49、ベッファの過去⑨
宰相との話を終えたベッファは、自室へと続く廊下を歩いていた。
窓の外は夕暮れに染まり、ベッファの足元にも長い影が伸びている。もうじきこの茶番も終わるのだ、とベッファは口元を歪める。目的の部屋が近づくにつれ、扉の向こうから漏れ聞こえる耳障りな声に、ベッファは不快そうに眉根を寄せた。
「まだ片付けも終わらないの!? 本当に無能ね、あんたたち!」
ガシャンッと何かが砕け散る音が廊下にも響き渡ると、すぐに甲高い声も聞こえてくる。
扉の前に直立する二人の護衛騎士は無表情を保っているが、その瞳には隠しきれない疲れと怒りの感情が滲んでいた。
ベッファ自身も疲れたような表情を浮かべ騎士に近づくと、労いの声をかける。
「いつもすまないな。それで……いつも通りかい?」
「はっ。数時間前から食事のことで中の者たちを叱責し、少し前より調度品を投げ散らかしては……また侍女たちに当たり散らしておいでです」
ベッファは短く溜息を吐いた。
かつてはこの金切り声すら愛らしい声に聞こえていたのだ。魅了魔法というのは実に悍ましいと身をもって実感する。今のベッファにとってこの声は、獣の鳴き声と同じだった。
―――この扉の向こうには、醜い化け物がいる。学園の生徒だった時は、あれほど愛おしくてたまらなかった存在だったが、魔法が解けると一気に反転するな。むしろ、悪感情が酷くなったような気がするな。自分が主人公で、世界は己のために回っていると信じて疑わない、無知な女という面しか見えてこない。ああ、なんて醜い女なんだ……一刻も早くハンナを修道院へ押し込めて、ソフィアを妻に迎えたい……。
ベッファは一度、目を閉じてソフィアの子供らしい純粋な笑みを思い出す。
その思い出だけで、ハンナの醜い声を消し去ってくれるような気がした。ソフィアを妻にするためには、邪魔な存在を消さなければならない。
その一人であるアイリスはすでに王都にはいない。残る一人は、ここにいる化け物であった。
「扉を開けてくれ。ハンナを落ち着かせるために、侍女や使用人を一度外に出させるから、私が中に入ってからは、皆のために誰も中には入らないでくれ。例え……ハンナが怒りで叫び、暴れ回る音が聞こえてもだ」
「で、ですが……それでは殿下が危険では」
「ありがとう。だが、心配はいらない。ハンナのためにも……いや、国のためにもハンナとは一度ゆっくりと話さねばならないんだ」
「はっ……はい、承知いたしました。殿下……どうか、お気を付けください」
「ああ、ありがとう」
ベッファの国を想う落ち着いた声に、騎士たちは一瞬身を震わせたが、力強く頷いた。
カチッ、という小さくも解錠の音が響く。
―――ハンナ、最後の時間を楽しもうじゃないか。
扉と向かい合った瞬間、ベッファは無表情になる。
そして扉が騎士によって開かれた瞬間『優しく慈悲深い王太子』の仮面を張り付けた。
扉がゆっくりと開き、室内から荒い息遣いが聞こえる。
片付けをしている使用人と、側で見守る侍女たちを痛ましそうにベッファは眺めた。ハンナは弾かれたように振り返ると、ベッファの姿を目に入れたがそのベッファの表情を考えることなどしない。
ベッファは自分のためだけに存在していると、ハンナはそう信じているからだ。
「ああ、お帰りなさい……! 待っていたわ、今まで……ずっと、ずっと!」
ベッファの足が片付けの最中の部屋へと踏み入れられる。
「寂しかったの、ベッファ様っ! 慰めて……っ」
駆け寄ってくるハンナの美しく手入れされたピンク色の髪は乱れ、憐れなほどであった。ベッファはその体を受け止めながら、頭上からその姿を見下ろす。
そして、小さな声を漏らした。
「これは……酷い」
「そうなのっ」
ハンナがベッファの声に応えるように声を上げ、震える手でベッファの腕に縋り付こうとする。しかしベッファはその手を自身の手で制すると、まずは部屋の隅で片付けをしながら震えている侍女たちへと視線を向けた。
その眼差しは穏やかで労いに満ちていた。
「皆、苦労をかけたな。ハンナの世話はさぞかし骨が折れただろう。今日は下がって休むといい。侍女長には私から話は通してある」
ベッファの穏やかな言葉と労いに侍女たちは驚いたように顔を上げたが、すぐに安堵の表情を浮かべて礼をとる。
「もったいなきお言葉でございます、殿下……」
「ベッファ様!? なんで……この女たち、私を馬鹿にしていたの……!」
「さあ、下がりなさい。ここのことは気にしなくて良い」
ベッファはハンナの言葉を遮るように侍女たちに退室を促した。侍女たちは誰もハンナのことなど気にしておらず、ベッファに言われた通りに皆、片付けを止めるとすぐに部屋を退出していく。
使用人たちは扉の前で一度ベッファの方を振り返り、頭を下げて部屋を出て行く。ベッファは意図的に出て行く者たちの目に焼き付けるように、困ったような表情でハンナの細い肩を強く抱き、気をつかっている姿を見せた。
勝手に侍女たちを外に出したことを不満そうにしているハンナの耳元で、ベッファは甘く囁く。
「ハンナ、二人きりになろう。私を待っていたのだろう?」
「あっ……はい……」
腕の中でハンナは嬉しそうに頷き、甘い吐息を漏らした。ハンナはまだ信じているのだ。ベッファは自分の味方であり、この地獄から救い出してくれる唯一の王子様である、と。
―――はは、なんて憐れで滑稽なんだ。私を信じて、愛しているという表情だ。気持ち悪い。
侍女と使用人たち最後の一人まで退出し、ゆっくりと扉が音を立てて閉まる。静寂が訪れるとハンナはベッファの胸に顔を押し当てながら話し出した。
「ベッファ様、寂しかったわ……。あの教会での出来事は、きっと神官たちが仕組んだことよ。だって、私は聖女よ? あんなことするわけないわ、あいつらを信じないで。私は、私は……あなたの妻であり、聖女だもの」
ハンナが涙を浮かべ顔を上げると、ベッファと視線が交わる。
わずかに見つめ合うと、再びベッファの胸に顔を埋めた。ハンナの体温も、纏っているやわらかな甘い香りも、今のベッファには吐き気がするほど不快だった。
ベッファはハンナの肩を抱いていた手をゆっくりと離すと、細い顎を指先で強く掴み上げた。
「あっ……!? ベッファ様……?」
強引に顔を上へと向けさせられ、ハンナは頬を赤らめながらゆっくりと瞼を閉じた。その次を期待しているその仕草に、ベッファは嘲笑う。
すぐ真下にある年齢よりも幼く見える顔の造形は、学生時代よりも年齢が出ている。頭の中でアイリスのことを思い出す。
―――アイリスの方が年齢を感じさせない美しさがあったな……。あれは顔、体、性格……全てが私のために誂えたかのように完璧だったが、如何せんこの女の愚かな魔力のせいで手放してしまった。
ふとハンナの後ろに飾られている鏡に自身の姿が映る。冷めたような表情で、やっと追い込んだ害獣を排除しようとする者の目であった。
「……ハンナ、お前は本当に自分が特別な存在だと思い込んでいるようだな」
「え……?」
「私がお前を愛していた? ははは……ふざけやがって。魅了魔法を使い、私の心を操っておいて……何が愛しているだ」
「魅了魔法……? な、なんのことですか!? 私、私! そんなの知らない!」
ハンナはベッファの怒りの声に気付き目を開けると、ベッファの表情に狼狽えた。ハンナの困惑した表情に、ベッファの唇が三日月形に吊り上がる。
今までに見たことのないベッファの表情に、ハンナの顔は恐怖で強張った。
「知らなかったのか? そうか、ならば教えてやろう。お前たち聖女の神聖力はかなり大きな力を持っている。その力をしっかりと制御できていれば、聖女としての力でしか発揮されない。だが、お前のように無能な奴は力を制御することができず、知らぬ間にその力が漏れ出て他人を支配する力を垂れ流すんだよ!」
ベッファは先ほどまでの冷静さどこかに置いてきたかのように、肩で息をする。
ハンナに対しここまで感情を露にしたのは、今までたった一回であった。ソフィアとの出会いである教会での一件のみである。ベッファはこれまでハンナによって抑え込まれていた負の感情が、濁流のように一気に口からあふれ出していた。




