40、ベッファの過去―――ベッファとソフィア②
ソフィアが王宮に迎え入れられてから数日、ベッファは妻であるハンナとの寝室には一度も帰らなかった。この行動自体が、ハンナに対する今の感情を示すものだった。
ベッファの行動はハンナに対する決別を意味しており、それと同時にソフィアに対する執着の表れでもあった。
―――ハンナは今頃怒り狂い、皆にあたっているだろうな。その行動もまた、外部に漏らされていることも分からなくなっているとは……本当にあの女を我が妃にしたことが恐ろしい。
ベッファはソフィアのために用意させた離宮に近い部屋に寝泊まりし、朝昼夜の全ての食事をソフィアと共に取った。ベッファがソフィアのために用意した部屋は、以前ソフィアが暮らしていた古臭い家よりも豪華だった。
その部屋はただの客室ではあったが、最初その部屋を目にしたソフィアは驚きのあまり固まっていた。その姿があまりにも可愛らしくベッファは自然と抱きしめていた。
『お、王太子殿下……その、あの……』
小動物のように顔を赤くしながら震えるソフィアに『愛おしい』以外の感情が出てこない。
―――こんなにも可愛らしい娘が世の中にいるとは……。
ベッファから逃れるように、窓へと向かうその姿さえも愛おしく思えた。窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がり、季節の花々が贅沢に咲き乱れている。ソフィアがどう思っているかなど、関係のないことだった。
ここでベッファに守られながら、最後は添い遂げる。それが最高の物語になるとベッファは信じて疑わなかった。
「あの、ベッファ様……私のような者にこんなに良くしていただくのは、その……恐縮です。いずれは元の生活に戻りますので、あまり気をつかっていただかなくとも……」
ソフィアは手触りの良い服やシーツ、今まで見たことも触れたこともない高級な食器に戸惑いつつ、遠慮がちに話した。
まだ、自分がなぜ特別扱いされているのかを理解できないでいた。
あの教会の出来事以来、ソフィアの生活は一変していた。ベッファの優しさは心に染みるものの、それと同時に一方的に向けられる優しさに、ソフィアは漠然とした恐怖を感じていた。
しかし、今のソフィアにはこの優しさを拒む理由も、勇気もなかった。この優しさを失えば、また自分は一人になってしまうという不安もあったからだ。
「ソフィア、そんな悲しいことを言わないでくれ」
ベッファは優しく双眸を細めながら、ソフィアの瞳を見つめた。その視線はソフィアを守るべき民というにはあまりにも熱く、女として見ているとしか思えないものであった。
ハンナに強制的に向けさせられていた『愛』と強い『執着』に似ていたが、ソフィアはそのことを知らず、ベッファ自身も知らなかった。
―――ああ、あの悍ましい女から解放されたら、次こそは真実の愛を手にするんだ。今、私の魂が真に求めているのは、この無垢な妹だ。私なしでは生きられないと、すぐに理解できるようにしないといけないな。
ベッファは心の中で思いながらも、その独占欲を隠すように優しげな笑みを浮かべる。ベッファはソフィアが自分のそばにいることが、どれだけ安全で幸せなのかを説いた。
「君に話すかは迷ったのだが……王太子妃であり聖女であるハンナは今、病に《・》伏し《・》て《・》い《・》る《・》ん《・》だ。その病は……そうだな、簡単に言葉にはできないのだが、君のような純粋で心の美しい者を妬ましく思うらしい。現に君を教会で酷く罵っただろう? ハンナを崇めている信者は沢山いる。ソフィア、君を傷つけるかもしれない者がいる町に、どうして戻せようか」
「病……信者、傷つける……そんな」
ソフィアは目の前の現実と、ベッファの言葉を懸命に結びつけようとした。教会でのハンナの常軌を逸した行動は、確かに『病』という言葉でしか説明できないように思えた。それだけハンナの表情や声は恐ろしく、ソフィアにとっては悪魔のように見えたのだ。
―――あながち嘘ではないからな。あれは本当に病気のようなものだ。私に捨てられるかもしれないという恐怖心を、常に抱えているからな。
ベッファはハンナの精神状態を『病』ということにしたが、実際、その言葉に嘘はないのかもしれない。
「あの場にいた者たちは、恐らく聖女であるハンナに対し、恐怖心を抱いただろう。聖女とは民を救う存在でなくてはならない。だが、彼女は君を言葉で傷つけた。私が止めに入らなければ、きっと手も出ていただろう……実際ソフィア、君はどう思った?」
「それは、その……」
ソフィアは言葉を濁した。
先ほど思っていたことを、ベッファが言い当てたからだ。あの時のハンナの形相は嫉妬に狂った悪魔のようで、今思い出しても恐怖で体が震え、寒気を覚える。
―――思い出すんだ、ソフィア。あの時、どれほど怖い思いをした? あの時、私がハンナを叱責し、君を助けた時、どれほど嬉しかったかを。
「その沈黙が答えだろう? だが安心してくれ、ソフィア。君にはモニカたちを付けよう。優秀な侍女ばかりだから何も心配することはない。彼女たちは君の身の回りの世話をするだけでなく、君の心に寄り添ってくれるはずだ」
ソフィア付きとなった侍女たちは室内におり、給仕係とは別に静かに佇んでいた。
ソフィアが周囲を見渡すと、王宮に連れてこられた時よりずっと世話をしてくれているモニカと目が合った。モニカは目が合った瞬間、にこりと笑みを浮かべソフィアを見返した。
―――君が心を許そうとしているモニカは娘のように可愛がってくれて、常に心配して気を配ってくれるだろう? そうするように言いつけているからだ。ソフィア、王宮内で君を本当の意味で心配しているのは私だけだぞ。
「あ……」
ソフィアはモニカと目が合ったことで、少しだけ心を落ち着かせることができた。モニカのその微笑みには優しさがにじみ出ていたのだ。その笑みをソフィアは知っていた。
母親と同じあたたかな笑みだった。
ソフィアはモニカたちがいるこの環境こそが、一人になった自分を守ってくれる環境なのだと、この時初めて思えた。
「ベッファ様、その……これからもお願いします」
「もちろんだ、ソフィア。歓迎するよ。モニカ、ソフィアのことをこれからも頼むぞ」
「はい、殿下。ソフィア様のことは私共にお任せくださいませ」
モニカはベッファの真意を理解しているため、本当の意味で『任せてください』と言った。その言葉の意味をソフィアが知ることはないのだが、ソフィアにはモニカが頼もしく思えた。
―――最初は女性の方が心を開きやすいだろう。さあ、ソフィア。モニカの優しさに甘えろ。モニカの声は君にとっては甘い毒でしかない。その甘い毒に、私こそがソフィアにとっての唯一の救いであると、囁かれて堕ちてこい。いつでも受け止めてやる。
「モニカさんがこのまま私のお世話を?」
「ああ、そうだ。だが、ソフィア。君はここで暮らすのだから、モニカにさんはいらないよ」
「え、でも……私は……」
ぎゅと裾を掴む姿にモニカが微笑みながら声をかけた。
「ソフィア様。私のことはどうかモニカとお呼びください。そのほうが仲良くなれた気がいたしますので」
「……はい、あの、よろしくお願いします……モニカ」
「まあ、なんて可愛らしいのでしょう! よろしくお願いいたします、ソフィア様」
「モニカも喜んでいるな。ソフィア、ちゃんと言えて凄いじゃないか」
それはハンナが当初、王宮に来て生活していた時と同じようであった。甘い言葉に、甘いしぐさ。全てが惑わされた偽物の感情を、ベッファはハンナに抱かされていた。
しかし、今度はベッファがモニカを使い、ソフィアの感情を支配するために同じように動き出していた。
人の心を操るのは魔法だけではないのだ。




