33、ベッファの過去―――ベッファと???①
執務室に入ると、ベッファは静かに扉を閉めた。
護衛が一人誰かを連れてくる声が聞こえ、入れ替わるようにして足音が二つ遠ざかっていく。その後、扉が開かれ見知った顔が仰々しく頭を下げた。
「中へ行く。誰か来た時のために見張っておけ」
「はい、ベッファ様。あまり長いはされないでくださいね」
「ああ」
ベッファはちらりと見ると、壁の方に向かって歩いて行く。
豪華な本の背表紙を模した魔道具に触れると一瞬僅かに光が点り、隠し扉が開いた。その先には暗く湿ったにおいがする石造りの通路が続いていた。
コツ、と靴の音が響く。
ベッファの脳裏には先ほどのハンナの不安定さと、これから向かう地下に繋がれた贄、二つの対照的な存在がいることに自然と笑みがこぼれた。
―――ああ、憐れなハンナ。君が聞いた泣き声は幻なんかではない。もちろん、単なる気の迷いでもない。お前が世界から引きずり落とし、排除しようとした者が生きている証の声だ。バレるとは思ってはいなかったが、聖女ともなると気付いてしまうこともあるのだな……魔道具の改良が必要か。
通路の奥の重たい扉を開けると、中は甘ったるい匂いで満ちていた。
人間一人が住むには十分なほどの部屋。その隅には、この場所に似つかわしくないほど豪華な寝台が置かれており、その上に横たわる一人の女の姿があった。
王太子であるベッファが学園卒業と同時に、八年余り隠し続けた存在がそこにはいたのだ。
「そろそろ産まれそうだと聞いたが、体調はどうだ?」
「……でん、か……でんか……」
「アイリス」
かつての婚約者だったオルディン公爵家の令嬢、アイリス・オルディンだった。
彼女の細い手首には、赤い魔石がついた銀色の光を放つ腕輪が嵌められていた。
その美しい腕輪は装飾品などではなく、ベッファがある者に作成させた拘束のためだけに使用する魔道具だった。この部屋から出ようとすること、自分で命を絶とうとすると、魔道具の力が発動し、腕輪からかなりの魔力が流れ込む仕組みになっている。
その刺激は強く、男であっても立っていられないほどのものだった。
「ん……っ、こんなこと……こんなこと、いや、いや……だめ……」
ベッファを見ながら、アイリスは言葉を紡ぐ。
アイリスの腹はすでに大きくなっており、その日が近いことが分かる。最近のアイリスから出てくる言葉は、もう以前のようにはっきりしたものではなかった。
十八歳であった学園の卒業パーティーの夜から、ずっとアイリスはこの場所に閉じ込められていた。
あの夜から年齢を重ねてもなお、アイリスは当時と変わらず美しいままだった。
八年の間、アイリスが怯えずに過ごせたのは最初の二年だけだった。
―――
『アイリス様、あなたは今後ここから出ることは許されないとのことです。理由は聖女を傷つける恐れがあるため、修道院などに送ることもできないという判断です』
『……このことを皆様は承知の上なのですか』
『お答えすることはできません。ですが、ここから出たところでアイリス様は処刑される予定でしたので、この部屋にいるほうが安全に暮らせます』
『処刑? なぜ? 私は国外追放になるはずでしょう? 証拠なんて一つもなかったわ。あったとしてもあの階段での出来事だけだったはずだわ』
『その階段での出来事だけで、あなたは処刑されるに値する罪を犯しているのです』
『殿下のご指示ね……? ハンナ嬢……いえ、ハンナ様が使いものにならなかった時のために、私を生かしておくつもりなのね』
『お答えできかねます。ですが、こちらの部屋は方向的に王太子殿下のお住まい近くになりますので、色々と状況の確認はできるかと思います』
『……そう、私を自由にする気がないということだけは分かったわ。安心して頂戴。私は逃げることも、死ぬこともしないわ……いいえ、この腕輪のせいで、できないものね』
アイリスはその日から、専属の世話係として昔からベッファの身の回りの世話をしていた老女のスージーとだけ、話すことが許された。許される会話も限られていたが、アイリスはそれで良かった。
スージーは刺繍の道具などを差し入れてくれた。アイリスは刺繍をしながら開かれることのない、頭上にある窓の近くに座り、外の様子を窺うことが日課になった。それは逃げたいとかそういう気持ちではない。そこに座っていれば、外の賑やかな声が聞こえてくるからだった。
『今日の殿下の服装、私とお揃いだったの。とても素敵だったわ』
『はい、聖女様。お二人の色が取り入れられ、とても素敵でした』
『ああ、本当にお茶会は楽しいわ! もっと、沢山殿下とご一緒したいのになぁ』
『王太子妃になられましたら、聖女様が主催することも増えるかと思いますので、そちらも楽しみでございますね』
『ええ! 頑張って素敵なお茶会開いちゃうわ!』
若々しく賑やかな声が通り過ぎていく。
その声の主は、アイリスをこの場に閉じ込める原因を作った人物だ。だが、そんなことは気にもならない。
―――ハンナ様、お元気そうだわ。きっと王太子妃教育でお辛いでしょうに……私にできることは何もないけれど、せめて幸せになってほしいと願うことくらいは、許してください……。
『最近、なんだか賑やかだわ。人の声がよく聞こえてくる』
『はい。ハンナ様が正式に教会より聖女として認められ、王太子妃になることが決まりましたので、こちらに聖女様のための教会をお建てになるのです』
『まあ、そうだったのね。スージー、教えてくれてありがとうございます。ここに来て二年……ハンナ様の楽し気なお声が聞こえてくることが嬉しかったの。これからは、もっと幸せな声が聞けるのね』
『跡継ぎもすぐできるだろうと言われるほど、仲が良いと言われておりますので、そのうち新しい声が響きますでしょう』
―――ハンナ様は聖女候補だったけれど、聖女と呼ばれていたもの……。でも、正式に聖女として認められたから王太子妃になるということは、王太子妃教育の水準を満たせなかったのね……。公爵令嬢と男爵令嬢を同じ物差しで考えていたのだわ。なんと惨いことを……きっと、ハンナ様は酷く悪く言われたに違いないわ。殿下が、ずっと味方でありますように……。
『なんでよ、なんでなの!? もう一年よ……! 主治医はなんて言ってるの!?』
『殿下も、ハンナ様もどちらの体も正常だということで、その……たまたま妊娠できていないだけだと言われております……』
『毎日のようにしてるの! それなのに、できないって……あんたたち、なんか裏でやってるんじゃないでしょうね!?』
『ハンナ様、そんな……! 私たちは誠心誠意お仕えさせていただいております……!』
―――ああ、やめて……ハンナ様が苦しんでいる……子は授かりものというけれど、焦らないでください……。
『スージー、ハンナ様は大丈夫なの……? お声が……』
『……最近はかなり参られているようで』
『なぜなの? まだ嫁いで一年よ。そんなに焦る必要もないはずよ?』
『それが、ハンナ様は聖女としての力が認められて王太子妃になられました。多くの公務を免除されております。そのこともあり、早く子を授かりたいのかと』
『……そう。それならば、教会の者に相談してみるといいかも知れないわ。教会の中では貴族の夫人に治癒師が作る薬を渡しているはずよ、もう相談をされているかもしれないけれど』
『いえ、そのようなことは聞いておりませんので、それとなくハンナ様の専属の侍女に伝えてみます』
『信じてくれてありがとう』
スージーの話を聞いた侍女が、急ぎで教会に話を付けて薬を手配したが、それでもハンナが妊娠することはなかった。




