にいた騎士たちには部屋の中での話し声は聞こえておらず、ようやく出て来たベッファを心配そうな顔で見やった。
「ベッファ殿下、ご無事でしたか」
「ああ、心配をかけたな。ハンナが倒れてしまってな……」
「左様でございましたか。ですが、聖女様はいつも元気であらせられますので、心配は無用でしょう」
騎士は閉ざされた扉の奥を見透かすように、忌々しげに見つめた。
「ハンナだが……残念だが夜明けと共にここを発つことになった。彼女はこのまま修道院へ行く。私を愛しているのだから、国の守護である結界は張り続けたいと自ら願い出てくれたよ。『ベッファ様のためならば』と、ああ……ハンナも聖女であったのだな。これでこの国も安全なままだ。民も安心できるだろう」
「殿下や国を謀っていたのです。そのくらいは当然のことですが、まさかあの方が自らそのようなことを仰るとは。殿下を愛していたということは、本当だったのですね」
「そうであってくれたら嬉しいよ。まさかそんなことまで嘘を付かれていたら、私は悲しくなってしまう」
ベッファとハンナの私室の前を守っている護衛騎士にだけは、早いうちにハンナがどんな魔法を使っていたのかは説明されていた。だからこそ、彼らの視線は恐ろしいほどに冷たく、ハンナに対する同情などはみじんもなかったのだ。
「殿下……。お気を強くお持ちください。あの方も今更嘘を付いても仕方のないことくらい、分かっておいででしょう」
「そうだな。私が弱気になっていてはいけないな……。皆には苦労を掛けたが、最後までよろしく頼む」
「はい。では……このまま準備を進めさせます」
騎士の一人が修道院への移送の件を話す。彼らにとってすでにハンナは『王太子妃』でも『聖女』でもなく、ベッファを騙した『悪人』であった。
尊敬するベッファを、そして国を、卑怯な手で落とそうとした『悪人』なのだ。
「ああ、頼んだ。途中で目が覚めておかしなことを喚くことはないだろうが、修道院に行くまでは王太子妃として丁寧に扱ってやってくれ」
「…………御意に」
あれほど自身を欺いていた女に対しても優しさを見せているベッファを見ていられず、二人の騎士は痛ましげな表情で目を伏せた。
ベッファは軽く手を上げて二人の肩を叩くと、その場を歩き出す。騎士たちがこの後どうするかなど、ベッファにとって知ったことではない。
これで、ベッファとハンナは二度と会うことはなくなったのだから。
―――……ああ、私の愛しい宝物。ハンナという邪魔者は、これでいなくなった。お前が異母妹であることを知っている者はほんのわずか……。お前を手に入れるためならば、私はこれからもどんなことだってしよう。
ベッファは、ふと窓を見やる。
「私を独り占めできるのは、お前だけだよ……」
先ほどまで夕暮れであったはずが、もうとっぷりと暗闇が広がっていた。
窓に映る自らの顔の歪みに、笑いをこらえる。誰にも見せることの許されない、王太子として、一人の男として、愛する者を手に入れたいと願う歪んだ笑みであった。
―――ソフィア、待っていてくれ。真実の愛と言うものを全てお前に差し出そう。その代わり、私はお前から最愛の夫、最愛の家族、最愛の兄として……全ての愛を貰うとしようか。




