1 夜は明け、太陽は沈まない
―――その昔、世界を瘴気の渦に巻き込んだ邪悪な竜がいた。
―――人々はかの邪竜に永く脅かされていたが、上位世界より降り立った救世主『ヨシュガラ』によって、暗黒の時代にとうとう幕が下ろされた。
―――瘴気による世界の破滅を防ぐため、邪竜は灼熱のみなもととなり、『ヨシュガラ』は災いを防ぐ静謐となった。
―――それが、夜明けのはじまりである。
「いーい? クロエ。知らない人に話しかけられても絶ッ対に付いて行っちゃダメだよ。車に乗るのもダメ。もしネチネチ誘われたり体を触られたりしたら、助けて~! って大声上げて、すぐに逃げるんだよ」
「うん。”いかのおすし”、でしょ」
「わかってる」と頷いてクロエは胸を張ってみせた。相対するイブはそんな幼馴染を苦々しく笑い、腰元のホルダーによく手入れされた小型ピストルを入れてやる。
ここは辺境の地、虹の町。その町はずれにひっそりと居を構えた礼拝堂、『レゴリス女子修道院』である。
救世主ヨシュガラを信奉する信者が集い、親と暮らせない孤児や学び舎に通えない子供たちを招き入れ、知識と教養を育む場として広く開放している。
かく言うクロエとイブたちも似たような身の上だ。
物心つく頃よりここで知り合った孤児はみな昔からの馴染みであるが、中でも現在まで寝食を共にするほど深い関係にある付き合いを、彼女たちは便宜上”幼馴染”と呼んでいる。
「ゴメンね、クロエ。本当はぼくも一緒に行きたいんだけど、タバサが離してくれなくて」
「大丈夫、お祭りの準備で忙しいのはわかってる。私も力になりたい」
「……タバサはクロエの買い出しに反対してたけどさ。結局、社会と関わるのって、要は自分の価値を高めることに他ならないと思うんだよね。避けて通る方が不健全だ。そうは思わない?」
イブは意味ありげに黄と赤のオッドアイを眇め、目の前の幼馴染を蝶よ花よと慈しむ修道院の面々に思いを馳せた。
世の中には危険が満ち溢れている。
しかし邪竜が暗躍していた暗黒時代もかくやというほどの保護が、とっくに成人した大人に必要かというと、とてもそうは思えなかったのだ。
「かわいい子には旅をさせよっていうしね」
当のクロエはぼんやりとした顔で、いかにも不思議そうに小首を傾げている。
まるで散歩を待ち侘びる飼い犬だ。傾聴もほどほどに、ひたすらにイブのゴーサインを待っている。
「……ま、いっか。そうそう、大丈夫だと思うけど森の方には行かないで。こ~んなおっきいドラゴンに食べられちゃうから」
「わかってる」
「ん、行ってらっしゃい。気を付けてね」
「行ってきます」。新品のトランクケース片手に外へ出ると、雲一つない青空が広がっていた。朝早くということもありまだ少し肌寒いが、顔に当たる日差しは温かい。
町の中心部へ向かう道すがら、きゃっきゃと甲高い笑い声と共に、今にも踊りだしそうなほど元気な子供たちと擦れ違う。その中の一人がクロエの方を見て、眩しそうにぐっと目を細めた。
レゴリスの構成員たる”潔白”を表明する白制服と、襟元の徽章。つまり身分証明だ。恐らくはそれが太陽に反射したのだろう。
不思議と誇らしい気持ちでいっぱいになって、クロエは深く息を吸い込んだ。
(焼きたてのパンの匂いだ)
天気予報によると今日は終日快晴。
絶好の『虹架け祭』日和だ。
虹の町のシンボルでもあるジュラ山は、日の出のころに山頂部分にのみ朝陽を受け、山と山を繫ぐ光のアーチを架ける。この光り輝く橋こそが、ここが『虹の町』たる所以である。
朝焼けに照らされたヘラクレイデス岬は薄らと霧がかり、海は静か。桟橋にいくつも留まった漁船を含め、絵画めいた景色を見せる。
虹架け祭は、そんな”黄泉への片道”とも評される山々の景色に祈りと感謝を捧げる伝統的な催しだ。
年に一度のこの機に絶景を一目見ようと、多くの観光客がこの田舎町に集う。
喧しいお祭り騒ぎは夜が明け、そして日が沈むまで続くのだ。
「いらっしゃいませー」
何度も復習した甲斐あって、迷うことなく中心部にたどり着く。
イメージトレーニング通り真っ先に青果店を訪れたクロエは、ポケットに押し込んだ買い物メモを取り出した。イブの案外神経質そうで、几帳面さをうかがわせる文字の羅列と対峙する。
(デザートに必要な果物は……)
一人で町に赴くなんてことは、滅多にない機会だ。多くはイブに先導されて社会科学習じみた指南を受けるのだが、それだって月に一度あれば多い方である。
門限を破ったことはおろか、とりわけ心配性な幼馴染を慮り、遠出したことすらない。彼女はそれを窮屈だと感じたことはなかった。
バサバサッ。
翼の音と共に紙面に影が落ちる。
店先に立ち竦んでいたクロエが顔を上げると、フェンスの縁からこちらを窺う一羽のカラスと目が合った。
「鳥さん、こんにちは」
クロエはおもむろにカラスに向けて手を伸ばした。それはこの指留まれ、というより、その艶々とした羽根に触れようとしての行動であった。
きら、と徽章が陽の光を反射した途端、黒塊は大仰なほどの羽音を立てて飛び立ってしまう。
驚いた彼女は咄嗟に身を引くも、手にしていたメモをうっかり放してしまった。風に舞った紙きれは、吸い込まれるようにして路地裏へと消えてゆく。
「あ」
すぐに追いかけるべきだ、行ったこともない道に出て迷ったりしないだろうか。しかしこのままではポイ捨てと勘違いされてしまう―――。
逡巡する間にも不安は募って、クロエは無意識にトランクケースを抱え直した。すぐにでも戻って来るつもりで、そっと路地裏を覗いてみる。
どうしてか、先が見えないほど暗かった。
「……う。怖いよう」
「誰かいるの?」
雑踏に混じってあえかな泣き声が聞こえてきて、一歩、暗がりへと踏み込む。
「暗いよ、暗い」
「大丈夫、こっちは明るい。出ておいで」
もはや左右の感覚すらわからなくなるほど辺りが闇に包まれる。
進めば進むほど子供の声は大きくなっていくのに、その姿はどこにも見当たらない。否、居たとしても暗過ぎて見つけられないかもしれない。それほど光と喧騒は遠のいていた。
「怖いよう」
「なにも怖くない。今日は特別な日なんだ。みんなで歌を歌って、踊りを踊る。そしてご馳走を食べる日」
普段、聡明な幼馴染たちが子供たちとそう接しているように、クロエは努めて穏やかに声を掛け続けた。
ご馳走といえば、イブの焼いたチェリーパイは絶品で、毎日だって食べ飽きない。しかし彼女は忙しい身なので、その願いは叶わない。彼女の負担になるべきではない。買い出しの手間くらいは担いたい。もっと自分を頼って欲しい。もっと自分と話して欲しい。もっと……。
気付けば泣き声は止んでいた。
怖くなくなったのなら良かった。そうクロエが踵を返そうとした時、彼女はふと自分がすっかり方向感覚を失っていたことを思い出した。
どこから来たのかさえ、皆目見当がつかない。
「……こっちに灯りが見える」
先ほどの子供の声だ。見回したが案の定、おおよその居場所さえ掴めない。
(知らない人に、付いて行かない……)
クロエは一瞬イブとの約束を思い出したが、相手は子供。それもこれほどのっぴきならない状況ならば、他に打開の手立てはないだろう。
そう判断して、彼女は「どっち?」と暗闇に耳をそばだてた。
「こっち。扉を開けて、ここから出て」
「扉?」
「きっと出口だよ」
言われるがまま周りを手探りで探ると、指先がコツ、と壁に触れた。しかし押しても引いてもビクともしない。
「早く開けて」
「やってるけど……、重くて……」
「えぇ、あなたって本当に修道士? そんな軟弱でいいの?」
「失礼な……! 私は、レゴリスの、修道士、だ……っ!」
自分にも出来るのだと証明したい一心で、力いっぱい壁を押す。
ようやく僅かずつ扉が動き出すと、錆び付いた金属扉が無理にこすれて、ギィギィと不快な音が轟いた。
「わっ」
いよいよ出口は開放され、踏ん張った体勢のままクロエは外に頭から放り出された。柔らかな草木に突っ込み、幸い大した衝撃を受けずに済む。
驚いたことに、体感ではせいぜい十分ほどしか経っていないと思ったが、あれほど燦々としていた陽は今や沈みかけていた。
鬱蒼とした木々に囲まれ、一番星が夕空に瞬いている。
「ありがとう、外に出られた」
そう言って扉の方を見遣ったクロエは、次の瞬間にはサッと顔を蒼褪めさせた。
出口の押し扉なんてどこにもない。あるのはどこまでも深い森と、粉々になった石碑だけ。
それは、主たるヨシュガラが邪竜を封印した際に用いたとされる、”月碑”と呼ばれるまじないだった。
(昔、イブとタバサと迷い込んだ、『竜の眠る森』で見た覚えがある……)
それこそ、その後三人でこっぴどく叱られたことまで鮮明に。
だがどうだろう、思い出の中の月碑は見るも無残に壊れている。否、壊されている。
「いえいえこちらこそ。封印を壊してくれてありがとう、おマヌケさん♡」
全身に付いた土埃を払いながら、見知らぬ女が隣で嗤った。
(邪竜、か?)
竜は一見して、人間とそう変わらない見た目をしていた。
年齢はクロエと同じくらいだろうか。20代前半くらいで、三つ編みに編み込まれたツインテールがさっぱりとした気質の印象を受ける。
木漏れ日を受けて反射する白い髪が邪竜というには妙に神秘的で、思わず息を呑んだ。
「お礼に家まで送ってあげたいのはやまやまなんだけど、あいにく足がなくって。ダーリン、悪く思わないでね♡」
「足がない? 私には貴方の足があるように見える」
「……えーっと。ここで言う足っていうのは、移動手段の話。車の用意がないってこと。ていうかあなた、よく変わってるって言われない? もちろん馬鹿じゃないのって意味で」
女は冗談の通じないクロエにこれ見よがしに肩を落とし、踏みしめていた石碑のかけらを藪の中へと蹴飛ばした。
木の根にぶつかったそれが軽い音を立てて跳ね返るのを見て、クロエははっと我に返る。
「お前は誰だ」
ホルダーからピストルを取り出すと、女はうんざりした様子で両手を上げた。
「わあそれホンモノ? やめようよ暴力なんて。お互いの意思を尊重して話し合いで解決しよう? 今までそうやって和解してきたじゃない。こっちはサンライズ。そっちはルナ・リア。でしょ?」
「動くな。動くと撃つ」
ルナ・リア―――静謐、夜の支配者、太陽を滅する者。我らが主。
修道院内でもめったに使われない暗喩だ。対を成す存在である邪竜が何故、そんなことを?
サンライズへ銃口を向けたクロエの指が、引き鉄にかかる。
「なんでそう怯えるかな、今日は特別な日なんでしょ? こっちはこっちで勝手に楽しむから水差さないでよ。修道士も早く帰ったら? 楽しみにしてたんでしょ、アップルパイ」
「ああチェリーパイだっけ? まあなんでもいいや」恐れた素振りもなく続け、サンライズは掲げていた右手を軽く握り込んだ。カフェでウェイターを呼ぶのと同じくらい気軽に、且つ手軽に指を鳴らす。
パチン。
そうして銀の弾丸が放たれる前に、クロエの意識は深い深い闇へと落ちていったのだった。