8 世界5秒前仮説
「イブ様、奥様がお見えになりましたよ」
締め切った寝室にはハーブの香りがたちこめている。
血の臭いを誤魔化そうとするわざとらしいそれに、タバサはキョトンと目を丸くした。
「聞いてください、お嬢様ったらまた地下室に潜り込んで遊んでいたんです。元気があるのは結構ですが、女性の顔に痕でも残ったら事ですよ。もういい御歳ですし、そろそろ落ち着いていただきませんといろいろと心配です。見てください、奥様なんて心労で夜も眠れず、こんなきれいな若白髪に……」
「わかった、わかったから部屋に戻ってくれるかな、セオ。彼女のそれは生まれつきだ」
ベッドに腰掛けたままのイブが渋面で苦言を呈す。セオと呼ばれた男は一瞬だけ目を見開くと、心なしか嬉しそうにタバサとイブを交互に見遣った。
「誤解しないでくださいね、あなたのためを思って言っているんです。決して、憎くて口うるさくしているわけではありませんから」
左目を縦に横断する大きな傷痕は、怒気を纏うと底知れぬ迫力を伴うが、笑うと解した糸のようにくしゃくしゃに引き攣れる。
幸い、目が合うなり後者の朗らかな笑顔でピシリと敬礼をした男は、足早に部屋を後にして行った。
「……彼、どうして出歩いているんです?」
「あぁ、話せば長くなるけど……本当、ぼくが聞きたいぐらい」
セオドロス・リュンカーは、レゴリス修道院が管理する鱗付きである。
元々王都で警備隊に所属していたという彼は、自己の精神を保つためか、度々この場を王宮内だと曲解するきらいがあった。
世話役のイブやタバサを警護対象と想定して話しかけてくることもしょっちゅうなのだが、しかし、それも所定の地下室内に限った話だ。
タバサは今までに、彼が白昼堂々と脱走、それも『レゴリス女子修道院』の閨房に立ち入ることの意味が、わからないほど愚かではないと思っていた。そう思っていたかった。
「オメガに擦り寄ってた白服の女の子いただろ、あの子とちょっとね。特異性を私的に利用しようとしていたから止めたんだけど、不意を突かれた。で、目が覚めたらこのザマさ」
「この」のあたりで肩を竦めたイブは、よく見れば鼻頭が痛々しく赤らんでいる。顎にまで伝った血の跡は、その出血量の多さを物語っていた。
先程まで手当てを受けていたのだろう。通りで纏う空気がひどく剣呑なわけである。
「フフ、おっかない顔」
「石頭で殴られた」
「ンフフ……、合点がいきました。仕掛けた鼠捕りに罠師自ら引っ掛かった上に、肝心の獲物にもまんまと逃げられてしまったから、そのように機嫌を損ねていらっしゃるのですね。平気よイブ、誰にでもそういう日はあります。怪我で済んで良かったじゃない」
「慰める気があるんならもっとわかりやすく叱ってよ。う、また垂れてきた……舐める?」
「お可哀そうに、余程強く頭を打ったようです」
タバサは開きっ放しだった扉を閉め、イブの隣へと腰掛けた。周りには血の付いたティッシュが散らばっている。
ベッドにはまだ人の温もりが残っていて、先程までここに居た彼が幻覚や残留思念の類ではないと、嫌でもわかってしまう。
「時間遡行が目的だったみたい。月碑を直したいとも言っていたから、狙いはオメガだろうね。過去に戻る方法なんてそれぐらいしか思い付かないし。……正直、もう手に負えないくらいの段階になってる予感はするよ」
扉の方向を顎でしゃくって、イブがわかりやすく降参のポーズを取る。恐らくセオドロスはまだ院内をうろついているであろう。
事実、地下の鱗付きたちが挙って地上に出て来てしまえば、暗黒時代の再来といっても過言ではない。彼らは皆が皆、セオドロスのように己の大義を掲げているわけではないのだから。しかし、思い込みが強くはある。
「少し、詰問してもよろしいでしょうか」
「よろしくはないよ。でも聞かせて?」
「貴方の話を聞く限りだと、まるでオメガが月碑の再建を妨害しているように聞こえます。これは純粋な疑問なのですが、何故オメガは計画の上で不穏分子を野放しにしたのでしょう? 仮にやむを得ない事情があったにしても、果たして我々に悟られるような下手を打つでしょうか? そんなことをして追いやられればあの子に行く宛などありませんのに。身内だからと甘い顔をしないことは誰より理解しているはずですもの。違いますか?」
「う-ん。違いないねぇ」
過去に戻るメリットというと、病気や事故、事件を未然に回避・対策できるというあたりがまず考えられる。
悲しいかな、世の中には予測することが難しく、避けられない不幸が至るところに転がっている。修道院に身を寄せざるを得ない子供たちが良い例だろう。
タバサは月碑の効力を信用していない。
誰かが封印を破壊しようが、森ごと燃やされようが、自分にさえ害が及ばなければそれで良いと考えている。
だから、仮に何らかの企みでオメガがそれに手を出してしまったのなら、それはそれで仕方のないことだと受け止めることができる。
「白々しい小芝居はおやめになって? イブ」
しかしながら、こればっかりはどうしようもない。手の打ちようがない。そんな事象をオメガが抱えていたとしたら、今まで通り、いの一番に幼馴染に泣きついているはずなのである。
では果たして、そうしない理由とは?
「……なんの話?」
「わたくし、貴方がセオドロス・リュンカーを故意に解放したとは欠片も疑っておりません。けれどルールはルールです。大変心苦しいのですが、鱗付きの脱走をみすみす許した愚か者には、職務怠慢の責任を取っていただきませんと」
「遠回しに死ねって言ってる?」
「そう迂遠な言い方ではないと思うけど。そんなことになってしまう前に、一度くらい貴方の口から誠意ある言葉を聞いてみたいわ」
普通、鱗付きは地下で軟禁され、外出はおろか地上へ上がることさえまず許可されない。
オメガに至っては特例で上層階での暮らしを認められてこそいるが、それでも秩序の歪みを許すような行為は本来避けるべきである。
何故監禁ではなく軟禁で、特例なんてものが存在するのか。
鱗付きの特異性は一見、なんでもありの魔法のように思える。だが実際はそうではないからだ。
なんせ彼らの持つ力は『半径1メートル以内の物を引き寄せる』だとか、『肉体年齢を対価に物の状態を数秒前に戻す』とか、そんな具合なのだから。
レゴリスに身を置く人間は、その身をもって彼らの本質を理解している。
いくら微弱な力であれど、制御下になければ邪竜に匹敵するほどの”脅威”にも成り得る。それこそなんらかのイレギュラーによって力が増してしまえば、並みの人間に立ち向かう術はほとんどない。
『科学的な説明が付かない』。罪もない人間を24時間監視するのは、たったそれだけの理由で十分だった。
「タバサ……怒った顔もかわいいね」
「命拾いしましたね。貴方が万全の状態であれば、仕置きを与えていましたもの」
「えーん」
ついに犯行が露見してしまった。
目が覚める思いで、イブはぱたりと仰向けに倒れ込んだ。干したてのベッドシーツの香りがして、一層心が空しくなる。
何を隠そう、タバサを欺いてまでオメガに買い出しを言い付けたのは、他でもない彼女であるのだ。
「ごめん、きみに嘘は吐きたくないから正直に白状する。ご明察の通り、オメガをそそのかしたのはこのぼくだ。……だって過保護過ぎると思わない? お祭りなのにこっそり町を見に行くこともできないなんてさ。あんまり締め付けると、いつかぽっきり折れちゃうんじゃないかと思ってね」
「こっそり町に行くこと自体が問題でしょうに、能天気もここまでくると才能ね。あの子がなにかをしたらとは考えなかったの?」
「なにかってなにさ。せいぜいホットドッグを焼きたてに戻すとか、レモネードの炭酸を復活させるくらいだろう? かわいいものじゃない。ぼくだって祭りに行くならオメガをバッグに入れて持ち歩きたいよ」
一人の空間を好むが、孤独を嫌う。新鮮な環境を求めてはいるが、変化を避けている。
オメガはそういう人間だ。
イブが解せないのは、それが本人にとってどうしようもない問題だという一点である。
安全が保障された衣食住と害意のない人間との交流、それと適度な娯楽。それさえあればオメガが一生をワンルームの中で大人しくしていてくれるかというと、答えは否だ。
痛みや苦労を知らない人間が他人を慮れないように、外の世界を知らない彼女は、いつか必ず己の生い立ちに苛まれる。
―――いつか、こんな日がくるだろうとは思ってた。……今日だとは思わなかったけど。
それはオメガの嘘偽りない、本心からの言葉だった。
無職引きこもり病人に発破をかけるのはなかなか難しく、イブがやんわりと自立を促したところ、すべてを察した様子で放った一言だ。
彼女は真綿で包まれるような生活を満喫する一方で、心のどこかで現状のすべてを打破し得るきっかけを望んでいたのも、また確かであったのだ。
「オメガは便利な道具ではないのだから、そんなことをしなくていいんです。貴方は社交性に欠けた人格形成を不健全だとお考えのようですけれど、健全な状態を良しとするのはあくまで貴方が持つ尺度に過ぎません。一人くらい機能不全がいたところで、何かが変わるわけもないのですから」
「機能したら世界が変わっちゃう、の間違いじゃ?」
揚げ足を取られたタバサは散乱したティッシュの一つを手に取って、これ見よがしに伸ばし始めた。厭味ったらしい小姑のような仕草も、表情や佇まいから不思議と探偵のそれに見えるのだから恐ろしい。
「意図があることはわかりました。まだ、オメガの考えていることはよくわかりませんけれど。いずれにしましても、わたくしたちは暫く地下の番をせねばなりません。ひとまず手の空いた者を竜の眠る森に手配致しましょう」
「そうだね。……なあ、勝手な真似して悪かったよ。話して拒絶されたくなかったっていうのもあるけど、一番は、きみに褒めてもらいたかったんだ」
ドレスの裾を引っ張って、イブは上目遣いにタバサを見上げた。「呆れたかい?」と問う声はか細い。
「教えてよ、ぼくが万全だったら。タバサはどうしてた?」
ギシ、とベッドが軋む。引かれるがままにタバサが身を乗り出したのだ。
顔の前に落ちた髪を耳に掛けると、彼女は常通りにこりと微笑んだ。
「臀部を平手で打ちます」
「タバサ!!」
「幼児言葉で罵りながら」
「タバサ!!!」
シーツに鮮血が飛散する。
「主は仰いました、『静謐よ、正義の執行者たれ』と。最早手に負えなかろうが、わたくしたちはわたくしたちの責務を全うするのみです。白服の君……ああ、お名前を伺っておけば良かった。彼女の全てが知りたい。望むものはなんでも与えてあげたい。そうやって弱みを引き出したころ、仕留めるの。イブ、次はうまく取り入りなさい。……聞いてるの? イブ。……やり過ぎたかしら」