48、ベッファの過去⑧【ハンナ視点】
「はあ、はあ、はあ……」
酷く荒い息だけが、部屋に響く。
ハンナとベッファの私室にベッファが戻らなくなって、数日。
侍女や使用人にベッファの行方を聞いても誰も答えず、ハンナは苛立ちを隠すことなく今も壁に沿って立っている者たちを睨みつけていた。
―――どういうことなの!? こんなのおかしいわ。どうしてベッファ様は私を一人にするの? なぜ部屋に帰ってこないの……? あの日、私が何かおかしいことをした? 貴方を誑かそうとした悪い小娘をちょっと叱っただけじゃない……。
ハンナは可憐で優しい聖女と言われる姿とは思えない仕草で、自慢のピンク色の髪を指先で乱暴にかきむしった。指先に絡んだピンク色の髪が白い指から落ちていく。
ある時から、周囲の侍女たちがハンナを苛立たせる言動をとり始めた。
ある時から、今まで目が合うだけで頬を染めていた男たちが不自然に沈黙するようになった。
―――ある時から、ベッファ様の瞳が私を突き放すような冷たさを持つようになった!
かつて、ハンナに無条件で愛を囁いていた頃のベッファは、もっと執着して慈しんでいたはずだ。それが何故かいつからか、ベッファも、侍女も、使用人も、徐々に距離を置くような態度を取りだした。
特に女の使用人たちは早くからハンナを悪意のある噂を流すようになっていった。
―――アイリス・オルディンの友人だったという女……たかだか侍女の分際で、私が嫌がる姿を面白がって、ずっとあの女の話をしてた。だから、私が泣いて「いじめるの」と可愛くベッファ様に告げ口したらどっか良いところの令嬢だったけど、すぐにあの女はどこかに消えた。ベッファ様が私のために消してくれたに違いないの。でもベッファ様の母親だけは排除することはできなかった……。いまでも私のことを嫌ってるのが分かるわ。
学園を卒業し、王太子妃教育に入る前から王妃の目は厳しかった。
周囲は助けてくれるが、王妃だけはどこか冷めた目でハンナを見やり、時にはこれ見よがしにため息も吐かれた。元々男爵令嬢としての知識はあったが、それは本来のハンナの記憶であった。
しかし、異世界からハンナの体に転生した帆奈はその知識を使うことはしなかった。記憶として覚えていても、それを実際に使えるかと言えばそんなに簡単には使えなかったのだ。
むしろ、ゲームの世界に転生したことに気付くと、ハンナは自分のために世界があると考えた。
そうなれば、令嬢としての作法など関係なく、好き勝手やっていくようになったのだった。
―――それなのに! ベッファ様の母親ってだけで私のことを身分の低い男爵令嬢としか見てなかった! 普通は聖女であり、ベッファ様が見染めた女なんだから、優しくするものでしょ。それに……私は聖女よ? 確かに私には癒しの力はなかった……それでも、聖女。聖女なの! 誰がこの国を守っていると思っているのよ! あんたにはできないことをやってあげてるのよ、こっちは!
王太子妃教育が進んでいくと、徐々にハンナの令嬢教育の質、聖女としての質が周囲に分かり始めた。ハンナには王太子妃としてベッファを支え国を引っ張っていく知識もなく、聖女として求められる豊穣の女神に守護される国としての恵みを与える癒しの力もなかった。
そこに気付いたベッファは、ハンナに対してどのような力を持っているのかを一通り調べさせた。治癒、豊穣、予知予言、守護、浄化。そして最後の一つがハンナの神聖力に一番合うものだった。
『ハンナ、君は珍しく結界の聖女のようだ』
『結界ですか……? 守護の聖女とは違うのですか?』
『ああ、そうだ。守護の聖女は場所や人を守るもの。結界の聖女の能力は空間を守るそうだ。例えばだが、ハンナが王都に結界を張ってくれれば、王都の空間に結界が張られ、外敵や災いは結界に阻まれる』
『では守護の力は……?』
『守護は基本的には一部の場所や人を守るのだが、私個人や一部の場所だけを守るから王都全体を守護することはできない』
説明通りにハンナは結界を張る神聖力の使い方を磨き、身に着けた。その力は、歴代で数人しかいなかった結界の聖女の中でも群を抜いて強く、この国になければいけない存在になった。
この力こそが、唯一ハンナがベッファの妻になれる方であったため、ハンナはどこだけは努力を惜しまなかった。
―――パッとしない能力だとは思ったけれど、ベッファ様の妻になるためにはなくてはならない力だった。今までの聖女なんてほんのわずかしか結界を張れなかったみたいだけど、私は違うの。私はこの国全体を覆えるほどの結界が張れるんだから。何もできない、王妃なんてとっとと引退でも何でもしちゃいなさいよ。
結局、結界の聖女の力でハンナは王太子妃になることが決まった。最後まで王妃は渋っていたが、国を守るためならば仕方のないことだった。
王太子妃が決まるとハンナはベッファに可愛くお願いをした。
『ベッファ様……私、お義母様いえ、王妃様に嫌われてるみたい。だからお願い、王太子妃の仕事は今まで通り、王妃様にお願いしてちょうだい……だって、私は結界を張ることにかなりの力を使ってしまうから』
『ハンナ……分かったよ』
―――ベッファ様も周囲もどんな時だって、私の願いを叶えてくれた。学園にいる時はアイリスを虐げるようにそれとなく動くと、皆が私の望み通りに動いてくれた。卒業しても同じだったけど、徐々に違うように動く者も現れた。その一番が、ベッファ様の母親、王妃だったわ。ちゃんと強制力に流されておきなさいよ……!
自分は聖女であり、この国を救うための魔力を持ち、この世界の神に選ばれた無二の存在。
だからこそ、ゲームの世界の王道ルートの主人公である王太子ベッファの隣に立つのはハンナでなければならない。
しかし、ソフィアという平民の女が現れ、ハンナの世界は狂い始めた。
ハンナは今までのことを思い出しながら、先日会ったばかりのソフィアのことを思い出すと苛立ちがこみ上げ、目の前のテーブルにあったカップを床に叩きつけた。
カップが砕け散る音が響き、侍女たちが悲鳴を上げながら震え上がる。以前までの見知った顔はいない。侍女長さえもいなくなっていたが、ハンナはそんなことすらも考えることはできなくなっていた。
―――やっとアイリスが居なくなったと思ったら、王妃が邪魔するし、使用人たちも態度がおかしくなってきちゃうし、子供もできないし! 本当に何なの!? ゲームの世界なんだから、大人しく私のために動きなさいよ! それに今度はソフィアとかいう、あの女……!
新しく付けられた若い侍女たちの怯えた顔を見ることで、ハンナは歪んだ優越感に浸ることができた。
「何を見てるの! さっさと片付けなさい! あんたたちって本当に無能の役立たずね! あんたたちの主人が何を望んでいるかも考え付かないの!?」
甲高い叫び声を上げながら喚き散らすハンナに、侍女たちは青褪めながらメイドたちに指示を出す。
侍女がメイドたちに片付けさせるの姿を見ながらも、今回ばかりは何故だか冷たい汗が背中を伝う。侍女の所作も以前のような上級貴族たちの娘ではないことだけは、ハンナにも分かる。
―――侍女の質が落ちてるわ。これもきっと王妃のせいね……。侍女長も私から遠ざけて、何か失敗させようとしてるんだわ……! ベッファ様の前で恥をかかせるつもりね、あのババア。絶対に許さない。私が王妃になったら、まずはあの女から痛い目に合わせてやる。
ハンナは想像の中で許しを請う王妃の姿を想像し、口元を醜く歪める。ベッファとの将来を想像をしている時だけが今のハンナにとって幸福な時間であった。
カチッと小さく自室の扉の前で、わずかに音が聞こえた。
「ああ、お帰りなさい……!」
扉が開き、ベッファの姿が見えるとハンナは先ほどまでの醜い姿を一変させて、ベッファへと駆け寄った。
「ベッファ様! 寂しかったわ……!」
先ほど搔きむしったせいでピンク色の髪は乱れているが、夕陽を受けて美しく輝いていた。ハンナの髪は濃い神聖力を宿しているからこそ、同じ時代に一人か二人しか現れない美しい色をしている。
その意味を、ハンナは理解していなかった。




