3 夜は明け、太陽は沈まない
巨大なワインセラーを有する修道院の地下室は、その実、邪竜の力を閉じ込めるシェルターとしての役割も兼ねている。
鱗付きたちはその多くが生きづらさを抱え、そして犯罪に手を染めている。
彼らの能力をセーブし民間の安全を護ることも、国から課されたレゴリス修道院の重要な務めであるのだ。
(まるで棺桶だ)
決して口には出さないが、地下通路は暗く、寒く、狭い。
無機質な鉄扉が無限に連なる様は、嫌でもそこに押し込められた誰かの可能性をありありとクロエに想像させた。
「こんにちは、キリヤ。わたくしです。鍵を開けてくださらない?」
タバサがとある扉をノックすると、暫くして内側から鍵の開く音がした。
開いて初めて、ドアそのものが異様に分厚いことにクロエは驚嘆の声を上げかける。すんでのところで飲み込んだのは、部屋の主が怪訝な表情でこちらを覗いていたからだ。
「紹介致します、クロエ。彼女は超常現象の力の持ち主。キリヤ・デイモスです」
やけに疲れた表情を浮かべた細身の女は、クロエに向かって軽く会釈をした。
とろんと垂れた目尻が特徴的で、赤いフチの眼鏡をかけている。かっちりしたブラウスにワイドパンツという、さながら役場の受付嬢のような恰好だ。
「初めまして、クロエです。レゴリス修道院の修道士です。よろしくお願いします」
「クロエ? 宜しくすることなんてないの。頭を上げなさい」
促され、深々と礼をしたクロエは「うん」と素直に姿勢を正した。
呆気に取られた様子でただただ一連のやり取りを見つめるキリヤに、タバサはわざとらしく咳払いをする。
「お食事中のところ悪いのだけれど、貴方お得意の魔法を見せていただきたくて足を運んだの。そうね、この距離ならワインを注ぐぐらいはできるかしら。やって御覧なさい」
ちらと垣間見えた部屋の内情は、パステルピンクと白を基調とした、非常に可愛らしくまとまったワンルームであった。
その中央、食べかけのパスタ皿が鎮座した卓上を指し示すタバサに、キリヤは弱々しく首を横に振る。
「……すみません、難しいです」
「そう。そうなの。急に無理を言ってごめんなさい。丁度喉が渇いたものだから、優しい貴方につい甘えてしまっただけなの。どうか気にしないで頂戴」
間違いなくキリヤに話しかけているのに、タバサの視線はどうだといわんばかりにクロエへと向けられていた。
月碑の封印は健在である……という励ましではなく。月碑を壊したところで世界は変わらない、その証明を成せて笑いが抑えられないといった風体であった。
(ならどうして、サンライズは時間を巻き戻すほど強大な力を得たんだ? まさか、その場に居たことが関係するのか?)
彼女についてを打ち明けようかクロエが迷っている内に、いつの間にワインボトルとグラスを手にしたキリヤが再び二人に近付いた。
先ほどタバサが「喉が渇いた」と言ったからだろう。言葉少なにグラスを手渡そうとする所作はやけに手慣れている。
「あぁ結構、もう貴方に用はありません。そうそう、最近セラーに鼠が入り込んでいるようで、ボトルの消費が激しいみたいなんです。貴方のお部屋は大丈夫かしら。もしお困りでしたら是非ご相談くださいね、キリヤ・デイモス」
ぎくりとキリヤの肩が揺れる。その隙に、タバサは同じように波が立ったグラスには目もくれず、反対の手に握られたボトルを引っ手繰るようにして奪った。
その酒ラベルにはクロエにも見覚えがある。嗜んだことはないが、我が修道院が醸造・大衆向けに販売しているものだ。
(……そんなに喉が渇いてたの? 言ってくれれば水を汲んで来たのに……)
コルクを抜いたタバサが横で豪快にラッパ飲みしているのを見ながら、クロエは最早彼女に何を言っても無駄なのだと悟った。
「けふっ……また伺いします、それまでキープしておきなさい。さ、戻りましょうクロエ」
「待ってタバサ。日を置いたら雑菌が湧く、飲み切った方がいい」
「もっと良いことを教えて差し上げましょう、お酒には殺菌効果があるんですって。なのでなにも問題ありません」
酒瓶を押し付けたタバサはくるりとスカートの裾を翻させた。歩く度ふわふわと上下するリボンは、まるで一つ一つが生き物のように彼女に引き付いて離れない。
高飛車で独裁的。慎ましさを美徳とする修道院の中には、タバサの在り様を良く思わない人間もいる。現にマザーがそうだった。
ただ、いつの間にか憎からず思っている自分に気が付く。
それが天性の人誑しゆえか、持ち前のカリスマ性がそうしているのかはわからないが、とにかく気付けば嫌悪は好意に裏返る。
そうやって彼女を教祖のように崇め、付いて回る修道士たちをイブは「カルガモちゃん」とよく笑っていた。
そう指摘されるまでクロエはぴょこぴょこ動き回るリボンのようだと思っていたので、言い得て妙だと感心したのを覚えている。
……つい昔の思い出に耽ってしまった。
とにかくその白くて小さな背中を追いかけようと、重厚な扉のフチに手を掛けた。
「ん?」
ぐんっ。すぐ後方に引っ張られるような感覚がして、その場でたたらを踏む。
「動かないで。あなたの髪が、服のボタンに引っ掛かったみたい」
「髪が? ならすぐに切って……」
ぼそぼそと囁くキリヤの声に振り返ると、不意に殺意に満ちた目とかち合った。
天高く振り上げられたボトルがきらりと光を反射する。
(殴られる―――!?)
反射的に身を捩ったクロエは、無理な体勢ながらも彼女の体をドンッと突き飛ばした。予測より痩躯は勢い良く吹っ飛んで、食卓付近に仰々しく倒れ込む。
「……なにが、」
今、一体なにが起きた?
割れたガラス片を茫然と眺めていると、背後でひとりでに部屋の鉄扉がバン!と閉まった。
「痛ってぇな、馬鹿力。動くなっつったろ」
カチカチカチ。
掠れ声が呻くなり、卓上の食器が互いにぶつかり合って音をかき鳴らし始めた。頭上にあるLED照明は不規則に明滅し出し、かと思えば突然プッツリと灯りが消え、部屋全体が暗くなる。
「力は使えないんじゃ……?」
「難しいって言っただけで、できないとは言ってないし。人の話は最後までちゃんと聞きましょうって、お宅のマザーは教えてくれねえのかよ?」
「うっ……」
ドアノブに手を伸ばそうとしたクロエは唐突な息苦しさから四肢の制御を失い、そのまま壁に背中を打ち付けた。
見れば、キリヤがその首を絞めるかの如くこちらに片手を翳していた。そのままテーブルの脚を頼りにふらふらと立ち上がっている。
もはや疑いようもない、紛れもなく超常の能力だ。
「……こんなことをして、どうする。タバサに見られれば、言い逃れはできない」
クロエは自らの首を掻きむしりながら、息も絶え絶えにそう言った。
「ハッ、それが目的に決まってんだろ。いくら酩酊した酒カスでも仲間がいなくなったら流石に気付くわな? そうなればお前らのボスは様子を見に戻って来る。そこで取引だ、人質と引き換えにわたしは自由を手に入れるって寸法。まあ、場合によっちゃ実力行使も辞さないがな」
「だめだ、タバサに手を出すな!」
「いーや出すね。お前に恨みはないが、お前のボスに恨みがある。見ろ、指の骨を関節ごとに折られたんだ。それも順番に。10本ともな」
「見ろ」とは言いつつ、彼女の手は忙しなく首を絞め続けている。本当は見られたくないのだろうか。女にしては少々無骨な感じもするが、特に目立った外傷は見受けられない。
「実験だなんだって声帯を切られたし、目に液体洗剤もかけられた。おかげでだっせえメガネを買って貰えたよ。象が踏んでも壊れないらしい。ホントかよ。潔白ぶってるヤツなんて大概ロクでもないから信用ならんな」
キリヤの手が何かを摘まみ上げるような仕草をすると同時に、パスタ皿の中からフォークが宙に浮かび上がった。
当時の凶行を再現するかの如く荒々しく空中を暴れ、飛び散ったミートソースが頬を掠める。
「待って、タバサは理由もなくそんなことは、しない。それは、力を抑えるためだ」
「抜かせクソガキ、理由があってもしちゃ駄目なんだよ。ここは悪魔の巣窟か?」
「わかった、確かに、貴方の怒りは尤もだ。なら一度話し合いの機会を設けよう。タバサは、ああ見えて人見知りだから、初対面だと緊張して、上手く話せないことがある。意外に思うかもしれないが、そういう一面もあるんだ。貴方はまだ、タバサのほんの一部分しか知らない」
「あのさぁ、マジで何の話? それ。超どうでもいいんだけど」
「だから……、なんの話、だっけ?」
はてと首を傾げようとするも、異能の力で身動きを封じられている。眉を顰めてひたすらに狼藉に耐えていると、やがて痺れを切らしたキリヤがふっと手を下ろした。
カチャン。物悲しい音を立ててフォークが落下すると、ようやくクロエの気道にも正常な量の酸素が供給されるようになる。
「流石に遅過ぎるな……アイツ。酔っ払って廊下で寝てんのか?」
(……ままあり得る)
今しかないと判断して、クロエは咳が止むのも待たずドアノブに飛び付いた。呆気なく開いた扉の先は無人で、誰の姿も、なんの気配も感じられない。
「タバサ……?」
廊下を見渡して、唯一開きっぱなしになっていた扉の先を覗いてみる。
あるのは備え付けの家具一式と、伏せった写真立て。それと無数に切り傷が走った壁だけだった。キリヤの部屋のような生活感は微塵も感じられない。
『今日のお天気です』
突然テレビの電源がついたかと思えば、入口に凭れ掛かるようにしてキリヤが手を翳していた。
一瞬期待してしまった己を恥じて、クロエは「便利な能力だな」と淡々と吐き捨てる。
「いや、この部屋時計がなかったから…………おい、これ見ろ」
「タバサを探すのが先だ」
「いいから見ろって!」
渋々テレビ画面に視線を向ける。淡々と読み上げるアナウンサーに馴染みはない。
しかし、そこには明らかにおかしな点があった。
(……『4:55』? もうそんな時間?)
左上のデジタル時計が示す時刻だ。
放送事故かと一瞬首を傾げたが、すぐにそれが早朝の4時であることを理解する。途端に全身が総毛立った。
見知らぬアナウンサーが続けざまに言う。
『虹の町は終日晴れ、波も低く気温も穏やか。絶好の虹架け祭日和ですね。といっても朝はまだまだ冷え込みますから、ジュラ山の景色をご覧になる方は十分暖かくしてお出かけください」
二人は何を言うでもなく顔を見合わせた。
『今日が絶好の虹架け祭日和』ということは、これから虹架け祭が始まろうとしている事実に他ならない。
今日の朝のように、また今日の朝が始まる。
画面に視線を戻すが、時刻は依然として早朝のままだ。天気予報から一転して水揚げされたばかりの鮮魚の映像が流れている。毎週末に開催される朝市のものだろう。
ころころと移り変わる話題に、刻々と過ぎゆく時間の進みを実感させられる。
「サンライズを止めないと……」
「なんだって?」
「キリヤ・デイモス、力が使えるのなら手を貸して欲しい。協力してくれるなら貴方の要望を飲む」
「はあ? なんでウチ、ぎゃんッ!?」
言い終える前にクロエはその華奢な肩を思い切り突き飛ばした。案の定呆気なく地に転がった彼女の眉間に、すかさず銃口を突き付ける。
「言っておくが、今日がまた繰り返される保証はない」
「…………わかった、わかったから! あ”~もうっ、お前らってほんと野蛮。ほんとキッショい!」