29、ベッファの過去―――王太子妃ハンナ・アーティス12
扉の閉ざされた部屋では、激しくも甘美な時間が流れていた。
結婚が許可されるまでベッファの願いでもあり、二人は意図的に子を授かることを避けていた。ハンナ自身はどちらかと言えば、先に子供をと望んでいたがベッファの願いを優先する形をとっていたのだ。しかし、結婚を機にその願いは全ての枷が外された。
ハンナにとって『跡継ぎ』は、王太子妃教育での屈辱を晴らし、誰にも文句を言わせない絶対的な地位を手に入れるための道具だった。
その夜もベッファは寝台でハンナを深く愛した。
「ハンナ。君と私の間には、これからは何の障害もない。君が望むだけ君を愛し、君もまた私を愛してくれ。そして私と君の願いを完璧にしよう」
「ベッファ様……愛しています。必ず、ベッファ様の子を産んでみせますっ」
二人の夜は激しく、甘く、そして子を求める切実な願いに満ちていた。ハンナは毎日、自分の腹が膨らむのを夢見て、その日から生活の全てを「子を授かること」に捧げ始めた。
しかし、一年経っても妊娠の兆候が見えないことに、ハンナは早くも焦りを感じ始めていた。聖女としての務めのみを行い、あとは気ままに茶会やパーティーにだけ顔を出す日々に、周りの視線が厳しくなりつつあった。
ある日の軽食。
専属の侍女が用意した盆の上に、サラダと共に冷えたフルーツが乗っているのを見つけ、ハンナは感情を爆発させた。
「これは何なの!?」
甲高い声に侍女は驚き、手に持っていた銀のトレイを落としそうになった。
「ハ、ハンナ様……旬のフルーツでございます。昨日食べたいと仰られていたので……」
「はあ!? 今日はそんな気分じゃないわよ! あなたは私の身体をどうしたいの!?」
ハンナはテーブルを叩くと椅子から立ち上がり、侍女に詰め寄った。侍女が怯えて後ずさるのと同時にハンナは彼女の腕を掴み、力任せに床へと引き倒した。
ガシャンと銀のトレイが激しい音を立てて床に落ち、盛られたフルーツが飛び散った。床に落ちたフルーツを勢いよく踏みつぶすとハンナは青い顔をして、ゆらりと侍女を見下ろした。
「ひっ……! お、お許しくださいっ」
侍女は悲鳴を飲み込み、床に這いつくばって頭を床に擦り付けた。ハンナは倒れた侍女の脇腹に、先のとがった靴のつま先を押し付け、踏みつぶしたフルーツの汚れを拭うかのように足蹴にした。
「冷たいものは血の巡りを悪くするのっ! そんなことも知らないの!? ベッファ様の子を授かるためには体を温めなければならないってっ! 医師から何度も聞いているはずでしょっ! 馬鹿なのっ!?」
ハンナは怒りに顔を歪ませながら、さらに罵倒を続けた。
「まさか、あんたアイリスの回し者ね!? 私が子を産むのが嫌で、わざと身体を冷やそうとしたのね! 私からベッファ様との子供を奪おうとする者は全員敵よ! あんたみたいな無能で悪意ある侍女は、私の傍には必要ないわ! すぐに王城から叩き出しなさい!」
「落ち着いてください、ハンナ様! アイリス様はもういらっしゃいません……!」
「アイリス様ですって!? あの女は追放された犯罪者よ! 馬鹿にしてるの!?」
侍女は顔を青ざめさせ、屈辱に耐えながら震え、深く頭を下げ続けた。ハンナは冷たい皿と床に散らばり踏みつぶされたフルーツを睨みつけ、荒い息を吐いた。彼女の視界には、床に頭を擦り付けている侍女の顔ではなく、跡継ぎも作れず、聖女としての仕事以外をまともにしないことを蔑む貴族たちの陰湿な顔が見えていた。
―――
ハンナはベッファと結婚して、四度目の移ろいゆく季節を見送った。
一年、二年と過ぎるごとに、ハンナの心は焦燥感に焼かれ始めた。激しい愛を交わし、子を強く望みながらも、ハンナは妊娠する気配すらなかった。王室の医師は「王太子妃様のお体は健康です。ご心配なく」と繰り返すばかりだった。
周囲の貴族たちは、「聖女の力はあっても、王族の血筋を繋ぐ能力はないのか」と陰口を叩き始め、それはハンナの耳にも届くようになった。ベッファの愛を失わないための『王位継承者』が存在しないことに、ハンナは日に日に不安を募らせていった。
「ベッファ様……どうしてでしょう? 私たちはこんなにも愛し合っているのになんで子供ができないの……」
ハンナはシーツの上で顔を伏せて涙を流した。ベッファは彼女の肩を抱き、そのピンク色の髪を優しく撫でつけた。
「泣くことはない、ハンナ。君が泣くと、私も悲しくなってしまう」
「でも、でもっ皆が言うんです……『もう四年だ』って。私が王族の血筋を繋ぐことすらできない女だって……私を王太子妃として認めていない人たちが、また増えているんです! 何度も、もういないアイリスのことを言われて私、本当に……」
寝台の上で涙を流すハンナに対し、ベッファは不可解なほど冷静だった。その瞳はハンナではなく、遠い壁の装飾を見つめているように見えた。
「子はいずれ授かるだろう。急ぐ必要はない、ハンナ。言わせておきたいものには言わせておけ。君が焦る必要はないのだから」
「でも、早くベッファ様の子が欲しいの。私たちの愛の証がなければ、私は聖女だとしても、王太子妃としては皆は受け入れてくれない。ベッファ様、子がいなければ、あなたは私から離れてしまうでしょう……?」
ハンナの言葉は自身の地位への不安と、ベッファへの依存を露呈させていた。ベッファはふっと薄く笑い、ハンナの顎を掬い上げ、激しいキスを落とした。
「そんなこと思うなんて、私の愛が足りないせいか? 子供なんてそのうち授かるだろうが、ハンナ、君を満たしてあげたい。さあ、今夜も互いに満たされよう。子作りで君を不安にさせてしまう私は悪い男だな……」
ベッファはそう言って、ハンナを深く愛し続けた。
だがその裏でベッファを縛り付けていた『真実の愛』の強制力は、徐々に、しかし確実に緩み始めていたのだ。
四年の月日が経ち、ゲームのシナリオが完全に終了した今、強制力から解放されつつあるベッファの頭の中には、懐かしい元婚約者の名前が響き始めた。
―――なぜ自分はハンナと結婚したのか。アイリスの方が従順で扱いやすかったはずだ……なぜ追放などという、意味のないことをしてしまったのだ。利用価値のある者を表に出さないようにするとは、私の考えとは思えない。
ベッファに残されたその感情は、以前の感情に近かった。元婚約者ですら駒のように扱う元の感情。今もまだハンナへの習慣的な『執着』は消えてはいない。だが、学園を卒業した時から、ふとした瞬間に強制力が消える時がある。
それをベッファはハンナに悟られないように動いていた。愛情を疑わせないよう努めていたが、その言動の端々に微かな綻びが生まれ始めていたことにハンナは気付けなかった。
ベッファはハンナを愛しているというよりも、『愛さなければいけない存在』と認識していたのだ。




