6 世界5秒前仮説
主は仰いました。「力ある者には社会規律の模範となる義務が伴い、国家の望ましい振る舞いをすべき」、と。
これは、マザーが折に触れて話していた教えである。
特にタバサはこの言葉に甚く感銘を受けたようで、よく好んで使っているのを見聞きすることがあった。
「悪かったよ」
視線を正面に据えたまま、隣に腰掛けたオメガが呟く。
背もたれにぴったり体を沿わせ、宙ぶらりんになった足を所在なさげに擦り合わせている。いかにも居心地が悪そうだ。
礼拝席に腰かけた観光客たちは目を瞑り、あるいは同行者と言葉を交わしながら思い思いに祈りを捧げている。
たとえ神を信じておらずとも、場の清廉な空気に中てられ、不思議と罪を明かしたくなるものなのだ。
それは、彼女も例外ではないらしい。
(悪かった、だって? そんなの嘘。一日若返った程度では死なないのだから、今すぐ元通りにできるはずじゃないか。それをしないということは……)
きっとオメガはもう、時間を戻さないつもりでいる。
まんまと枷である月碑を破壊せしめたオメガは、自分自身の時間を早送りすることで能力の限界を超えたという確信を得た。
そうして幼少期にまで戻り、同時にクロエを排斥することで、現在のクロエの立ち位置と成り替わろうとしたのだ。
「ほんとのところはね、どうなったって良かったんだ、こんな世界。修道士が信じてるのはヨシュガラの教えだけだし。わたしらみたいな社会的弱者は淘汰されるべきっていうのも、その一説でしょ? ヨシュガラが竜を斃したばっかりに、そこで善悪がはっきりしちゃったから」
それは正しく懺悔であった。彼女は時間を超越するという神にも等しい力を得ながら、酷く生き苦しそうに小さな頭で項垂れている。
クロエにはなんとなく、彼女が手のひらを返すように接触を許した理由がわかるような気がした。
いざもう一度と時を速めたところで、彼女の肉体は制限を掛けられたまま。周りと同じように成長することはなく、常に置いて行かれる側なのだ。
そのもどかしさにはいやというほど身に覚えがある。
「それでも多くの人は主の教えに共感して、救いを求めている。決して貴方一人の都合で変えていいものじゃない」
「ふうん。じゃあ全部なかったことにしよっか? わたしが胎児になって、ていうか受精卵まで戻って、取り返しがつかない状態になったらそれで満足する? いいよ、そうしても。あなたがやり直す人生に、タバサとイブはいないけどね。……やだ、睨まないでよ。そっちが先に言ったんでしょ?」
言われてはじめて、クロエは自分自身がオメガを睨みつけていたことに気が付いた。
彼女の言葉に偽りはない。
現に修道院へ帰って来ても、すっかりお客様扱い。最早”クロエ”という人物を知る者自体、元凶であるオメガくらいなものだ。
身分を示す徽章ですら信じてもらえないのだから、余程部外者らしく見えるのだろう。なんとも解せない。
「オメガはすぐそういうことを言う。話をすり替えないでって、キリヤ・デイモスも言っていた」
「うわぁよりにもよってあんな汚言症の女の影響を……。悪いこと言わないから、金輪際あれと関わるのはやめておきな。品位に関わる」
「でも放って置くわけにもいかない。彼女はタバサを恨んでいる」
「だからぁ、あなたのせいでタバサが危ないとこだったのに、その自覚もないの? 全部言わないとわからない感じ?」
(何を言っているんだ?)
クロエが心底不可解そうに首を傾げると、「はっ」と酷く苛立った様子でオメガが嘲笑う。
「教えてあげるよ。あなたが近くに居るとタバサが殺されちゃうの。だからもうここには来ないで」
「え……?」
”タバサが殺される”ことと、”クロエは修道院に来てはならない”という点と点が繋がらず、クロエは一瞬頭が真っ白になった。
しかしすぐに我に返って、キリヤの言動の一つ一つを思い返してみる。
「……いや、そんなはずはない。キリヤ・デイモスはただレゴリスの管理から離れて自由になりたいだけであって、交渉の余地はある。その証拠にタバサが来ても大人しく退いていたし、殺意があるようにはみえなかった」
「あんな人目のある場所で早々襲ったりなんかできないでしょ。そうでなくても近くにわたしがいたし。ていうかあんなことされたのに、もう忘れちゃったの? 悪人は善人のフリができるけど、別に必ずしも善人の皮を被ってるわけじゃないって。ぱっと見てわかる人間のクズは、裏表とかなくほんとにクズなだけだよ」
「まあ、あれで満足したんなら良いけど」とオメガがどことなく不安げに言う。気持ちがわからないわけでもないといった表情だ。
ただ鬱憤を晴らしたかっただけならば、あの程度の暴挙も許容できる。しかし、キリヤが最後に口走った「復讐」の二文字が、そう簡単に事が終わらないであろう不穏な未来を予感させるのだ。
「でもさ、良い機会でもあるでしょ? いっそやり直してみれば? ほら、あなたはもう修道士じゃないんだから、全然違う人生を歩むとか。わたしだって別に、あなたに消えて欲しいわけじゃないからね」
無責任にそう言ってのけるオメガに呆れ果て、クロエは無意識に腰元のホルダーに手を伸ばした。冷たく、硬いものに指先が触れる。
(やるしかない、のか?)
こんなことは間違っている。しかし時間を超越する能力者を除いて、一体誰がこの世界を正常な状態に正せるだろう? とても良い案など浮かばない。
こういう時はタバサやイブに指示を仰いで、それに従うのがクロエにとっての最善であった。
狭く冷たい檻に押し込められることもなく、皆と良好な関係のまま、この修道院で楽しく穏やかに暮らしていく。
言葉にしてしまえば至極当たり前のことのように思えた。だが、そこは本来クロエの場所だったのに―――。
「あれ、オメガ? いつの間に帰ってたの?」
不意に意識の外から声を掛けられて、視界に木箱が飛び込んできた。
この木箱というのは寄附金を募る募金箱だ。『身寄りのない子供たちのために』という名目で、治安維持活動の資金を集るものである。
「なぁんだ、帰ったなら言ってよ~。心配したじゃないか。それで、どうだった? ママが迎えに来てくれて。びっくりした?」
「べつにぃ。ていうか子ども扱いしないでよ」
軽薄な物言いと、鈴を転がすような笑い声。
聞き慣れたそれに振り返ると、礼拝席の縁から身を乗り出したイブとちょうど目が合った。
献金を求めて訪問者一人一人を回っているのだろう、炯々とした赤と黄の瞳が真っ直ぐクロエを射抜く。
「イブ」、縋るように零れた声が震える。
「うん? どうしたの、天使ちゃん。ぼくに会うために天界から逃げて来たのかな?」
「て……?」
わざわざ席の方へ移動して来たイブは、小首を傾げたクロエの隣になんてことないように身を滑らせた。するりと腰に手が回ってきて、あっという間に身動きが取れなくなる。
その手つきは、親愛を示すいつものそれとは違うように思えた。
(距離を詰められてる……?)
『色仕掛け』という単語が脳裏に浮かんだ。
イブが相手を口説く時、特に接触を図る際の常套手段だ。よくタバサに仕掛けては脇腹を抓られているのを近くで見ていたので、なんとなくだが普段のそれと意味合いが違うことには気付いていた。
驚くべきことに、彼女は今、好みの女性を物色しているのだ。
昔からの付き合いだからそれくらいわかる。そして、実際品定めされているのはその幼馴染。なんてことだ。
「この服、よく出来てる。バッジまでつくったの? 器用なんだね。凄く似合ってるよ、きみの美しさをよく引き立ててる」
「違う。私は本来ここの修道士だ。これは鱗付きの、具体的に言うとオメガの力の影響で……」
「えっ? オメガがそうだって知ってるの? 言ったってこと? オメガが? ……きみに!?」
どさくさに紛れて顎まで伝ってきた指先をぺしりと追い払う。
当のイブは拒絶されたことよりもオメガが素性を明かしていたことの方が余程衝撃だったようで、ぱちくりと目を見開いて二人を交互に見比べた。
「ダーリンは信用できる人だから♡ ちょっと、いやかなりドジだけど」
「じゃあ、本当はきみと同じぐらいの年齢だってことも知ってるんだね。驚いたよ、よっぽど気が合ったんだねぇ」
「いや、気は合わないな。それより私の話を聞いて欲しい。こうなった原因は月碑が壊されたからで……そうだ。イブは知っているのか? タバサが殺されることを」
「ちょ、バカッ」
「……なんだって?」
腰に回った手にぐっと力が籠もる。想像通りの反応だ。
彼女を利用するようで気が引けたが、クロエは意味深にこくりと頷いて見せた。
「冗談だったとしても聞き捨てならないね。その話、もっと詳しく聞かせてくれないかな?」
「あーもう、ほらぁ……」
(これはチャンスだ)
やや強引な手ではあったが、無理にでもイブを巻き込む価値はある。なんせ人の機微に敏い彼女のことだ、違和感を察知している可能性だって勿論あるだろう。
それに、彼女が誰もいない空間に話しかけていた、あの異様な光景を思い出す。
虹架け祭の朝を繰り返したせいで世界はおかしくなった。十数年もの間、あんな無茶が何回も、そして誰にでも通用するはずない。
「その証明をするためには鱗付きが必要だ。イブ、地下に入る許可が欲しい」
「意外と甘えたなんだね。きみの前で格好付けたいのはやまやまだけど、あんまりぼくを困らせないで、愛しい天使。向こうに美味しいワインがあるんだ、そこでゆっくり話を聞かせてよ」
「手を」と言って差し伸べられた手をクロエが一も二もなく取ると、イブは意外そうにオッドアイを瞬かせた。
「待って、私は貴方の過去を知っている。未来もだ! この世界はおかしくなってる、だから正したいだけなんだ」
「知ってるよ。きみがぼくのことを知ってることを知ってる。月碑が関係してるんだろう? 面白い話だと思うし、言わんとすることはわかるよ」
「じゃあ、信じてくれたの? やっぱりイブは凄い……!」
「なんだか悪い事してる気分になるなぁ」
「違う。イブは悪くない。悪いのは私なんだ」
気付いて欲しい、思い出して欲しい。全幅の信頼が伝わればいい、そんな願いを込めて両手でぎゅっと手を握ると、外へ向かおうとしていた彼女の足はぴたりと止まった。
この時間、裏庭では焼き菓子とワインの販売を行っているようで、早朝とは打って変わって大変賑々しい。
窓から涼やかな風と心地いい騒めきが吹き込んできて、果たして本当に世界がおかしくなっているのか、それともクロエが一人狂っているのか、わけがわからなくなりそうだった。
「そっか。ぼくのこと相当好きなんだね、きみ」
縋り付いた手から細い首筋、綻んだ口元と徐々に視線を上げていくと、喜色に満ちたイブの瞳があった。
「いいよ、連れて行ってあげても。けど一つだけ条件がある」
「なに?」
「一杯だけ付き合ってくれないかな? 年代物は今日を逃すとなかなかありつけないんだよねえ。……これ、オメガには内緒ね?」
オメガはすぐそこにいるのに―――。
首を傾げる暇もなく体ごと腕を浚われ、クロエは何を言うでもなく幼馴染の後に続いた。