19、ベッファの過去―――王太子妃ハンナ・アーティス4《1年目》
学園生活はハンナの計画通りに進んだ。
入学して半年も経たずに、ハンナは攻略対象者たちとの距離を驚くほど縮めていった。また、攻略対象者の婚約者たちとも良好な関係が築けている。
一方で、ベッファの婚約者である公爵令嬢アイリスにだけには、ハンナは徹底して近付かなかった。
―――そろそろ頃合いね。
周囲との好感度が上がっていることを確信したある日、ハンナは呪術による病に臥せった。聖女であれば簡単に呪術を解けるだろうと思われるが、回復と解呪は種類が違うのだ。
呪術の場合、『解呪』というスキルが必要になるのだが、上位スキルでなければならない。この上位の解呪スキルを持つ者は冒険者が多く、まずはそのスキル持ちを探す必要があった。
―――レアスキルだから、そんなに持ってる人がいないのよね。とりあえず、男爵家に適当な理由を付けてそれっぽい呪術師を呼んでもらおっと。本当にかかっているわけじゃないし……うーん、理由は体調不良で……ま、メンドイから、あとはお金と強制力でどうにかなるか!
そんなことを考えていると、寮の自室のドアが叩かれる。弱った声で返事をすると、ベッファが供も連れずに見舞いにやって来た。
「殿下……このような姿恥ずかしいです……」
「何を言うんだ。起き上がらなくていい。体調はどうだ?」
「あまり……ですが、私の実家にすぐに手配をお願いしておりますので」
「そうか……心細いだろう。私が少しの間だけでも看病しよう」
聖女の友人として見舞いに来たベッファは、夜遅くまで献身的な看病をした。女子寮に、教師の許可を得たとはいえ、王太子であるベッファが看病に来る異様さに、周囲はあらぬ噂を立てた。
それを苦々しく思った婚約者であるアイリスが注意をしても、ベッファは看病を止めなかった。
「ベッファ様、私もご一緒させてください。王太子殿下が一人で女子生徒の部屋に行くなど……!」
ベッファはアイリスの言葉と見舞いを冷たく拒絶した。アイリスの言葉が気に入らなかったのもあるが、アイリスに関して妙な噂が出ていたからだ。
「アイリス、君は来るな。これは単なる病ではない。卑劣な呪術の可能性を疑っている……この意味が分かるな?」
ベッファはそう言い放ち、アイリスへと疑惑の色が宿る瞳を向けた。アイリスは驚き、戸惑う。
「まさか、ベッファ様……私をお疑いなのですか?」
ベッファが答えることはなかった。アイリスを置き去りにし、ハンナの部屋の中へと入っていき、中からゆっくりと鍵を閉める音が響く。閉まる瞬間、ドアの隙間からベッファに手を伸ばすハンナの指先が見えた。
病床のハンナはベッファにだけ、心を開いたそぶりを見せた。
「殿下……どうか、私なんかのために、アイリス様との関係に波風を立てないでください。この病が、誰かの嫉妬や悪意によるものだとしても、私は全て許します、許しますから……」
ハンナの殊勝な態度と涙は、ベッファの心を揺らした。その思いに報いるように、ベッファは夜遅くまで看病し、二人の親密な時間が始まった。
男爵家が用意した呪術師の偽物の治療が終わると、ハンナは回復し学園に戻った。
生徒たちの間では、面白いほど単純な噂が出回っていた。
それは『ベッファがハンナを愛し、その自分に向けられることのない愛を妬んで、アイリスが呪術をかけた』という噂だ。
この頃より、周囲のアイリスに対する敬意は失われつつあり、『聖女を呪った悪女』として距離を取られるようになった。
入学するまでは互いに思いやっていたはずのベッファとアイリスが、今ではベッファの視線は、アイリスを見る時は冷たく、ハンナを見る時だけ、抑えきれない情熱を燃え上がらせていた。アイリスがそのことに気付かないはずはなかった。
――――――
病から回復し、心配してくれていた令嬢たちに誘われ、テラスでお茶を飲んでいる際に、ハンナは儚げな雰囲気を出して涙を流し、頬を赤らめ、肩を震わせ相談した。
「ハンナ様、目が赤いわ……なにかございましたの?」
「また、なにかアイリス様から……?」
「あ、あの……王太子殿下の婚約者であるアイリス様から、『あなたのような卑しい身分の者が、ベッファ様の隣に立つ資格はないわ。聖女でなければただの卑しい女よ』と言われてしまいました……」
「え!? あのアイリス様がそんなことを!?」
「はい。私も驚きました……王家から聖女の力について聞かれることが多く、そのことで殿下と話すことが多くなっているので事情を説明しようとしたら、このようなことを……それに凄く恐ろしい目つきで睨まれました」
アイリスが実際にハンナを罵倒したことは一度もない。
それどころか、二人はまともに話したことすらないのだ。
これもシナリオの一部に過ぎず、ハンナが勝手に作った話だ。
だが、ハンナが涙を浮かべ、悲しそうな表情で話せば、それは真実となる。同時に、周囲の生徒たちの同情を誘うのだ。
「ハンナ様が気にすることではありませんわ。私、アイリス様は王太子殿下の婚約者であることを鼻にかけているところがあると思ってましたの」
「私もですわ。以前殿下と少しお話ししただけで、睨まれましたわ」
「私もよ! 廊下ですれ違う際に恐ろしい目で見られ、鼻で笑われました……」
「心配しないで、ハンナ様。私たちがお守りいたしますわ!」
ハンナは涙を拭いもせずに、悲しげに微笑んだ。
「皆様……ごめんなさい、そしてありがとうございます。私はただ、普通に……いえ、平和な学園生活を送りたいだけなのです……」
「なんてお可哀そうなハンナ様……!」
この純粋なフリと嘘が、アイリスをより孤立させた。ベッファの側近や周囲の者も、アイリスの取り巻きも、ハンナへの同情とアイリスへの黒い疑惑で満たされていく。
「公爵令嬢ともあろうお人が、下級貴族に敵意をむき出しにするとは……情けない」
「ハンナ様は何も悪くないのに。アイリス様は意地悪だわ」
アイリスは身に覚えのないことに苛立ちを覚えたが、感情的になればなるほどハンナの思惑通りになってしまうと気付き、否定も肯定もしなかった。公爵令嬢であるアイリスは、幼い頃から『感情を露わしてはいけない。他人の思う壺にだけはなるな。高貴に振る舞え』と教えられて育ったのだ。
「…………婚約者のベッファ殿下なら、分かってくださるはずだわ」
しかしその『沈黙』こそが、アイリスを『悪役令嬢』とし、ハンナを『悲劇の令嬢』としていくことになる。
ハンナは寮の自室で密かに笑った。
いや、笑い転げた。
アイリスが孤立し苦しむほど、ベッファはハンナに傾倒していくのが分かる。
―――早く、壊れちゃいなさいよ。その綺麗な顔も! 公正な態度も! 豊満な胸も! ぜーんぶ、嫌いっ。ゲームの終盤、アイリスの処遇は全部処刑にしてやったのよね。今回だってそうしてやるわ。
ベッファとアイリスは政略結婚だった。だが、互いに信頼関係はあった。しかし、今ではアイリスの顔を見れば不快になり、声を聞けば耳障りで、同じ空間にいるだけでベッファを苛つかせる存在となっていた。




