28、ベッファの過去―――王太子妃ハンナ・アーティス11
順調に始まったはずの王太子妃教育の課程で、ハンナは徐々につまずき始めた。
アイリスが幼少期から学んだものを王城の書庫室からかき集められ、山積みにされる資料。
「ハンナ様、どうぞこちらを持ち帰って自己学習にお使いくださいませ」
王太子妃として完璧な立ち居振る舞いを求める王妃の視線。
「最低限の挨拶は……できるようになりましたね」
―――わ、私はヒロインなのよ……! それなのに、なんでこんな勉強なんでしなくちゃいけないわけ!? ゲームの知識でどうにかなるでしょっ!
これらはハンナが前世のゲーム知識や、ヒロインとしての愛嬌で乗り越えられるものではなかった。
ある日、あまりに膨大な貴族の系図に頭を抱え、ハンナはベッファの執務室を訪れた。
「ベッファ様……私、努力しているんです、でもっ! やっぱり難しすぎますっ。歴史も、外交知識も、全然頭に入ってこないの……皆、私をいじめるの。アイリス様のようになれって……酷すぎます……」
ハンナは不安げにベッファに縋りついた。
ベッファはペンを置き、ハンナを抱き寄せた。ピンク色の髪を撫でて前髪をかき分けると、額に口づけた。だが、優しげに口づけるベッファの瞳には優しさの奥に、冷たい色を宿していることにハンナは気付かない。
「何を言うんだ、ハンナ。アイリスはアイリスだ。あれが上手くできていたのは、幼少期から学んでいたからだろう? ハンナ、君もそのうち慣れていくから……弱音は私のためにも吐かないでおくれ」
「でも……」
「ハンナ。君は聖女であり、王太子妃になる女性だ。私に頼るのではなく、君の力で乗り越えろ……いや、乗り越えなければいけないんだよ」
―――ベッファ様、私も頑張りたいけど、こんなの無理! なんで、なんでなの? 今まではやらなくていいって言ってくれてたのに……。
ベッファはハンナを励まし、抱きしめる腕に力を込めた。
「さあ、ハンナ……夜に君を励まさせてくれ。今は辛抱してくれ」
「ベッファ様……分かりました……私、頑張ります」
ハンナはベッファの口にキスをしようとしたが、かわされ頬にあたる。
「駄目だ、ハンナ。君が今すぐに欲しくなってしまうだろう?」
「ベッファ様……私はいつでもいいのに……」
「我儘なお姫様だ。だが、皆に見くびられたくないだろう? 夜のお楽しみだ」
「うん……」
気落ちしそうなところを、ベッファの言葉で立て直し、ハンナは名残惜しそうに執務室を後にした。ハンナの背後にちらつくのは、自分とは違う存在だったアイリスの影だった。教育係や王妃の言葉は容赦なくハンナを追い詰めていく。
それでもベッファと自分の未来のためにも、ハンナはやらなければいけないのだ。
「王太子妃になられる方は、皆様この課題は十二歳の時にはできておりましたね。隣国の公用語も、他国の名産品なども完璧に覚えられておりましたが……」
「聖女様なのですから、この程度の歴史は覚えておかれた方がよろしいかと」
「外交問題に関しては、聖女様にはまだ早かったかもしれませんね。殿下の元婚約者の方もかなり長くこちらの勉強はされておりましたので」
―――なんで私があの女と比較されなきゃいけないわけ!? 私は聖女なのよ? 歴史なんか知らなくても、私が王妃になったら国は安泰なの! 誰が今度からこの国を守ると思ってんのよっ。王妃もこの教師たちも絶対に許さないんだから……覚えておきなさい! ベッファ様のために今は我慢してあげてるんだから……。
ハンナは心の中で、アイリスを褒める者を罵り、自分が王太子妃になった後のことを考える。ハンナは自分に必要なのは知識ではないと、真面目に学んでいなかった。愛嬌さえあればこのゲームの世界は上手くいくのだから、と。
―――子供さえできれば、怖いものなんてないって思ってたのに! 結婚するまではってベッファ様も全然抑えてるじゃない! さっさと作ってしまえばいいのに、何がその辺は弁えようよ……ああ、むしゃくしゃする。子供さえ作っちゃえば、この二年の無駄な時間もなかったのに……。
そうして、ハンナの二年間に及ぶ王太子妃教育は終わりを迎えつつあった。
結局ハンナは上級貴族の令嬢が学園に入学するまでに覚えるようなことすらも、二年の間に覚えることができなかった。ハンナにとって屈辱と苦痛だけの期間は、意外な形で結末を迎えることになった。
二年が経ち、王太子妃教育の最終確認の日、王妃はハンナの貴族としての知識や作法が全く身についていないことに深く失望し、国王へ「王太子妃としては認められない。公妾では駄目なのか」と聞くほどだった。
「公妾!? 愛人ってこと? 私が……!?」
「ハンナ、落ち着くんだ。両陛下にお見せしたいものがあります」
ハンナは顔を赤らめながら、ベッファの顔を見た。
ベッファはハンナへの王太子妃教育は失敗に終わるだろうと予期しており、驚きはしなかった。前もって教会の枢機卿を呼び、ハンナに聖女のみが張れる結界を目の前でやらせる提案をした。
「枢機卿、水晶は持ってきたか?」
「はい、殿下。聖女ハンナ、この水晶に祈りを」
「……分かりました」
ハンナは言われた通りに水晶に触れて、目を閉じ、祈った。その祈りによって発動された神聖力は、王都の核となる聖堂を起点に、国の辺境線全てを包み込むほどの広大な結界を瞬時に構築した。
これまで王国には数年に一度、聖女が誕生していた。力の強さはそれぞれ違ったが、今までの聖女たちが張れる結界は、王都の城壁内のみか、特定の一都市を守る程度の規模が限界だった。しかし、ハンナは国全体に結界を張るという、今までの聖女が誰一人として成しえなかった規模の結界を張ることが可能だった。
「これは素晴らしい結界だ……」
「え、ええ……聖女ハンナには王太子妃として聖女としてベッファの隣に立ってもらいましょう」
「え? いいの? 王太子妃としての政治的な義務とかは……」
「聖女ハンナ、私が間違えておりましたわ。公務は私や王女たちで行います」
水晶に映し出される白く淡い光と金色の光。この光は国を守るための結界だということを、国王夫妻はよく知っていた。その光景を目の当たりにし、もはやハンナを拒絶する術はなくなっていた。
「王太子妃としての資質など、関係ない。国全体を結界で覆う力は、もはや国の守り手になるだろう」
国王は眉根を寄せながら、明確にそう宣言した。王妃も本音で言えば不満ではあったが、他国に行かれるよりもはるかに良いと判断した。枢機卿は自身の利益になる存在を逃がすわけにもいかず、王太子妃と聖女を兼任させる形をとるのがいいと後押しした。
ベッファの有無を言わせぬ態度に、最終的な結婚を「国益のため」と割り切って認めざるを得なくなった。
「聖女ハンナ、婚約期間を終え王太子妃となることを許可しよう」
「ベッファ様!」
「ハンナ、私たちの結婚が認められたんだ。枢機卿もいる。すぐに手続きを取ろう」
「はい!」
こうしてハンナは二十歳を迎える年に、ベッファと盛大な結婚式を挙げた。大衆は真実の愛を貫いた王太子と、国を守る聖女の結婚に熱狂した。
結婚後、王太子妃となったハンナの役割は、政務ではなく、聖女の力で王国全体に強力な結界魔法をかけ続けることだった。彼女のために城の中に教会が建てられ毎日祈りを捧げ、国に貢献する王太子妃としての地位を確立した。
王太子妃としての資質に欠ける部分など、民には分からないし、関係ないのだ。
ある日、ベッファの側近の一人が、恐る恐るハンナに進言した。
「ハンナ様、王太子妃として隣国の使者と挨拶をしていただきたいのですが。これは王室の慣例でして……」
ハンナは祈りのために結った美しいピンク色の髪を揺らし、露骨に不快感を示した。
「え? 私がですか? 私は祈りで忙しいんですけど……その仕事って王妃様ができるんじゃないですか? 聖女である私がすることですか?」
まだ王妃が健在な中で、王太子妃としての対外的な仕事は王族の誰かがこなせばいい。ハンナは面倒な仕事は以降も王族の誰かに任せ避け続けたが、パーティーなどの華やかな場には出ていった。聖女の功績を隣国に見せるために必要なことだ、と理由を付けて。
王太子妃としての資質の不足は表向きは完全に補われたが、王太子妃としてのハンナの生活は、公私の二つの顔を持つようになった。
ベッファの愛と聖女の称号がハンナの王太子妃教育で培われた劣等感を打ち消し、代わりの絶対的な優越感を植え付けていた。ハンナは王太子妃教育で自分を追い詰めた王妃や教師たち、そして貴族社会の全てを見下すようになっていた。
侍女や使用人に対する態度は特に酷いものだった。
「このドレス、前も似たようなやつ着たよね!? こんな同じようなドレスで隣国の使者に会えというの? あなたは聖女である私に恥をかかせたいのね!?」
ドレスを地面に叩きつけて踏みつけると、周囲の者を容赦なく怒鳴りつけた。侍女たちは恐怖と不満を胸に、婚約者として出席していたアイリスがいた頃の穏やかな王城を懐かしんだ。
しかし、隣国の使者を歓迎する晩餐会が開かれると、ハンナは一変した。ベッファの隣で、彼女は光り輝く『聖女と王太子妃』の顔を完璧に演じ切った。
「聖女様も今夜はお出ましいただき、光栄です」
隣国からの使者が恭しく頭を下げると、ハンナは清らかな笑みを浮かべた。
「まあ、嬉しいわ。皆様との友好が、両国をさらに栄えさせていくでしょう」
聖女の謙虚さを示しつつ、自分の立場を崩さない。ハンナ付きの側近が、隣国の話をするようにそれとなく促すと、ハンナは使者に聞こえない程度の声と、冷たい視線を向けた。
「嫌よ、あんたが話せば? 私はここにいるだけでいいの。この国の聖女なんだから」
この言葉を聞き逃さなかったベッファは、使者に気取られぬようそっとハンナの腰に手を回し、優しく囁いた。
「そう、君はここにいてくれるだけで十分だよ、ハンナ。無理はしなくていい。君の聖女としての力以前に、私が君を必要としているのだから」
「ベッファ様、愛しているわ」
「私もだよ、ハンナ」
そしてベッファは使者にハンナとの仲睦まじい姿を見せつけ、周囲の者が何も言えなくなる状況を作り続けていった。聖女の功績とベッファの寵愛によって、ハンナは華やかな場所にのみ姿を現し、難しいことは全て投げ出していった。
ベッファはそれで良かったのだ。ハンナには聖女としての力があればいいので、それ以外を必要としていなかった。一つ必要としているものがあるとすれば、王族と聖女の血を引く子供だけだった。
ハンナへの愛情を一切隠すことはせず、公の場では常にハンナだけを優しく見つめ、人前で頬にキスをすることも厭わなかった。その光景は、誰の目にもベッファがハンナを狂おしいほどに愛している姿として映った。




