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泣いていたせいで、遅くなってしまった。
リャニャは昼食も摂らずに、研究室への道を急ぐ。
忙しいクラシュ師匠が、わざわざ時間を取ってくれたのに、遅れるなんてできない。
ぱたぱたと走るような早足で廊下を進み、研究室に飛び込む。
「遅くなって、すみませんっ」
「廊下は落ち着いて歩け」
作業机に座ったまま小言を口にしたクラシュ師匠が振り向き、リャニャの顔を見て目を見開く。
「どうした」
「あ、の、午前の授業の先生と、話し込んでしまって」
遅れた理由を問われたのかと思ったリャニャが答えると、眉を寄せたクラシュ師匠が、立ち上がってリャニャへと歩み寄る。長い指が、リャニャの頬に触れた。
大きいがすらりとして、手荒れの欠片もない人差し指。対して、ペン胝の目立つ中指。
アルマン教授とは全く違う、男性の、魔法師の手。
「泣くようなことを、なにか、言われたのか」
「え?あっ」
はっとして、リャニャは顔に触れる。
「「泣いた?」」
ガタッと椅子を鳴らして、アガード先輩とサトラ先輩までやって来てしまう。
「あ、いえ、あの、これは、ちがくて」
狼狽えれば狼狽えるほど、疑惑が深まってしまうと言うのに、慌ててしまったリャニャは、巧い言い訳も思い付かない。
「その、えっと、だから」
アルマン教授は悪くないのだと、とにかく、それを伝えたくて。
「本当は、同門になりたかったけれど、そうでなくても、魔女の先輩として助力は惜しまないと、言って貰って、嬉しくて」
つるりとリャニャの口を突いたのは、どう考えてもここで言うべきではない言葉。
「そ、れは……」
案の定、凍り付いた場の空気に、サトラ先輩すら言葉を探しあぐねて顔を引きつらせる。
「あっ、ちが、その」
「悪いが」
どうにか取り成そうとしたリャニャを遮り、クラシュ師匠が言った。
「俺はお前を手放すつもりはない。許すのは、魔女を目指すところまでだ」
「は、はい」
こくこくと頷いて、リャニャは同意を示す。
「師匠を変えるとか、そう言う話ではなくて。あの、上級課程に上がってからずっと、よそよそしい態度を取られていて、嫌われたのかと思っていて、そうではなかったのが、嬉しくて」
「よそよそしい態度」
「あっ、なにか、嫌がらせをされたとか、悪い扱いを受けたとかではなくて!その、アルマン教授も、扱いを、決めかねて、困っていただけの、ようで。それでは良くないと、今日、立ち位置を明確にしてくれたのです」
クラシュ師匠の漆黒の瞳が、リャニャの目を見据える。
「本当に、嫌がらせを受けたわけではないんだな?」
「はい。アルマン教授から嫌がらせを受けたことは、一度もありません」
これは嘘ではないので、クラシュ師匠の目を見返して、リャニャはきっぱりと答える。
リャニャに犯罪に片足どころか両足を突っ込んだ嫌がらせをしているのは、中級魔女のオルレイとその授業補佐、それから、オルレイの授業を受ける見習い魔女たちの方で、アルマン教授ではない。
「なら、ひとまず、いい。もし、なにか嫌がらせを受けたらすぐ言え。それから」
椅子を指差し、クラシュ師匠は命じる。
「子供が食事を抜くな。それくらいの時間は取れるから、先に昼を食え」
どうして、昼を抜いて急いで来たことが、気付かれているのだろう。
「わ、かりました。すみません」
有無を言わせぬ雰囲気に、大人しくしたがってリャニャは示された椅子に座る。鞄から取り出すのは、昼食用に持って来ていたパンだ。
パンをかじるリャニャの目許を、冷たい手が覆う。
{愛し子の弟子、目が腫れているわ}
{冷やしてあげる}
「ありがとう」
お礼を言って、リャニャは闇の精霊に魔力を渡す。精霊は、くすくす笑って魔力を受け取った。
こんなやりとりを、昨日もしたような気がする。
「飲め」
コトンと置かれたのは、真っ白なミルク。ふわふわに泡立って、湯気を立てている。
「ありがとう、ございます」
もしかして、昨日も。
「あ、の、クラシュ師匠」
「なんだ」
「き、のうも、お手数を、お掛けしました、よね」
リャニャの記憶は定かでないが。
「布団に運んだだけだ。大した手間でもない」
「ありがとうございました」
謝ると嫌な顔をされそうな予感がして、リャニャはお礼だけ口にする。
「あれくらい構わんが、体力が尽きるまで無茶をするな。それと」
リャニャが、もぐもぐとかじっているパンを見て、クラシュ師匠が眉を寄せる。
「軽過ぎる。持ち運びには便利だが、もう少し筋肉なり贅肉なり付けろ。アガードもそうだが、だから体力がもたないんだ」
つたないお話をお読み頂きありがとうございます
師匠、オカンかな
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