20、ベッファの過去―――王太子妃ハンナ・アーティス5《2年目》
1年の時のハンナへ対する呪術による病の件は、結局犯人は見つからなかった。
そう、見つかるわけがないのだ。犯人などいないのだから。
しかし、あの件以来、アイリスに向けられる、嘲笑、失望、そして疑惑の目は、日に日に酷くなっていった。アイリスの婚約者であるベッファの態度が、公の場ではまだ大きくは変わってはいなかったため、アイリス自身の尊厳は保たれていた。
ハンナの計画は、2学年に上がると同時に、さらに大胆になる。
それは、人目につきやすい学園の廊下での出来事だった。
ベッファはいつものように側近たち、そして今や学園の中心人物となったハンナとその友人たちと、談笑しながら廊下を歩いていた。前方から、アイリスが一人でやって来た。ベッファたちがアイリスの存在に気付くが、誰も気にも留めずに吹き抜けの階段へと向かっていった。
アイリスは王太子であるベッファのために道を譲ろうと、壁際に寄り歩みを止めた。その瞬間、ベッファの死角にいたハンナが、まるで故意にぶつかるように、アイリスの進路に立ちはだかった。
「あっ」
アイリスが咄嗟に体をずらしたが、体が当たるか当たらないかの、距離だった。その隙間を通り抜けようとした刹那、ハンナは甲高い悲鳴を上げながら、助けを求めるように手を伸ばし、階段から転げ落ちていった。
「きゃああああああっ」
ガタガタガタ、と鈍い音と共に転がり落ち、ようやくハンナの体が動きを止めた。しかし、ハンナは苦しそうなくぐもった声を上げ、すぐには立ち上がれなかった。その顔は愛らしく歪み、足首を捻ったらしいことが見て取れた。
ハンナは涙を浮かべながら、慌てて階段を下りていくベッファを手で制して、か細い声で言葉を紡いだ。
「痛いっ……うっ、あの、私は大丈夫です。アイリス様は大丈夫です……か?」
震える声で心配すべきは自分ではない、とでも言うかのように、ハンナはベッファの腕にすがりついた。その言葉は一見、アイリスを気遣い、庇うようにも聞こえたが、その目に宿るのは冷たい光だった。
アイリスにぶつかりましたよねと、暗に告げているようだった。
ベッファの顔は、怒りで紅潮していた。自身の手に縋り付いて、転げ落ちた自身ではなく、ぶつかって来たアイリスを心配する姿、痛みに耐える姿。
それに比べて、心配する素振りもなく、黙して立つだけのアイリスの姿。
その答えは、もはや一つしかなかった。
「アイリス! 君というやつは……なんという卑劣な真似をするんだ! 以前よりハンナへの態度について耳にしていたが、これほどとは! 君は王太子妃となるべき女性の品格をなくしたようだな!」
ベッファの厳しい叱責は、静まり返った廊下に響き渡った。身に覚えのないことで怒鳴られたアイリスは、反射的に反論しようと唇を開きかけた。
しかし、彼女を射抜くように注がれる周囲の生徒たちの、あまりにも強い非難に満ちた視線と、ベッファの腕の中でぐったりとしながらも「痛いけど、アイリス様も同じはずです」と、痛みを分かち合うような態度を取るハンナの姿に、アイリスは喉の奥に言葉を押し戻した。
「私はなにも……っ」
押し黙ったアイリスを見て、周囲ざわつき何かが囁かれていた。
アイリスはぐるりと周囲を見渡す。ベッファもその側近も、今まで一緒に過ごした自分を見てはくれない。アイリスはただ、きゅっと唇を噛みしめ、口を閉ざすことを選んでしまった。
その『沈黙』は、周囲には『悪役令嬢の行動』として受け止められた。
―――いい子ちゃんぶるから、こんなことになるのよ。ホント、お高い女って頭が悪いのよね。アイリス、あんたみたいな棒のような体をした女に、私が吹っ飛ばされるわけないじゃない! 考えれば分かるでしょうけど……ちょっと、大げさに落ちすぎたかと思ったけど、そうでもなかったみたいね。あれくらい派手にやった方が目立つしね。ふふ。ま、これも強制力のせいだから! 悪く思わないでね。
階段に倒れたハンナの脳裏には、そんな勝利の笑みが浮かんでいた。ベッファの腕にしがみつき、隠された顔は酷く醜く歪んでいた。
この日を境に、ベッファのアイリスに対する態度は一変した。
ベッファは足に怪我を負ったハンナを案じるあまり、側近や友人たちにも気を配るよう強く命じ、自分自身もハンナの側を離れなくなった。アイリスがハンナの近くにいると、必ずベッファは割って入り、まるで彼女を『嫉妬に狂った卑劣な令嬢』から守るかのように、ハンナの隣に立った。
それまで、王太子の婚約者として、アイリスは昼食時も常にベッファの正面、あるいは隣の席を与えられ共に食事をしていた。だが、今やベッファはアイリスとは距離を置き、ハンナが座る場所まで移動し、今まで通り側近たちと一緒に食事をとるようになった。
アイリスの席とその周囲だけが、ぽつりと孤立したまま、静寂に包まれていた。
アイリスの孤立した席とは対照的に、ベッファたちのテーブルは明るい笑い声に満ちていた。ベッファは包帯で固定されたハンナの足を気遣い、優しい声で話しかける。
「ハンナ、足は大丈夫か? 無理に立つ必要はない。食事も私が取ってこよう」
「あ、いえ、殿下。私、もうずいぶん良くなりましたから。アイリス様も、きっと私を心配してくださっているはずですから……お気になさらないでください」
ハンナは少し憂いを帯びた笑顔でそう答え、ちらりとアイリスの方に視線を投げた。アイリスの表情は、その優しげな言葉と、自分を責める周囲の視線に晒され、無表情に固まっていた。
「ハンナは本当に心優しいな。それに引き換え、心無い人間もいるものだ」
ベッファの感情のこもっていないその言葉は、アイリスの耳にもはっきりと届いた。側近たちも、口々にハンナの怪我を気遣い、アイリスを非難する言葉を続けた。
その様子を食堂にいる他の生徒たちも遠巻きに見ていた。
「まあ見て、あそこ……公爵令嬢も、とうとうお一人でお食事を召し上がるようになったのね」
「ふふ、今まで王太子殿下の隣で食事をするのが、ご自慢だったでしょうに。今では誰からも見向きもされない、物語に出てきそうな悪役令嬢と同じだなんてね」
「あれが本性だったのよ。心優しき聖女様を階段から突き落としたんですって」
「まあ、怖い! せめて反省している顔でもしたらいいものを……あんなに怖い顔をして食べていたら、食事もろくに進まなさそうね」
「よほど悔しいのよ」
クスクスと笑い声が周囲に広がり、嘲笑に満ちた言葉は、アイリスの心を容赦なく傷つけた。周りの生徒たちは、アイリスのその反応を見て、さらに面白がり、優雅な食堂は、まるで獲物を囲むかのような陰湿な空気で満たされていった。
「ベッファ王太子殿下は、ついに聖女であるハンナ嬢を選ばれたのだわ」
「これでアイリス様の婚約は破棄ね。あんな卑劣な真似をするなんて」
「やっぱり、あんなお高く止まった女より、心優しいハンナ様の方がお似合いだもの」
アイリスへの敬意は、この二学年での出来事によって、完全に失われた。彼女の存在は、年頃の女子が熱心に読む物語に登場する、嫉妬と悪意に満ちた悪役令嬢のようだと、陰で笑われた。
―――ああ、皆が勝手に悪役令嬢にしてくれて、手間が省けちゃうわ! 皆、ありがとうね。楽勝過ぎて笑いが出ちゃう……!
ハンナは自らが主人公であるゲームのヒロインとして、完璧に振る舞い続けていた。そして、アイリスは、抗うことのできない『悪役令嬢』という役割に、否応なく嵌め込まれていった。




