回想(雫)〜出逢い〜
私の最も古い記憶は、籠の中。
籠は木造の戸建ての狭い一室の中にあった。そこには私の兄弟も居て、お父さんとお母さんは別の籠に入れられていた。他の家族も子供と親で籠が分けられていて、スチール製の棚に整然と並べられていた。
お父さんとお母さんの籠は、私達の向かい側に置かれていて2人の様子が見える。
私たちが生まれた後、お母さんは子供を産めなくなっていた。だから、お母さんが私たちの前からいなくなるのは早かった。
食事は決まった時間に籠に取り付けられた機械から出てくる。味も食感も同じ食事が永遠に出された。
この食事に不満や苦痛は無い。
私にはこれしか知らなかったから。
管理人は決まった時間に食事を補充し、私たち兄弟の排泄物を処理していなくなる。
籠の中で私達兄弟は毎晩寄り添って寝て、同じ日を繰り返した。私達より先に生まれた他の子達はこの場所から先に巣立っていった。
私達兄弟だけになった頃。部屋の外で管理人が誰かと口論する声が聞こえるようになる。それからは新しい家族がスチール製の棚に補充される事もなくなった。
ある日、目を開けると私達兄弟は管理人が運転する車の後部座席にいた。
車が止まり、管理人が手際良く私達の入った籠を車から取り出し、予め外に出されていたダンボールの中に私達は入れられ外に放り出された。
そう、私達は捨てられたんだ。
それから私たちは自力でダンボールから抜け出し、食べ物を求めて外の世界を彷徨った。
末っ子の私を兄と姉が守ってくれていたけれど、日が経つにつれ兄達は衰弱していき、その時が来ると黒い大きな鳥が兄達を空の彼方に連れていった。
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私だけになってまもなく。その日は雨が降っていた。
私は空腹で動けなくなって、顔に当たる雨の感触を感じながら空から舞い降りる流星のしずくを見上げていた。
身体からゆっくりと力が抜けていく。そして目を閉じ覚悟を決めたその時。
顔に当たっていた雨の感触が消えた。目を開けると、そこには傘をさした小学生くらいの少年がしゃがみ込んで私を見下ろしていた。
「おっ! 猫いる!」
痩せ細っていた私は軽々と持ち上げられ、ブレザーの中で私は抱き抱えられた。
ブレザーの中で初めて感じる人の温もり。傘に当たる雨の音は、私達の出会いを祝福しているかのように聞こえた。
それがご主人との最初の出会いだ。
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「お母さん、見て! 猫拾ったよ!」
「あら、翔くん。どこで拾ってきたの?」
「う〜ん、道の隅っこでぐったりしてた」
「あら、かなり弱ってるじゃない。捨てられたのね。いいわ、うちで飼ってあげましょう」
私は翔の家族になった。以前から翔の両親はひとりっ子の翔のために、ペットを飼うことを考えていた。ちょうどそのタイミングで、私が現れたのだ。
私は「タマ」と名付けられ、それからは翔の妹のような存在になった。暖かいベッドで一緒に寝て、猫なのに一緒にお風呂にも入って。翔に抱きしめられながら、私はその寝顔に頭を寄せて眠るのが幸せだった。
翔にはお気に入りのお菓子があった。
「タマ、フィナンシェ、食べたい?」
私はじっと見つめる。
「ダメだよ、タマは猫なんだから。」
少しやんちゃな笑顔で翔は言った。私が猫だから翔と一緒にできないこともある。
私が猫でいる限り叶わないけれど、人間だったら翔と一緒にできることがたくさんあっただろうな。
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翔には同い年の幼なじみがいた。
彼女の名前は早乙女紀香
整った顔と、風に揺れるたびに光を反射して波のように輝くロングの黒髪。彼女はまだ幼さを残していたが、その佇まいには将来洗練された美しさが宿るだろうという予感が感じられた。
小学校に上がる前、お互いの両親が紹介し合ったことが2人が出会うきっかけだった。
翔は「のんちゃん」と呼んでいた。
翔は学校に行く時も、帰る時も、学校が休みの日も、ずっと「のんちゃん」と一緒にいた。両親の思惑通り歳を重ねるごとに2人は絆を深めていった。
いつものように翔と紀香がソファに並んで座っている。翔の手が紀香の髪を優しく撫でるたび彼女は微笑み、二人の声は穏やかで心地よく響いた。私が割って入ろうとしても二人は私を撫でながら笑い合っている。
私も人間だったらきっと2人の中に入っていたのに。私も翔とイチャイチャしたい。2人を見てこれが『幸せ』というものだろうかと思うと、私の小さな身体も温かくなった。
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ある朝、翔が妙に落ち着きなく動き回っていた。何にソワソワしているのかはすぐにわかる。その日の夜、すべてが変わった。
翔とのんちゃんが帰宅したのは月がちょうど窓から見える時間だった。玄関のドアが開く音とともに、2人の間に漂う微妙な空気。なんというか、いつもよりぎこちなく、それでもどこか暖かい感じがした。
「お、お邪魔します…」
と、のんちゃんが控えめに玄関で言うのを聞きながら、私は廊下に出ていった。私を見ると優しい笑顔を見せる。
「あ、タマちゃん!」
かがんで私を撫でくれた手がいつもより少しだけ温かい気がした。リビングに移動して2人がソファに座った。
「…えっと、その…」
2人の会話はぎこちない。言葉が出てこない様子。のんちゃんも頬を赤くして、時折小さくうなずいたりしている。私はその間、彼らの足元で丸くなりながら様子をうかがっていた。
翔が意を決したように口を開く。しかし、言葉はすぐに詰まってしまう。私は仕方ないなと思いながら小さな声で鳴いてみた。すると、のんちゃんがふっと笑う。
「タマちゃん、翔くんを応援してくれてるの?」
そう言ってのんちゃんが笑うと、翔もつられるように笑った。緊張していた空気が霧散した。
「…今日は、ありがとう。改めてだけど…本当に、嬉しかった」
のんちゃんがぽつりとつぶやくと、翔はうなずきながら、少し耳まで赤くなっている。
「俺も…ちゃんと伝えられてよかった」
その言葉にまた沈黙が訪れるけれど、今度は気まずいものではなく、温かい沈黙だった。
イチャイチャしやがって、私は2人の間に割って入るようにしてソファに飛び乗った
のんちゃんの膝にちょこんと座ると、彼女は驚いたように私を見たが、すぐに笑顔を浮かべて撫でてくれた。翔も少し照れくさそうに私を撫でる。2人の手が私の背中の上で軽く触れ合う。
「タマちゃん、今日はありがとうね」
2人の幸せそうな空気に包まれながら私も目を閉じた。
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---2人の幸せは、突然奪われる。のんちゃんの両親が経営していた会社は、大きな負債を抱え、資産を差し押えられてしまう。
学校へ行くときの待ち合わせ場所にのんちゃんが現れなかったことで、翔は異変を感じ、のんちゃんの自宅に向かったが、出入り口すべてにA4サイズの白い張り紙が貼られていた。学校に来る気配もない。どこを探しても、彼女の姿はなかった。
翔はただ待ち続けた。だが、その後、訃報でのんちゃんが亡くなっていたことを知る。彼女は一家心中の犠牲となっていた。その日を境に、翔は部屋から出なくなった。のんちゃんとの思い出の品やアルバムを何度も手に取り、夜になると私をぎゅっと抱きしめながら眠る日々が続いた。
「タマ、俺、のんちゃんを守れなかった。この世界は、俺が思ってた以上に冷酷だったんだ……」
震える声で語る翔、のんちゃんは物心つく頃からずっと一緒だった。翔にはのんちゃんが必要で、のんちゃんもまた翔を必要としていた。お互いにとって半身の様な存在で、誰よりも大切な相手だった。私は翔の涙を見守りながら、その跡を優しく舐めることしかできなかった。
やがて翔は学校に復帰したが、以前のように笑うことはほとんどなくなった。授業が終わるとすぐに帰宅し、自室にこもり、隅に積まれたノートや参考書をひたすら開いて机に向かった。
閉じこもる日々の中、私は翔のそばを離れることなく寄り添っていた。夜になると私をぎゅっと抱きしめて眠る。彼の胸の中で何かがまだ叫び続けているのを感じた。
ある夜、机に向かっている翔がふと手を止め、私に話しかけてきた。
「タマ……俺がもっと強かったら、のんちゃんは助けられたのかな……」
翔は今にも泣き出しそうな顔で拳を握っている。少し震える声を聞きながら、私は彼の足元にすり寄り、小さく鳴いた。それ以上言葉をかけることはできなかった。机の上に積まれた参考書やノート。翔はそのすべてに一心不乱に向き合い続けていた。
「俺には力が必要なんだ…この世界で大切な人を守れる力が…」
翔は机に向かう事だけでなく武術も嗜み、強くなる事ならなんでも始めた。私はただ寄り添うことしかできない。翔がどれほど苦しくても、どれほど泣いても、かけられる言葉はない。ただ、彼の孤独に寄り添う。それが私にできる唯一のことだった。
そんな翔が唯一自分を許せる時間があった。それは、深夜系アニメの時間だ。机に向かっていた彼がふとテレビをつけ、物語に目を向ける。私にはその短い間だけ、翔は現実の痛みを忘れているように見えた。
ある日、翔と一緒にアニメを見ていたとき。
その日は翔の大好きな「武闘派メイドを従え異世界最強」が放送されていて、原作で1番苦戦するシーンだった。
ヒロインが主人公のピンチを救い、「あなたは私のご主人様なんだから、私が守るの!」と力強く言い放つ。圧倒的な実力差を前に、身を挺して自分を守ってくれたヒロイン。それに応える様に、主人公は禁術を唱え、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
「え、こんなの目の前でされちゃったら頑張っちゃうじゃん」
テレビに釘付けになっている翔が口を開いた。テレビで繰り広げられる主人公とヒロインの絆に私は胸を打たれた。翔は釘いるように見ている。
猫である私は、人間のように翔を助けることはできない。けれど、翔を守りたい、支えたいという気持ちは本物。
「そうだ、私がやりたいことは、翔を守ることなんだ」
その日から私はアニメに登場したヒロインと自分を重ね、翔を「ご主人」と呼ぶようになった。