回想(雫)〜雫の願い〜
時は経ち、翔は大学受験を迎えていた。目指すは東京の名門校。純粋に強さを追い求めた少年は今や心身ともに成長していた。スポーツ推薦も可能だった翔だが、翔はあえて一般受験を選んだ。
入学試験に向かう朝、窓の外には淡い朝の光が差し込んでいる。私は袖を通すご主人の後ろ姿を眺めていた。あの頃とは違う自信に満ちた背中。ずっと大きくなった背中がうっすらとシャツに映る。野生的な強さを感じて私の小さな鼓動が一瞬波打った。尻尾を立てて足元に近づくと、ご主人は優しく微笑みながら私を抱き上げる。
「タマ、行ってくるよ」
私に語りかけるご主人の声色は、大切な人を救えなかったモノトーンなそれとは違い、静かで力強いものになっていた。ご主人は何かを誓うように私を抱きしめ、私はそれに応える様に腕の中で喉を鳴らして応えた。
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合格発表の日。自宅では翔からの電話を待つ母がいた。
ーーリリリリッ!
静まり返った部屋に甲高い電子音が響き渡る。私は少し緊張しながら電話を取る母の様子を見つめていた。彼女は落ち着いた声で電話に出たものの、指先はわずかに震えている。その様子に思わず私も息をのんだ。
次の瞬間——
「タマ、やったよ!翔合格だって!」
母の弾けるような声が部屋に響き、母は私を抱きしめた。そして、まるで春風に乗った花びらのように部屋中を舞い、喜びを表している。母も悲恋の別れを超え、努力を重ねる翔を見てきた。まるで長い冬を越えた春の訪れを告げる風のように、部屋の中が喜びで満たされていった。
「今日はお赤飯炊かないとね」
台所にリズムよく包丁の音が響く。その音を背に私は2階にあるご主人の部屋に向かった。部屋の窓からは月夜の光が溢れ、ご主人の勉強机はまるで役目を終えたかのように静かに照らされていた。
月の光に照らされた勉強机を見つめ、私はそっと天板に飛び乗った。残る翔の匂いに身を預け、体をすり寄せる。ここで翔と過ごした日々が、小さな胸の奥でふわりとよみがえった。
翔に構って欲しい時、タマは机の上で寝っ転がり勉強の邪魔をした。翔は邪魔者扱いせず、決まって優しく撫でてくれる。鉛筆のすべる音が響く中でタマは眠った。起きると懸命に机に向かう翔の姿がそこにあった。
翔の合格はタマにとって翔との別れでもある。しかし、どれだけ時が流れても翔が机に向かう姿を思い出すだろう。
翔の部屋の窓からは春の忘れ雪が見えた。
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翔の出発当日、外は季節外れの雪。殆どの荷物は東京に送ってはいるが、大きめのカバンを背負った翔の姿はここから居なくなるんだと実感させるものがあった。
「本当に忘れ物ない?新幹線の切符持った?」
「大丈夫だから。ちゃんと前日に見てるし、もうそこまで子供じゃないよ」
忘れ物を気にしているが、翔の母の表情には我が子との別れを惜しむ気持ちがにじんでいる。翔は苦笑しつつも、どこか照れくさそうでほんの少し寂しげだった。
「それじゃ、行ってくる」
タマは小さく鳴きながら翔の足元に駆け寄った。翔は優しく抱き上げ、頭を撫でる。私を拾ってくれた時と変わらない匂い。私は拾われた時からずっと一緒だと思っていた。
「タマはいつも俺の側に居てくれたね。ありがとう。もっと強くなって、ここに帰ってくるから」
タマにはわかっていた。守りたいものを守れる強さを得るにはここを出る必要があるのだと。
「身体には気おつけてね。何かあったら直ぐ電話してきてよ。忙しくなるだろうけど、たまには顔を見せに来なさい」
私は母に抱き抱えられ、ご主人を見送る。雪に沈む足音と共にご主人の背中が遠ざかっていく。あんなに一緒にいたのに別れは一瞬だ。私はただ見送ることしか出来なかった。
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翔が東京に旅立ってから、タマの見る家の景色は少しずつ変わっていった。翔の部屋はそのままだったが、机の上に積まれていた参考書は片づけられ、誰も座らない勉強机だけがそこにあった。翔がいなくなった家はどこか広くなったように感じられた。
タマは相変わらず日向ぼっこをしたり、母の膝の上で喉を鳴らしたりして過ごしていたが、ふとした瞬間に翔を思い出してた。
ご主人は東京で元気にやっているのだろうか。タマにはそれを確かめる術はなかった。でも、時折鳴る電話の音が翔の存在を知らせてくれた。
「翔、元気?」
母の声が明るく響く。私は電話の向こうの声に耳をすませた。
「うん、元気だよ。授業も楽しいし、研究室の先生にも認められるようになってきた」
「よかった。忙しいでしょうけど、ちゃんとご飯は食べてる?」
「食べてるよ。友達とラーメン食べたり、たまには自炊したりもしてる」
「それならいいけど……ちゃんと栄養摂りなさいよ?」
「はいはい」
母は苦笑いをしながら電話を切った。私はご主人の部屋の前に行き、扉を見つめた。そこにご主人の姿はなかったけれど、電話越しの声は今も変わらず優しかった。
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母との電話の様子から、ご主人は大学でも優秀らしい。学業だけでなく、アルバイト先でも高く評価されているようで、さすがは私のご主人だ。どれほど頑張っているのかは想像するしかないけれど、きっと持ち前の努力家ぶりを存分に発揮しているのだろう。
その分電話の頻度は徐々に減っていった。たまに電話が鳴ると、私は耳を立てて母のそばに行った。ご主人の声を聞くと安心できたから。
「タマは元気?」
ご主人は決まってそう聞いてくれた。それが何より嬉しかった。
「元気よ。相変わらず家でのんびりしてるわ」
「そっか。よかった」
翔の声には、どこかほっとしたような響きがあった。翔が安心してくれるなら、それでいいとタマは思った。でも、翔の姿が玄関に現れることはなかった。
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ご主人が大学を卒業し、大手企業に就職した頃から、電話の頻度はさらに減った。母も「仕事が大変そうね」とこぼしていた。それでも電話のたびにご主人は私のことを気にかけてくれていた。
「タマはどうしてる?」
「元気よ。でも、前より眠っている時間が長くなったわ。あとね、翔の部屋にずっといるの。出してもすぐ戻ってきちゃうし、あなたのベッドの上でじっと丸くなってるのよ」
「そっか……」
翔は沈んだ声を出す。それでも翔が実家の扉を開けることはなかった。実家に寄れないほど仕事が忙しいのだろう。タマには寂しさがあったが、それはご主人にとって必要なことと自分を納得させていた。
タマは翔のことを思い出すたびに、自然と翔の部屋へ足を向けた。シングルベッドに微かに残る翔の香り。タマはベッドの上にゴロンと寝転がり、窓の外に咲く夜桜を眺めた。ご主人と最後に寝た日から、もう何度目の春だろう。
ご主人はきっと誰よりも強くなって、この家に戻ってくる。タマはそう自分に言い聞かせ、それを信じていた。
窓から溢れる花明かりが、タマの小さな身体を静かに包み込んでいた。
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ご主人がいなくなって、どれほど時が過ぎただろう。
変わらぬ日々の中で、私は少しずつ体の変化を感じていた。高い場所に飛び乗るのが難しくなり、歩くたびに足取りがゆっくりになっていった。
「タマ、歳を取ったわね」
母が私を撫でながら、少し寂しそうに言う。母の指先がそっと細くなった背中をなぞる。私はただ喉を鳴らして応えた。
翔の帰りを待つ日々は、もう少し続くのだろうか。
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さらに時は流れ、私はもうほとんど歩けなくなっていた。ご飯もほとんど喉を通らない。母は優しく撫でてくれるけれど、その手のぬくもりさえも次第に遠のいていくようだった。
翔の部屋の窓から見えるのは今にも泣き出しそうな雨催いの空。私はもう、目を開けているのも辛くなっていた。すぐそばで母の声がする。いつもの優しい声で、私の名前を呼んでくれている。
「タマ……大丈夫よ。ここにいるからね」
私は喉を鳴らそうとしたけれど、もう喉を鳴らす力もなくなっていた。かすかに母の指がそっと背中を撫でるのを感じる。ご主人の匂いの残るこの部屋で、私はずっと待っていた。諦めたくなかった。いつか帰ってくると信じて。
窓の外で小さな雫が落ちた。ひとつ、またひとつ。やがて、それは堰を切ったように降り始めた。静寂を切り裂くように、雨音が部屋いっぱいに響く。その音がタマを記憶の雨だまりへと還らせた。
──タマは翔に拾われた日のことを思い出す。
冷たい雨に打たれていた小さな黒い子猫。震える体を翔は迷いなく抱き上げてくれた。雨粒が降り注ぐ中、温かい手が私を抱き上げる。腕の中で顔を上げると、そこには翔がいた。
あの時、私は初めて知ったのだ。世界にはこんなに優しいぬくもりがあるのだと。家に入っても震えていた私を翔は自分の布団にくるんで一晩中寄り添った。
ずっと色褪せない記憶。翔と出逢った日から今までの記憶がタマの中で再生されていく。それに対して窓の外から聞こえてくる雨音が少しずつ遠ざかっていった。その音が消えていくのを感じながら、タマはそっと目を閉じた。
もう一度だけ。
もう一度だけ翔に。
―最後に、私を抱きしめて欲しかったな。
朝月がほのかに残る空。雨は止み、窓の外では桜の花が静かに揺れていた。