38、ベッファの過去―――ベッファとハンナとソフィア
王都最大の大聖堂。
そこにベッファとハンナの姿があった。月に一度、王族が公に祈りを捧げる儀式は、ハンナがこの国の聖女として結界を張り続けていることを貴族や国民にアピールするための、場だった。
ハンナは聖女のみが着ることができる白く美しい衣装を纏い、女神像の前で跪き祈りを捧げる。その顔は神々しい輝きを帯びていたが、ベッファは知っていた。その内側には信仰心などというものはなく、子を授からないことへの焦燥ばかりが蠢いていることに。
―――四人目も女だったか。今後、どうしていくかを考える時が来たな。ハンナは国の守り手としては優秀だが、それ以外で役には立たない。アイリスの存在が厄介なことになる前に、修道院に送ってしまうか、それとも……。
ベッファはハンナが祈りを捧げている最中、今後の計画を頭の中で組み立てていた。アイリスの存在は、もはやベッファにとって煩わしいものへと成り替わっていた。
ハンナの祈りが終わると、二人は集まっている国民に手を振りながら馬車へと向かう。ベッファは民の前では、いつも通りハンナの手を取り、優しく微笑みかける。ハンナはこの時だけが、最も幸福を得られる瞬間となっていた。
馬車へ戻るために人垣の隙間を進んでいく、その瞬間だった。
人々の足元を掻き分け、擦り切れた衣を纏った一人の少女がベッファを見上げていた。少女の髪はその薄汚れた衣服とは対照的に、太陽の光を浴びたような黄金色に輝いていた。
少女はわずかに口を開き、消え入りそうな小さな声で訴えた。
「……お母さんを……助けて……」
その声は周囲の歓声にかき消され、誰にも届いていない。だが、その声はベッファの耳だけには、邪魔するものがないほど美しい音色のように、鮮明に聞こえていた。
ベッファの足がぴたりと止まった。視線が声の主である黄金色の髪を持つ少女に向けられた。その瞬間、学園でハンナと出会った時のような激しく熱い衝動が体を襲い、何かに突き動かされたような衝撃が走った。
「どうしたのですか、殿下?」
ハンナが愛らしい笑顔で尋ねるが、ベッファは返事をしなかった。ベッファはハンナの手を振り払い、民衆を掻き分け、少女の傍へ駆けつけた。
「静かに!」
ベッファが発した言葉に、周囲の人々は一瞬で静まり返った。
「……君が助けを求めていたのか?」
ベッファは少女の目線に合わせるように跪いた。少女は突然の出来事に怯え、目を丸くしたがこくりと頷いた。
「名は?」
「そ、ソフィア……」
「ソフィアか。美しい名だ」
ハンナは自身を放り出したベッファが、薄汚れた少女に跪き優しく微笑んだことに怒りを覚えた。だが、聖女としての仮面を崩すことはなく、侍女に支えられながら気丈に微笑みを保った。
「ベッファ様は……お優しい、から」
ベッファはソフィアと名乗った少女から事情を聞き出した。ソフィアの母親は元貴族の令嬢であり、夫の死後女手一つで育ててくれていたが病に倒れ、今も苦しそうだと訴えていた。
「教会に来れば……聖女様、に会えると思って……」
「そうか、よく耐えたな。君の母上を迎えに行こう」
ベッファは近くに控えていた護衛を呼び、ソフィアと共に彼女の家へと向かうと言った。
「ベッファ様!? そ、そのようなことは……」
「ハンナ……? 君は聖女だ、教会でソフィアの母上を迎える準備を頼んだよ」
「っ……は、い」
引き攣る笑顔でハンナは頷いた。周囲の侍女たちは下を向いて、ほくそ笑む。また一つ、王宮で話せる面白い話が増えた、と。
―――
ソフィアの家は王都の裏路地の、決して綺麗とは言えない場所にあった。
薄汚れた小さな部屋の寝台の上には、痩せ衰えたソフィアの母親が横たわっていた。
「お、王太子、殿下……こ、これ……」
ソフィアの母は手に握りしめていた、ブローチを震える手でベッファに渡すと少しだけ非難するような目線を向けていた。そこでベッファはおやと思ったが、気にすることなく教会の治癒室へ連れ戻った。護衛によって丁寧に運ばれた母親は、神殿に着く前に冷たくなってしまった。
ベッファはハンナと数名の神官を治癒室へ呼び寄せた。
「お母さん! お母さん……嫌だよ、お母さん……っ」
「ソフィア……ハンナ、安らかに亡くなった者に、聖女の祈りを」
「……はい」
ベッファの指示に近い命令に、ハンナは不満を隠しきれなかった。本来ならば、聖女は平民の死に祈ることなどない。それをベッファは位の高い者と同じように、祈りを捧げろと言うのだ。しかし、こんなところで嫌だということもできず、ハンナは頷くと祈りを捧げた。
母親の亡骸に最後の祈りが捧げられ、神官とベッファは手続きと話し合いのために部屋を出ていった。その際、ベッファはハンナの侍女長に目配せした。侍女たちも片付けと茶の準備をするために、ハンナとソフィアだけを部屋に残して外へと出て行った。
「ハンナ様、彼女を落ち着かせるために、私どもも茶の準備などをいたします」
ベッファはハンナが何をするか、全て予想していた。
ベッファの予想通りにハンナは母親の亡骸の前で悲しみに打ちひしがれているソフィアを、突然激しく責め立てた。
「なんて子なの! あなた、王太子殿下に色目を使うなんて、誰に教わったの!? 汚い姿で興味を引いて、ベッファ様の前に現れるなんて、身の程を知りなさい!」
「わ、わたし……」
「言い訳なんてしないでっ、本当に生意気な子だわ!」
ソフィアは母親の死を受け入れることすらできていない状態で、ハンナの突然の罵倒に恐怖で体を震わせ硬直させた。王太子妃であり、聖女であるハンナは心優しく、平民に優しいと聞いていたのだ。
「聖女、様……私はそんなこと、ぜんぜ……っ」
「うるさい! 聖女である私に……」
その時、閉ざされていた扉が勢いよく開いた。
「ハンナ!」
ベッファはあえて大声で、怒りに満ちた表情で部屋へ入ってきた。
「君は……なんてことを言うのだ! 病気の母親を助けようとした純粋な行いに対して、色目だの何だのと罵るなど……」
「べ、ベッファ様……違うの、そういうことじゃ……」
ベッファの怒声は、神殿全体に響き渡るほどだった。ハンナの言い訳など聞く気もなく、言葉を続けた。
「子を産めぬ焦りから、ついには罪のない少女にまで嫉妬をするのか! 君の心は聖女の清らかさを失ったようだな」
ベッファはハンナが完璧な聖女を演じていることさえも、否定し始めていた。王太子妃としての器ではなく、さらには聖女としての器でもないことを、周囲に知らしめようとしていたのだ。
―――さあ、ハンナ。お前の化けの皮が剝がれるところを皆に見せてやったぞ。
ハンナはハッと周囲を見渡した。治癒室の窓は全て開いており、ベッファが飛び込んできた扉も開かれたままだ。神官や侍女たちの後ろには、多くの民が中を覗き込んでいた。ハンナはベッファの予想外の激怒に顔面蒼白になり、それ以上何も言い返せなかった。
ベッファはソフィアのやせ細った小さな手を優しく取った。
「怖かっただろう、ソフィア。私がお前の側にいる。もう大丈夫だ」
「あ、あ……あ、の……」
「ソフィア、私についておいで。君は私が守ろう。君の母上のことは教会に頼んでおいた。時間が空いた日に一緒にまた来よう」
「ベッファ様!? そ、それは……っ」
「だまれ。私は今、君に、かなり……失望している。母を亡くし悲しんでいる娘に色目などと……ゾッとする」
ベッファはハンナを一瞥することなく、ソフィアを抱き上げると王宮へと連れて帰るべく教会を後にした。
やせ細った体は軽く、重さを感じなかった。ハンナと一緒に乗って来た馬車ハンナの姿はなく、代わりに困ったように俯いているソフィアの姿がそこにはあった。




