32、ベッファの過去―――王太子妃ハンナ・アーティス15
今回区切りをよくするために少し短めです
ハンナとの食事を終え、ベッファが執務室に向かおうとすると、ハンナは使用人たちが見ている中でも気にすることなく、ベッファを強く抱きしめて引き留めた。
「行かないで、ベッファ様……私、一人になるとまたあの声が聞こえちゃうの……! どこか、この城のどこかで、赤ちゃんが泣いているのっ。その子が、私を、笑っているの!」
ハンナは必死にベッファの胸元に顔を押し付け、その体を震わせた。
ベッファはハンナの頭を優しく撫でる。しかし、その目はハンナを見ることなく、寝室の奥よりも遠い、王宮内にある執務室の方向に向けられていた。
「ハンナ。そんな泣き声はどこからも聞こえない。君の心が生み出した幻だよ」
「ベッファ様も私を信じてくれないの? だって、もし、この王宮に、この世界に、本当にっ! ベッファ様の血を引く子供がどこかにいたら、私、どうなるの……? 王太子妃の座なんてどうでもいいの……そんなことよりも酷いことになっちゃう、私、捨てられちゃう……! 私にはベッファ様の子を産むことしか、もう残されていないの!」
ハンナの言葉は『ベッファに捨てられてしまう』ことに対する恐怖だけだった。聖女であることよりも、王太子妃であることよりも、ベッファに愛されないことに対する恐怖、そしてベッファを誰にも取られまいとする思いの言葉。
心の中でベッファは嘲笑を浮かべた。
―――ああ、その通りだ、ハンナ。お前の心が生み出した幻なんかじゃない、この王宮にはお前が産むことのできない子供が生まれてるんだ。私が悪いのではなく、お前が悪いんだ。私を誑かしたことの罪をゆっくりと償え。そして恐れ、恐怖に泣き喚くといい。その表情が一番お前らしくて、一番美しい。
ベッファはゆっくりとハンナを押し離し、その頬に口づけを落とした。
「ハンナはいつも悲しい話ばかりだ。心配することはない。私はハンナを愛している。すぐに戻るから待っていてくれ」
「すぐに戻る……? 嫌、嫌なの、だってこいつら私をいじめるの!」
「君をいじめる……?」
「そうよ、今日だって恐ろしい話を面白おかしくしたのっ! 私はやめてってお願いしたのによ!?」
「ああ、可哀そうに……ハンナ、私が後でよく叱っておくから、部屋で待っていてくれるね?」
「ベッファ様……! お願い、行かないでっ」
「はあ……ハンナ、君はいつからそんなに聞き分けがない女になったんだろうな?」
「あ、ああ……ごめんなさい、ごめんなさい、お願いベッファ様……! 私を嫌わないで……」
「私の言うことが聞けるんだったら嫌いになんてならないさ。さあ、ハンナ。いい子で待っていられるな?」
「……はい…………は、い」
ハンナはベッファの言葉の意味も理解できないほどに、不安な顔で立ち尽くした。ただ返事をすることでしか、ベッファを引き留められないと思ったのだ。
ベッファは振り返ることなく執務室へと向かった。
頭の中には、先日側近に調べさせた調査報告がずっと残っている。王国の歴代の聖女のこと、そして強い神聖力を持つ聖女は皆、ピンク色の髪をし、子孫を残せた記録はどこにもなかった。
―――まさか、この私がこんなくだらない問題に直面するとはな。まあ、いい。どうせお飾りの王太子妃なのだから、このまま聖女として国に結界を張らせ続けるとしよう。
コツコツと歩く音が廊下に響く。すれ違う者たちはベッファのために道を開けて、恭しく頭を下げる。ベッファもまたその行いに軽く手を上げ、にこやかに声をかけていく。
「王太子妃殿下のことで大変なのに、流石ベッファ殿下だわ……」
「なんでも、最近では妄言がとても酷いらしいわ」
「侍女たちにかなり酷くあたっているとも聞くな」
「そもそも、最初の段階から聖女だなんだと私たちに威張り散らしていたんだもの。きっと罰が当たったのよ。子供ができないのも……」
「しっ! どこで聞かれているか分からないわよ」
「聞かれているもんか。あの聖女様は王太子宮と教会の行き来でしか外に出ないそうだからな。きっと今でも部屋で喚き散らしているさ」
「やはり、殿下がお可哀そうだわ。きっと、殿下はハンナ様の体調を慮って子供を作ることができないのよ」
「確かにそうだな。あの状態で子供を産ませようとしたら、大事な跡継ぎがどんな目に合わせられるか分からないからな」
ハンナの噂話は貴族だけではなく、貴族のお供として付いてきている使用人、さらには荷運びの商人などにも知れ渡り始めていた。
その話声を耳にし、ベッファはほくそ笑む。
―――どれもこれも馬鹿の考えそうなことだな。まあ、もう少しだけ王太子妃を労り、寄り添い、可哀そうな王太子の役割を果たすか。頭の悪い奴らがもっと噂を広げてくれれば、さらに私も動きやすくなるからな……。
コツリ、ベッファの足が止まる。執務室の前にいた護衛に手を上げると、側近を呼ぶように頼むと、その後はこの場の護衛はしなくていいと告げた。




