50、ベッファの過去⑩
「……お前のように無能な奴は力を制御することができず、知らぬ間にその力が漏れ出て他人を支配する力を垂れ流すんだよ!」
普段のベッファからは想像もできないほど大きく、威圧的な声。
そして思いがけないベッファからの嘲罵に、ハンナは狼狽えた。
それはハンナが思っていた世界とは違っていた。
この世界はゲームの世界で、ハンナのために作られた物語。登場人物は全て思い通りに動き、ハンナのための世界で自分は生きているはずなのだ。
「そんな……だって、ここは……っ」
「ここは、なんだ? お前がよく喚いている物語の世界だとでも言いたいのか? 私たちは生きている人間なんだよ! 物語の登場人物でも何でもない、な……!」
「嘘、嘘よ……! だって強制力が今まで……!」
「強制力……? 聞いたことのない力だな。しかし、今はそんなことはどうでもいい。お前が王太子妃になるために神聖力の使い方を覚えたことで、魅了魔法は徐々に発揮されなくなっていったそうだ」
「それはそうしろって……」
「私がお前に助言したことだな。だが、今まで魅了魔法にかかり、無条件でお前に好意を抱いていた者たちは、私の助言でお前が神聖力の使い方を覚え、無意識に漏れ出る魅了魔法を制御できたことで、解放されていったんだよ。あの時、力を磨いて良かったな?」
「あ、ああああ……っ」
ハンナの顔色は蒼白になり、口からは悲鳴のような、ただ漏れるだけの言葉が出始める。それでもベッファは言葉を止めなかった。
「しかしまあ、見事に私もその魅了魔法に引っかかったわけだが。お前には散々良い思いをさせてやったんだ、この辺で現実を教えてやろう」
「現実ってなに……? い、今だって私に酷いことを沢山言ってるじゃない! これ以上酷いことなんて、あるわけないわ! ベッファ様、いい加減にして! なんでこんな酷いことするのよっ」
「酷いこと、ねぇ……。まだまだ、理解できていないようだな」
ベッファの腕によって、無理やり上を向かされているハンナは、その状況から逃れるためにベッファの手首を掴んだ。しかし、その手の力は強く簡単には離れない。
逃れることのできない状況で、ハンナは何が起こっているのかも分からないまま、話を聞くしかできなかった。
「お前がその手で追い落としたと思っている、アイリス・オルディンのことだが……。アイリスは最近まで元気に暮らしていたよ。お前が王太子妃となり、聖女として民衆からちやほやされている間も、ずっと、な」
その言葉にハンナの呼吸は乱れた。大きな瞳が信じられないものを見たかのように見開かれる。
「な……何を……言っているの? だって、ベッファ様……あの夜、アイリスは惨めに幽閉されたって……」
卒業パーティーの夜以降、ハンナはアイリスについて何度となくベッファに尋ねた。返ってくる答えは決まっていた。
『あの女は国の監視下で惨めな生活を送っている』
『きっと君が見ても誰だか分からない顔になっているよ』
『公爵家の血筋を簡単に消すわけにはいかないと、国王である父が言っているんだ……。ハンナ、私の愛する人は君なのだからあんな女の子とは早く忘れてしまえ』
ハンナは眉根を寄せて嫌悪感を露わにする。
「惨めだって……言ってたじゃない! 公爵令嬢がまるで奴隷のような暮らしをしているって……!」
「ああ、そのことについて私は嘘など一つもついていない。アイリスは我が国にある公爵家の令嬢で、由緒正しき血筋だ。そんな女を簡単に消すわけはないだろう? 巷で流行している、平民と王子が結婚して幸せになるような本があるが、あんな物語は現実にあるわけがない」
「知らない、知らないわよ……」
「公爵家は国にそんなにある家柄ではないんだよ。馬鹿でも分かるように教えてやるが、公爵家ともなれば過去に王族と縁付いた者も多くいる。そんな家柄の娘を簡単に追放したり、他国に嫁に行かせるわけがないではないか! しかも、アイリスは私の妻になるべく教育を受けた娘だぞ? 余程のことがない限りは国から出すなどありえない!」
ベッファの言葉は当然であった。
アイリスに愛情を感じたことは一度もなかったが、過去に多くの王家の関係者と縁付いた家柄である。そのような令嬢を手放す気など全くなかったのだ。
実際にアイリスと上手くいかなければ、愛人を持てば良かっただけだったのだ。それをハンナがぶち壊してしまった。
「……公爵家の娘だからこそ、ただの女として生かしておくには……もったいない。お前にはない『尊い血筋』はこの国の次の王である私のために使わなければな。だから、アイリスに子を産んでもらった」
ベッファはハンナの顎をさらに強く締め上げ、耳元で残酷な真実を告げる。
「だから? 子を……産んだ? 噓、嘘よ! 聞いてないわ!」
「教えるわけないではないか。全て女であったから、夜には出ていないだけだ。男であれば、お前の子として跡継ぎにしていた」
「そんな……」
ハンナが聞こえていると訴えていた子供の泣き声。
あれはやはり現実であり、その答えはすぐ傍にあったのだ。
「現実的にお前は子を産めなかったからこそ、アイリスで私の子種を試したんだ。ちゃんと孕ませることができるかを」
「そんな……人を実験台みたいに……」
「実験台で何が悪いんだ? 次期国王になる私の力になれたのだ。誇りこそすれ、悲しむことではないだろう?」
「…………っ」
あまりの悍ましさにハンナは瞼を閉じた。あれほど好きだったはずのベッファの顔を、今は見ることすら恐ろしかった。
打ちひしがれたように項垂れ双眸を閉じたハンナを見つめる。
ベッファの脳裏には薄暗い部屋の奥で、常に無表情であったがハンナの話をする時だけは表情を変えるアイリスの姿が思い浮かぶ。
―――なぜ、アイリスがハンナに対してあんなにも気にかけていたかは分からないが、アイリスは私の価値を証明することができて光栄だっただろう。だが、ハンナはまだまだ道具としての自覚が足りないな。これから私とソフィアのために、しっかり働けることに感謝してもらう。
「アイリスはな、四人も子を産んでくれたんだ。お前とは違い、役に立つ存在だった」
「嘘……嘘よ……。そんなの、あり得ないっ、あり得ないったらっ! 私こそが、私こそが! ベッファ様の子を産むべき存在なの! だって聖女よ!? 私は聖女なの! 私が、ヒロインなの!」
「無理だな」
「……え?」
ベッファは短く、切り捨てるように言った。
その声には一切の感情はなかった。




