52、ベッファの過去⑫
自分 の 世界。
あたし の せかい。
全てが思いのままになるはずだった。
「そんな……そんなのって……! 嫌、嫌よぉ……! あた、し……だけがベッファ様を本当に愛してるの……ベッファ様の隣にいるべきなのは、私……っ」
「美しい泣き顔だ……ああ、ハンナ、たった今、私はお前を心の底から美しいと思えたぞ。お前は『病で療養する』と民には告げられ、お前は『王太子妃』ではなく『聖女ハンナ』として生涯を終えるんだ」
ベッファは膝をつき、絶望に震えるハンナの耳元で部屋に入って来た時のように甘く囁く。
「お父様、お母様は……!? 教会だって……こ、こんなの許さない、はず……よ……」
徐々に掠れていく声に自信などない。
男爵家には王家に嫁いで以来、一度も帰っていない。
心配して送られてくる手紙も、自分にとって価値のない贈り物も全て無視をしていた。
―――だって、ブランド品が欲しいと言えば手に入るのに、男爵領のパッとしない生地で作られたショールなんていらないでしょ!? もっと、もっと別の品を贈ってくれてれば返事をしたわよ! 私は王太子妃よ!? 聖女なのよ!? あんな、ダサくて田舎臭い品物なんていらないのよ!
男爵家は様々なことでハンナを助けてくれていたが、その助けを当然とし、何も返さなかった。
ハンナのために男爵夫妻は使用人を選んで送り、ハンナが好きだった麻の味わい深い品物を贈り続けていた。
だが、王宮からハンナを修道院へ送るという手紙が男爵夫妻の手元に届き、二人は自分たちを責めた。
「お前がこの城から排除されること、修道院へ行くこと……誰も反対しなかったぞ。むしろ、願っていたようにも思えたな。今のお前には悪魔が憑いている、とな。男爵たちはお前の心を守れなかったと悔いていたぞ」
「そん、な……お父さん、お母さん……ぃや……嫌よ」
「その絶望の表情……ああ、たまらないな、ハンナ。だが……」
その声は甘く熱を含んでいたが、ハンナにとっては悪魔のような言葉が続いた。
「お前の代わりを見つけたんだ。お前に感じることのなかった『真実の愛』を私に教えてくれた女を」
「私以外の……真実の愛……?」
「ああ、そうだ。お前も教会で会っただろう? お前とは違い、純真無垢で母を愛する可憐な少女、ソフィアだ。お前が彼女と私を出会わせてくれたんだ。そのことだけはお前に感謝しているよ、ハンナ」
「ソフィア……ソフィアってあの、教会にいた小娘なのね……っ! 私から、全てを奪う気じゃない! だから、あの時、不快なものを感じたのよ……! ベッファ様、あの小娘は駄目よ! あれは悪魔なの……! この国を破滅へ追い込む悪魔よ!」
「悪魔はお前だ」
ベッファは必死に言葉を紡ぐハンナの髪を乱暴につかんだ。
美しい髪が抜けても、苦痛に歪んだ表情をハンナが浮かべてもベッファは力を緩めなかった。
「痛いっ」
「痛くしているんだ、馬鹿が。お前のような醜い心根を持つ者には、あの純粋な少女の心など分からないのだろう」
「あ、あんたがその気なら……、あ、たし……あたし……」
わなわなと口を歪ませるハンナに、ベッファは頭を揺らすように乱暴に髪から手を離した。
「なんだ、言ってみろ」
「この国のためになんて、絶対に祈らないっ! 結界もすぐになくしてやるっ!」
「はあ……大人しく修道院へ行ってくれれば良かったものを。アリア来い」
「はい、ベッファ様」
「……っ!?」
ベッファは立ち上がると、ハンナを見下ろしながらアリアの名を呼んだ。
アリアは音もなく現れると命じられることもなく、ハンナの鎖骨と胸の間に触れた。
「んぎあっ」
ハンナの濁った声での悲鳴は、一瞬で消えた。
あまりにも自然な動きで自身の体を触れられたことに、ハンナは反応もできなかった。
口はパクパクと何かを叫んでいるが、声は発せられることなく、ぐるんと数秒の間、白目を向いていた。ビクビクと体を震わせたが徐々に感覚が戻り、ハンナは荒く呼吸をする。
「流石、聖女と言ったところか。他の者はしばらく意識を飛ばしていたが……」
不意にハンナの指先がベッファの靴に触れそうになるが、忌々しげにその指先をベッファは避けた。
舌打ちと共に不快感を表すと、その光景を見ていたアリアがゆっくりと指を回す。ハンナの体に触れたままの細く白い指先から、禍々しい光がじんわりと漏れ出ている。
ハンナの鎖骨と胸の間に、言葉にするには難しい光を宿した刻印が浮かび上がっていく。
「……、…………っ!?」
鈍く光る刻印はすぐに見えなくなったが、ハンナの顔は驚きを隠せていなかった。
涙と鼻水と涎で汚れているその顔には、恐怖を通り越した絶望の表情が張りつけられていた。。
「アリア、いつも通り素晴らしい刻印だ」
「お褒め頂き光栄ですわ、殿下」
「ハンナ、もうお前のその醜い声を聞かなくて良いと思うと、晴れやかな気持ちだ。これからも私のためにお前の力を使ってくれ」
ベッファのその顔は恍惚とした表情を浮かべていた。
泣き崩れ、汚れたハンナの顔こそ、今のベッファにとっては最高の見世物であった。我慢していたものが、どろりどろりと胸の中から垂れ流れていく。
―――ベッファ様のこの顔……ゲームで見たことがある、わ……。本当に、嬉しい時の顔。あたしのことを今はじめて見てくれてる……ああ、嫌、嫌よ……このアリアという女、こんな女いなかった……。なんで、なんでよ、ここはあたしの世界じゃないの……?




