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「暗くなっても戻らないので、心配しましたよ」
「師匠が魔法で探してくれて、急いで迎えに来たんだよ」
弾む息で言われて、リャニャは身をすくませる。
「ご、ごめんなさい」
「私のところで、勉強を見ていた。済まない。もう少し早く帰らせるつもりだったのだが、帰路で揉めた」
「ロイ上級魔女」
リャニャには温かい目を向けていたアガード先輩の視線が、急激に温度を下げた。
「揉めた、とは?」
「私を嫌う貴族出の魔女共に絡まれた。危うくリャニャくんが、頭から鉛丹を浴びせられるところだった」
片手のインク壺を示して、アルマン教授は言う。
「は?なんでリャニャちゃんがそんな目に遭ってんですか?」
普段は明るく朗らかなサトラ先輩すら、まなじりを吊り上げる。
小柄なアルマン教授からすれば見上げる巨人ふたりに詰め寄られて、けれどアルマン教授は怯えも躊躇もなく答えた。
「私の配慮不足だ。普段通り言いくるめただけで、そのまま立ち去るだろうと思っていたが、一緒にいたリャニャくんに矛先を向けられた。すれ違いざまに、インク壺を投げ付けたのだ」
「リャニャさん、怪我は!?鉛丹なんて、目や口に、入っていませんか?洗浄と解毒は!?」
リャニャの両肩を掴んで、アガード先輩が顔を寄せる。暗闇を見透かそうとするかのように、群青の瞳がリャニャの身体に視線を走らせる。
「大丈夫です。その、ピクシーが守ってくれたので」
「ピクシー?」
「わたしの代わりにインクを被って、いまはその、報復に」
そっと後ろを向く。事件現場からはとうに遠ざかったので、振り向いたとして見えはしないけれど。
ピクシーは、どこまで身ぐるみを剥いだのだろうか。命までは取られなくとも、あんなところですっぽんぽんにされたら、女性としては死ぬほど辛いだろうが、ピクシーはそれで、溜飲を下げてくれるだろうか。
くれないだろうなと、リャニャはため息を吐く。
なにせ金属をぶつけ、毒を浴びせたのだ。すっぽんぽんのまま研究棟中を走らされて、朝まで窓から吊るされて、それでも許しては貰えないかもしれない。
命までは取られないかもしれないが、死人は出るかもしれない。尊厳を傷付けられての自死で。
「あー」
パシン、とサトラ先輩が手を打って、視線を集める。
「あの、リャニャちゃんのことめちゃくちゃ気に入ってるピクシー集団?いつも一緒だなあとは思ってたけど、護衛までしてくれるんだ。すごいね?」
とてつもなく滑らかで自然に語られた説明に、リャニャも全力で乗っかる。
「はい。守護のおまじないを使ったのを、自分たちへの依頼だと思ってくれたみたいで」
「うーわー、自由気ままなピクシーも、気に入った子にはそこまでしてくれるんだね。なんにせよ、リャニャちゃんが無事で良かったよ」
「ありがとうございます。ただ、鉛丹なんてかけられて、激怒しているので、どこまで苛烈な報復をするか……」
悪意でなくても怒る時は怒るピクシーに、悪意でインクをぶちまけたのが悪い。ピクシーにかかったのは事故とは言え、自業自得だ。
だが、ピクシーは天衣無縫傍若無人なだけで、その性根は善だ。こころが幼いから配慮がなく、平気で命を奪いもするが、そこに悪意はない。楽しいから、怒ったから、嬉しいから、面白そうだから。自分の感情に素直に動いているだけで、悪意で傷付けたり、貶めたりする気持ちはないのだ。
そんなピクシーが、リャニャが原因でひとを殺すなら、リャニャとしては歓迎できない。
「……リャニャちゃんは優しいね。ロイ上級魔女、リャニャちゃんは僕らと寮に戻るので、あなたはピクシーがやり過ぎないように、助けを呼んで貰えますか?」
「ああ。わかった。きみたちの妹弟子を危険な目に遭わせて、済まなかった。クラシュ特級魔法師にも、謝罪を伝えておいて貰えるか。あとのことは、私が処理して、のちほど仔細を報告する」
「ええ。お願いします。くれぐれも、被害者であるリャニャさんが、これ以上の害を被らないように」
アガード先輩の言葉に頷いて、アルマン教授はリャニャを見た。
「リャニャくんを慕うピクシーがリャニャくんを庇い、庇った拍子に鉛丹を浴びせられて激怒した。そう説明して良いか?」
「はい。大丈夫です」
「リャニャくんは過度な報復を諌める言葉を告げていたことも、伝えておく」
「ありがとうございます」
いや、と首を振り、アルマン教授はリャニャと目を合わせる。
「これに懲りず、また私を頼ってくれると嬉しい。きみを守れず不甲斐ないが、私でも教えられることは、まだあるだろうから」
「はい。よろしくお願いします」
「行きましょう、リャニャさん」
リャニャの背を押そうとした、アガード先輩の手が止まる。
「そうだね、帰ろう、リャニャちゃん。アルマン教授、あとは頼みまーす」
代わりにサトラ先輩がリャニャの手を持って引く。
「?」
アガード先輩はどうかしたのだろうかと首を傾げたリャニャに、アガード先輩は躊躇ったあとで言った。
「家出、では、なかった、のですよね?」
「え?」
なんのことだろうと目をまたたいたあとで、昨日のサトラ先輩の台詞を思い出す。
なるほど黙って魔女の研究棟に行って帰って来ないなど、家出と思われても不思議はない。
「違います。ただ、アルマン教授に勉強を見て貰っていただけで。連絡もなく遅くなって、申し訳ありませんでした」
「ほんとうに?私たちに、嫌気が差したわけではなく?」
「もお、アガード先輩、なに言ってるんですか」
カラカラと、サトラ先輩が笑う。
「家出発言したのは僕でしょ。怒ってたのは僕で、リャニャちゃんはびっくりしてただけですって、ね?」
「はい。怒っては、いないです」
困ってはいたが。
「そう、ですか。良かった……」
ほんとうに、心底ほっとしたと言いたげな声だった。
「リャニャさんに、嫌われていたら、どうしようかと」
「先輩、胃袋掴まれてますもんね」
「それもありますが、そうではなくて。純粋に、リャニャさんの人柄も才能も評価しているのです。サトラだって、好きな相手に嫌われるのは嫌でしょう」
会話の途中、茂みが揺れる音を聞いた気がして、リャニャは視線を巡らせる。もしかしたらモフが、顔を出しているかもしれないと。
けれど生成色は見当たらず、気のせいだったかと視線を戻す。
「それはそうですけど。リャニャちゃんに嫌われたら、悲しみに暮れるしかない!」
左右に立つ、背の高い先輩ふたりを見比べる。背も手も匂いも、アルマン教授とは全然違う。
それでも、リャニャを後輩として大事に想い、教え導こうとしてくれているところは、一緒だ。
まだ、完璧ではない。
けれど、彼らはきっとそれを怒らない。
「あの、アガード先輩、明日少し、時間を貰えますか?」
「ええ。構いませんが、どうかしましたか?」
「その、助言が、欲しくて」
「私に?」
「はい。アガード先輩に」
羨まれる立場で、やっかまれる。それは、もう、しょうがない。
ならば開き直って、その立場で得られる厚遇を、享受しなければやっかまれ損だ。
「課題の魔法式では、ないのですが、見て欲しい魔法式があって。良いですか?」
アガード先輩は目を見開いたあとで、雪解けを迎えた森のように、艶やかに顔をほころばせた。
「もちろん、喜んで」
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