32 憧れと黄昏
食堂みかづきには度々、身元の怪しいバイトが出入りする。
何故ならば度を越したお人好しの店主が、これまた度を越した偽善を振り翳しているからだ。
例えば親に酒を盗んで来いと教唆された子供。離婚して家を追い出された老婆、浪費癖が祟って違法な金融に手を出した苦学生。そして、田舎から上京した物知らずの修道士。
と、まあ。今月に入ってからこれで四人目になる。
これだけの弱者を保護し、金銭的援助をして社会復帰に繋げている。これを慈善家と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。
(ま、ウチも店長にとっては哀れな女の一人よね)
くしゃくしゃの紙幣を取り出して、「これで食べれるものを……」とあえかな声で囁いたニーナは、それはそれは惨めったらしかったに違いない。
物心つく前に一家心中に取り残され、奴隷市場に流された。などという経歴を聞かれたわけでもないのに話した際は、彼は涙を吞んで紙幣をピン札に、それも二倍にして突き返して来たのだから、思わず鼻で笑ってしまった。泣き声を堪えた、ってことにして誤魔化したけど。
これは個人の感想だけれど、相手が自分より下、つまり可哀想である限りヨシヨシし出すのって美徳でもなんでもなくて、恵まれた者特有の傲慢さだと思う。モラハラっぽいというか、なんにせよいまいち好きになれない。
まあハンディキャップがあるという点では、シキも弱者側と呼べなくもないけれど。
「スゴーイ! これ、あなたのお店? キャーかわい~~~いッ!」
耳元でファサファサ柔らかな毛が蠢いて、うかつにもドキッとする。
リュックサックを下ろしてみると案の定ジッパーが開いていて、中から黒毛の子猫、自称「シャロチャン」が顔を出していた。
「しーっ、まだ人がいるから出て来ちゃ駄目」
「えぇ~!? いじわるしないでシャロちゃんにも見せてぇ!」
「もう、静かにしてってば!」
荷物ごと抱えて急いで裏手に回ると、大きく揺らされたシャロは不機嫌そうに呻いた。
シャロは世にも奇妙な、言語を介す猫だ。
よくテレビなどで、動物同士がじゃれ合う映像に声優がアテレコする気色の悪い茶番をしばしば見かけるが、ああいうのとはまるで違う。
彼女(?)は人の話した内容を理解して、適切に言葉を返してくる。滑舌(?)の問題でうにゃうにゃ言ってはいるが、それでも聞き取りできる範囲の肉声を伴って。
(怪異だ。化け猫。そうとしか考えらんない)
でもシャロが普通の猫ではないとはいえ、飲食店に獣畜生を持ち込むのはいくらなんでも憚られる。
それに周りの客やシキに、愛猫相手に一人二役で話しかけるイタい女とでも思われたらどうする。生き恥もいいところだ。
「いい? シャロは動物だからお店には入れないの。雑食だからなんでも食べれるでしょ? この辺のゴミなら漁っていいから」
「ひどーい動物差別だ! 差別反対! ニーニャまだ若いんだから、もっと柔軟に物事を考えなきゃ!」
「うげ。うざい猫だなぁ、差別じゃなくて区別なんだが? 保健所に連れて行かれたくなかったらウチに口答えしないで。わかったァ?」
「ひどい、シャロちゃんはこねこなのに……」
「だからなんなのよ」
タクシー会社に寄った後、ニーナたちはそのタクシーの客として食堂みかづきにとんぼ返りした。
車内はお通夜かってくらいの気まずさで、さしものニーナも寝たふりを決め込んだほどだ。一蓮托生とはいえ仲良くする義理も、貸し借りもないわけだし。
店に着くなり血相を変えて飛び出して行ったワトに、「そこまで露骨に避けるとか失礼じゃない?」と思ったのも束の間。
にわかに騒がしい店内をガラス越しに覗くと、どうやらキリヤとかいう連れ合いが中で暴れていたらしい。
後に続こうとしたニーナの足は、突然リュックから飛び出したシャロによって遮られた。で、今に至る。
「……ニーナ?」
「やば」とシャロが身を竦める。視線の動きや動揺、あまり馴染みのない呼びかけから、誰かが背後に立っていることは容易に想像がつく。
振り向くと、そこにいたのは土気色の顔を憎悪に歪めた、一人の若い女だった。
お世辞にも人並みの身なりとは言い難く、青黒い打撲痕を残した腕を惜しげもなく晒している。直射日光も相まって治りが悪くなりそうだ。
「ニーナなの? あんた。本当に……?」
「あー……、誰かと思えば。ご無沙汰してます。その後、調子どうっすか?」
「返して。お金、返してよッ! 全部あんたのせいなんだからね!!」
この女はつい先ほど前述した、『浪費癖が祟って違法な金融に手を出した苦学生』。つまり元バイト仲間だ。
といってもニーナにとっては誘蛾灯に集るハエ、借金漬けにして主人に献上するための獲物でしかないので、仲間なんて一時でも思ったことはないのだけれど。
「責任取って返して! 返せよ!」
「ねえねえ、どうしたの? 落ち着いて? あ、あなた目が悪いのね? じゃあいったん深呼吸しましょーか! ほら吸ってぇ~、吐いてぇ~」
慌ててシャロをひっ捕まえて身を低くしておく。放って置くと今にも無警戒に近付いて行きそうだ。腕の中でもお構いなしに鳴き続けているが、まあ共感性の低さが著しい。
尋常ならざる様子の女は化け猫には目もくれず……というか、ついぞ視線が合うこともなく。
誰がいるわけでもない虚空に向かって「返してよ」とただただ泣き言を繰り返している。
「あ! 居たよ、こっちこっち!」
「ダメだよこんなことしちゃ。今はまだ我慢しないと」
連れ合いと思しき男女数人がバタバタと駆け込んで来て、取り囲んで女を宥め始めた。その隙にニーナがひっそり路地から抜け出しても、追って来るような気配はない。
「ねえニーニャ、あの子……大丈夫なの? あなたを探してたみたいだけど」
「うーん、大丈夫か大丈夫じゃないかっていったら、まあ大丈夫じゃない、のかな? でもしょうがないさ。最近流行ってるんだって、突然目が見えなくなっちゃう病気」
「……どういうこと?」
「そのまんまの意味。めちゃくちゃ流行ってるっぽいよ」
嵐の街では現在、不穏な噂が流れ始めている。
ニーナは芸能にも政治にも興味がなくテレビを見ない(というか家にない)状態だが、エンリ王の動向を収集するためにアナログの新聞を取っている。
そしてあらゆる新聞社で仄めかされているのが、風土病の再来だ。
眼圧の状態からして症状としては緑内障に近しいらしいが、発症するタイミングが突発的で、原因も不明。
頭痛や吐き気、五感が鈍くなることもあるらしい。
ここ一週間で患者数は右肩上がりで増えており、幸い死者はまだ出てないが、感染症によって一万人以上が犠牲になった過去の事例を鑑みれば、一切の予断を許さない状況であることは明白。……らしい。
真偽のほどはさておいて、最近になって杖を突いて歩く若者が多いな、と思うことは確かに多くなった。
長らく気候的に安定して暖かかったから、はっちゃけた馬鹿共が羽目を外して怪我してるだけの可能性だって無きにしも非ずだけど。
なんせ向かいの歩道で伸びてる社会人風の男も、パッと見チャラついた感じだし。あまり同情を誘う風体じゃない。
「ふぇ~んコワい~。ねえねえ、ニーニャの彼氏さんとこ戻ろ? ここ、女の子が一人で歩いていい場所じゃないもの」
「彼氏って何の話? まさかあのオジサンのこと言ってんの!? やめてよ違うから! めちゃめちゃサブイボ立ったわ……!」
「あ、やっぱ? そーだよね、エンリさんがタイプだったら年上とはいえ、もうちょっと選びようがあるもん。あーんなきれいな顔見ちゃったら、そりゃハードルも爆上がりするってわけ! 仕方ない仕方ない!」
「わ、わかる……!? やっぱ動物にもわかるんだ、エンリ様の良さは……!」
この猫なかなか見どころがある。エンリ王といえば沈魚落雁閉月羞花、新進気鋭のアイドルが霞んで見えるほどの美貌だというのに学歴も優秀で、更に歳を取って衰えてないどころか年々それらが向上すらしている。我々とは生き物としての格が全く違う存在だ。
誰より国のために尽力しているし、誰より王の座に相応しい。
日々の努力が窺えて好感しかないし、そこらの成金と違って驕ったり偉ぶったりもしないから、エンリ・ラズリは神なのだ。
しかし記憶が正しければ、ニーナはシャロの前で「エンリ様♡」の話をした覚えはない。無意識に口走ったかもしれないが、リュックの中で擦り切れるほどマーカーした記事を読んだと考える方が現実的だろう。文字まで読めるとは末恐ろしい。
でも、彼女になら秘蔵のコレクションくらい見せてもいいかもしれない。
くだらないファッション雑誌は毎年決まった時季にエンリ王が表紙になるし、戴冠式後のパレードの写真が出回って、今ではコラージュされたグッズが無数にネット取引されている。多分グレーなやつだけど。でもこんな機会はきっと滅多にないだろうから。
「うんうんわかるよ! ね、だからお店に戻ろ? もうここじゃなければどこでもいいや。とにかくどっか、入ろ? なんか……なんか変な感じして落ち着かない!」
「いっちばん変なのはあんただけどね」
「も~そういうのいいから~~~! 危険を察知!」
「速ッ! 狩猟本能ってやつ……!?」
荒れ果てた往来をシャロがダッシュで駆け抜ける。
しかしまあ、そこかしこに脱ぎ散らかされた服や、コンビニ袋と空き缶で埋め尽くされた道路を見ていると、なんだか自分の家を見ているような微妙な気分になる。
いつのものとも知れぬ灰と吸殻の溜まった灰皿が、平置きした漫画雑誌の上に置かれていたら再現率100%だ。
大通りからロータリーがある駅前まで出ると、シャロはようやくその短い足を止めた。
人は多いがその分流れも速く、シャロが平然と喋っていても、誰も気にも留めない。
「ねえ! ニーニャ、ニーニャ! あれってクレープ屋さん!? ちょっと抱っこして!」
「う゛えェ飛び付くな」
「うんしょ。やっぱり変だわ、シャロちゃんイチ押しの鬼盛りクレープにぜんっぜん人が並んでいないなんて! それに車が通る道で寝たらいけませんって、最近の子は習わないわけ? まったく、ちょっと目を離してる間にこの体たらく! 王が見たらなんて思うものかしら!」
「あそこは二週間前ぐらいからあんな感じだよ。元々治安も悪かったしね」
「……ねえ、シャロちゃんの聞き間違いかもしれないから、今のもう一回言ってくれる?」
キッチンカーに近付くと、クリアガラスから生地を焼く様子がよく見えた。ボールから落としたクレープ生地を薄く伸ばして、その間にトッピングのイチゴを一口サイズに刻んでいる。
「あれがエンリ様の敷いた新しい政策なの。悪人に罰を与えてるだけだから、特に気にする必要はないわ」
「エンリさんの政策? どういう原理?」
「原理なんて知らないよ。でも全ての国民を政府が管理することに決まったの。犯罪とか格差を無くすためにね。政治家としても優秀なんてほんと、凄いなんて言葉じゃ収まらないけど、やっぱり凄すぎるよね」
あのファッション雑誌だってそうだ。国民の関心を引くために、我が身を削って苦手なメディア出演をしてくれてる。「行政の相談窓口についてを少しでも多くの人に知ってもらいたい」、というのはインタビューで話していた内容だ。
(それを、あんなゲロ共に邪魔されちゃ困るしね)
ただ環境に恵まれただけの低能が、行き場のない不満を発散したいがために国の在り方を扱き下ろし始める。
インフラも福祉も大変だけど必要なことは全部人任せにしておいて、なんて良いご身分なんだろう。ゴミと一緒に転がされて良い気味よ。
これまで何百回と国主導のサービスを受けておいて、たった一回、王様が前例のない試みをしようとしたらこれ。なんなの? 「詐欺だ」とか「辞任しろ」とか、どうしてそんな強い言葉で追い詰めようとするの?
「ちょっと待って! 国民の管理とか、そんなのを国会が承認したってわけ? うそでしょ? だってこれシステム? っていうか、けっこう超常的っていうか。あとやり過ぎっていうか! うそならうそって正直に言ってニーニャ!」
「嘘なんてついてないし。やり過ぎィ? そお? 今までがやらなさ過ぎただけじゃない? 馬鹿にはこれぐらいのお灸がいい火加減なんでしょ」
国は取捨選択しない。すべてを選んだ上で優先順位をつけないといけないから、救いようのない底辺まで救済措置が用意されて、結果勘違いした馬鹿が付け上がる。
でもどうせすべて人任せなら、最初からすべてを明かして、すべてを委ねて、すべてに期待をしないでいれば、そんな失敗はなくなる。
ニーナは”死にたくて”無差別に他人を斬りつけ、殺した奴隷の知り合いを知っている。
面会では「死にたいけど、もし失敗して後遺症が残ったら今よりもっと死ににくく、生きにくくなる。そうなるくらいなら他人に確実に殺してもらおうと思った」と言っていた。
自然界の動物は己の弱さをアピールしない。できるだけ強く大きく見せることで生き延びようとする。
恵まれない、弱者であることで利益を得ようとする生き物なんて人間くらいなもので、それはそれだけこの国が豊かである証明でもあるけれど、本当に助けが必要な「真の弱者」には措置が行き届いていないのが現状だ。
それが今の社会の現実。
こんな世の中でいいはずがない。
「それに、社会的弱者がそうでない人と平等に働けるようになれば差別や偏見が減って、人手も補えて、みんなが生きやすい社会になる。ていうか本来そうあるべきだったものが、ようやく正しい方向のレールに乗っただけじゃない。前の国王様は軍事力にばっか財源使ってて国民はひたすら損してたけど、これからはそうじゃなくなるんだよ。それって凄く良いことじゃない?」
「良いとか悪いとかの問題かなー、これ。なぁーんかおかしくない? だってこんなの市民の感情を軽視し過ぎてて民主主義に反するじゃん! なんか知らないけど病気の問題もあるのに、みんなにお願いして手洗いうがいしてもらわなきゃだめだよ! 絶対!」
「それも淘汰のうちじゃない? 人間なんて所詮自然物なんだし、自然の流れに逆らうことはできないでしょ。あと別に感染症じゃないし」
「それでもするの! 御託を並べるな! 性格悪いって思われるよ!」
「……なァーんだ。その辺の猿より賢いシャロなら、共感してくれると思ったのに」
ピピピピ。
アラームが鳴って、端っこがカリカリになるまで焼けたクレープ生地がひっくり返される。溜め息が出るほど見事なキツネ色。その上に、惜しみない量のホイップクリームが絞られる。
親の仇かってぐらい最後の一滴まで絞って、生地の半分がクリームの山々で埋め尽くされた。その上にチョコレートソースとキャラメルソースを併せ、デカデカと星が描かれる―――。
「……ん? んんん!? ちょ、ちょっと待って! ストップストップ! ああっ、なんで巻いちゃうの!」
「今度はなに?」
「今の見た!? 最後、あやしげな動きしてたとこ! なんかこう、こうやってパワーを宿らせて! あれ絶対いかがわしいやつ!」
「何言ってるの。あんまり変なことばっか言ってるとほんとに保健所行きだよ」
シャロはニーナの腕の中で、これでもかというほど真剣な面持ちをしてみせた。猫なので表情はさほど変わりないが、纏う雰囲気がスイッチで切り替えたように様変わりする。
「……あのねニーニャ。驚かないで聞いて欲しいんだけど、実はシャロちゃん鱗付きなの。知ってる? 鱗付き。動物になったり時間を戻したりできる人たちのことなんだけど、シャロちゃんがそれなわけ。もっと早く言えば良かったんだけど、黙っててごめんなさい」
「うん。まァ、薄々そんな気はしてたけど」
「…………んー、ちょっと反応違うかも。鱗付きだよ? コワーいキャー! 食べないでー! って感じになる、そういうあれなわけ! もしかして、もうクロッペから話聞いてた感じ?」
「いきなり喋ったからビックリしただけで鱗付き自体は見たことあるし。あ、ほら、そこにいる」
「えっ!? どこどこ!?」
今し方イチゴキャラメルクレープを受け取った、カップル客を指差す。
「あと、あの人も。あれもそうかな?」
それからクレープ屋の店員。そこでシャロを触りたそうに様子を窺う家族連れの子供も、親も、擦れ違う人間の大半が鱗付きだ。あくまでなんとなく、だけど。普通の人とオーラが違う。
「……え?」
「これも新しい政策の一つだよ。『全人類を鱗付きにする』。だから今更ビビるようなことでもないっていうか。ところでクロッペって誰すか?」
「え? え? うそ?」
「クロッペって誰?」
「あ、あぅあぅ……シャロちゃんはこねこなのにぃ~……!」