31、ベッファの過去―――王太子妃ハンナ・アーティス14
ハンナの精神は常に蝕まれていた。
普段、王宮に作らせた教会で祈りを捧げる以外に、ハンナは外に出なくなっていた。
すれ違うはずもない貴族たちからの嘲笑、いつベッファの寵愛が尽きるかという恐怖、そして王太子妃としての公務は全て免除されており、唯一の責務であるベッファの子供を産むということすら果たせないという焦燥感が、ハンナの心を深く蝕んでいた。
―――なんでなの……!? ゲームが終わった後、二人は協力し合いながら国を導いていくって最後に流れてたじゃない! 二人で寄り添って……数年後のスチル絵だったはずだけど……子供、子供の姿は……そんなの覚えてないわよっ、どうなってんの!? マジで意味が分かんない……アイリスを処刑にしなかったのがダメだったってこと……? このままじゃベッファ様に捨てられちゃう……。
ハンナは昼夜を問わず、祈りの最中でさえ、ベッファの子供を孕むことだけを考えていた。教会関係者から渡される各地の子宝に恵まれるという、食べ物や薬もすべて試している。だが、子を授かることなく時は過ぎるばかりであった。
そんな折、日課の祈りを終えて、自室に戻る途中でハンナの耳に望まぬ音が入ってきた。
ハンナは廊下の真ん中に立つと、辺りを見回した。鮮やかな緑と美しい花々に囲まれた王宮へ続くどこかから、微かな子供の泣き声が聞こえると言った。
「ハンナ様?」
「ねえ、聞こえた!? 今、赤ちゃんの泣き声がしたでしょ!? どこか、どこかにいるのよっ、私にあてつけるための子供が! 赤ちゃんが! この城のどこかにいるんだわっ」
侍女たちは顔を見合わせ、その話を聞き流そうとする。誰にもそんな声は聞こえないのだ。
「ハンナ様、お疲れなのではないでしょうか」
「ええ、私共にはそのような声は一切聞こえません」
「疲れって……馬鹿にしないで! 違うっ! いるの! なぜ皆は聞こえないの!? 私はヒロインなのよ! 話をちゃんと聞いて、調べてよ! 私が言っていることは全て正しいのっ」
「調べると言われましても……」
侍女たちはその場をぐるりと顔だけを動かし見渡す。ハンナを含めた十人の立っている場所は、王太子宮からハンナのために建てられた専用の教会へ向かうための一本の廊下である。そこは、ハンナが人に合うことを嫌がり始めた二十四の時に、周りの目を遮るように木と花を植えられた場所だ。
「周辺には何もございませんので」
クスクス、と誰かが笑う声が聞こえた。侍女たちはすました顔で下を向いて立っており、誰が笑ったのかなどハンナには分からない。唯一顔を上げている侍女長は、いつもの無表情だった。
「誰!? 今笑ったの!? 追い出されたいのっ!?」
「ハンナ様、ご気分が優れないようですね……ここにいてはさらに悪くなるかと思います。あなた達、ハンナ様を自室へお連れしなさい」
「はい、侍女長」
ハンナが学園を卒業してからずっと世話をしている侍女長が、周囲の者に指示を出す。新しく付けられた侍女数人は、暴れるハンナを押さえこみ大人しくさせる役割だった。
「やめて! 触んなっ! 聖女で王太子妃でもある私にこんなことしてどうなるか分かってんの!?」
「はいはい、ハンナ様、左様でございますねーそろそろ殿下とのお茶の時間ですので戻ってお着換えしましょうねー」
「馬鹿にすんなっ! ヒロインの私にこんなことするなんて、ベッファ様に言いつけてやるっ!」
―――
この乱暴さ、そして「ヒロイン」という発言は、すぐに侍女たちから王城で働く全ての者に伝えられ、嘲笑の的となった。巷で流行っている女性が読む、夢物語の小説に夢中になっているようだ、と。
「ヒロインとは何だ……? 物語の中にでも入ったつもりか?」
「王太子妃殿下は自身を物語の一部か何かだとお考えのようだ。子ができない焦りから、錯乱されているのだろう」
「錯乱状態で暴れたりもするのだろう?」
「そのようだ。最近では赤子の泣き声がするとか何とか言って喚き散らしているとか……」
「ああ、だから騎士団長の娘が侍女として上がったのか。確かアイリス様と仲が良かったとか」
「ははは、それはなんという御伽噺だ。友人の無念を晴らす夢が見れそうだな」
ハンナは侍女や王宮の者たちが自分を蔑み笑っているのを察したが、その理由を理解できない。ハンナにとって、自分は聖女であり、王太子の愛を悪役令嬢から勝ち取った『ゲームの主人公』であることは、絶対の真実だったからだ。
「あらあら、ハンナ様。お祈りで疲れてしまったのですね」
「疲れてなんかないわ! あんたたちが私の変な噂流してるんでしょっ!? 知らないと思ってるの!? 私は子を産んでベッファ様と幸せになるの! それを邪魔するやつらは全員天罰が下るわよっ」
侍女たちは冷めた顔でハンナを宥めた。いつものことだ、と侍女たちは割り切っており、誰も相手にはせず、侍女同士で口元を歪めながら話し合う。
「いつもの妄言が始まっちゃったわね」
「侍女長がいないときに面倒だわ」
「どうする? 殿下にご報告する?」
「殿下に都度報告なんてしていたら、何十往復する羽目になるわよ。私たちも大変だけど、こんな聖女様を大事にしていらっしゃる殿下が気の毒だから、報告はしなくてもいいでしょ」
「そうね……ああ、そうだ。アイリス様のお話でもしてあげる? アイリス様はお優しかったって話をしたら甲高い声がぴたりと止まって、可愛く泣き出すのよ」
「おい、聞いてんのっ!? 邪魔っ邪魔っ邪魔なのっ! 出て行けってば!」
「あんたって外道ね。ふふ、いいわね、どうせ侍女長は今日戻ってこないだろうし、殿下が戻ってくるまで誰も来ないんだもの、やっちゃいましょ」
「あら、それなら私に任せてよ。アイリスの話なら沢山できるわ」
「ふふ、適任がいたわね。私たちはお茶の準備でもしておきましょう」
「なに!? 何なのあんたたち! 早く出て行け! 私を信じないやつは出て行け!」
「あら、ハンナ様……このお城にはね、とってもお優しくて物語のヒロインのようなお姫様がいたのよ。男爵家の娘なんかじゃない、名門貴族のお姫様だったアイリス様っていうヒロインが」
「はっ……や、やめ……いやっ」
「やだ、ハンナ様が震えているわ。寂しいのね、私が物語を聞かせてあげるわ。アイリスのいた頃の優しい世界のお話」
「やめて、やめてやめて! 違う! アイリスじゃないっ私、私がヒロインなのっ皆に愛されて執着されてるのは私……わたし……なの」
傲慢だった王太子妃ハンナは侍女たちの力によって、すっかり大人しくなったという噂が、貴族社会に新たな嘲笑の種を蒔いた。
侍女にすら言い包められてしまう王太子妃。
その惨めな言葉は貴族たちの間でだけ、広がっていった。王都の民は公務の一環として出てくる聖女らしいハンナしか知らない。その姿はハンナの意地でもあったが、王宮でのハンナの狂乱はベッファが裏で行っていることの、格好の目眩ましとなっていた。




