毒林檎を、私に
毒林檎を、私に
(1)
時間は正確だ、世界中の何もかもが狂ってしまったとしても、きっとこれだけは、いつだって淀みなく役割を果たす。
そうして時の流れる音に耳を傾けながら、ノートパソコンの青白い画面と顔を突き合わせていると、携帯がけたたましく鳴った。
顔には出さなかったが、音の大きさに驚く。ボリュームの設定を見直す必要がありそうだと、時津胡桃は考えた。
ディスプレイには、担当の二文字。
多分、映画の話だろうと、一呼吸おいてから応答のボタンを押す。
「はい、時津です」
そのように設計したみたいに、勝手にキーが高くなった自分の声がどこか不気味だった。
「あ、もしもし、お疲れ様です。雨宮です、今お時間宜しいですか?」
「あぁ、お疲れ様です。大丈夫ですよ、どうされました?」
こんな時間に、という言葉は飲み込む。
私たちのような人種にとって、昼夜の概念はあまり意味を成さない。別に深夜帯でもないので、問題はないのだ。
「『一口分の毒林檎』の映画に関するお話なんですが――」
ほらきた、と内心で呟く。
『一口分の毒林檎』は、私が少し前に書き上げた作品で、運良くちょっとした賞を受賞した。
そのときの審査員のお眼鏡に適ったことや、ちょっとしたツテのおかげで、これまた運よく映画化まで話をこじつけていた。
ただ、ここで断っておきたいのは、自分は別にこの作品を世の中に広く認めてもらおうと思って仕上げたわけではないということだ。
受賞も、映画化も、全て私の意図しない場所で話が進んだ。
もちろん、こちらも了承したうえでの話だが、まさかこんなふうになるとは思っていなかった。
少しばかりの実力と、大きな運、そして、熱心な担当に恵まれたおかげともいえる。
私が、この『一口分の毒林檎』を手に掛けたのは、ひとえに自分自身の過去と、それを引きずってばかりいる自分の影を体内から排出し、叩きのめしてやろうという思いからだった。
そして、ぼろぼろになった過去を見下ろし、「何だ、大したことはなかったな」と笑い、形ばかりの墓標を立てて、供養してあげたかったのだ。
こんな大事になるなんて、想像もしていなかったというのが、自分の正直な感想だ。
トントン、と電話を片耳に当てたまま腕を組み、指先で自分の肘を打つ。そうして、雨宮の言葉の続きを聞いていた。
「ヒロインのりんご役のオーディションの話、覚えてますか?」
「はい、何となく」
原作者とはいえ、映画のことにまで口を出すつもりは時津にはなかった。
確かに、執筆するうえで、ヒロインのイメージの元にした女性はいるが、だからといって、その人に演じてもらおう、などとは微塵も思っていない。
何度も言うが、この作品は自分の過去の清算に近いものなのだ。
趣味同然の記録が、勝手に評価されて、一人歩きを続けているに過ぎない。
時津のそういう淡白さを知っているためか、雨宮は彼女の反応を受けて、安心したように続けた。
「良かった。今日、応募されている方の名前をチェックしてたんですけど…」
不自然に言葉が途切れる。何かを考えているというより、溜めているという感じだ。
「聞いたら、驚きますよ」
とっておき、というふうな言い回しが回りくどくて面倒だった。
「手短にお願いします。今、執筆中なので」
「あ、それはすいません。そうですね、時間的にも時津先生が集中している時間ですもんね」
それが分かるなら、なぜ今かけてきた、と思わないでもなかったが、彼女には世話になっている。多少は我慢するべきだ。
雨宮は、一つ小さな咳払いをすると、一瞬だけ異様な静けさを生み出した。電話が切れたのかと思って、ディスプレイを確認したとき、雨宮がぼそりと呟いた。
「なんと、花月林檎がオーディションを受けるそうなんですよ」
「え?」
「驚きました?わざわざ連絡があったそうで…」
開いた口が塞がらず、時津は気持ちを落ち着かせるためにベッドのそばと扉の間をウロウロとする。
無言のままの時津を不審がってか、雨宮が怪訝な口調で尋ねてきた。
「あれ、もしかして時津先生、花月林檎をご存じないですか?」
「その先生ってのは、やめてください」
混乱して、ついついどうでもいいことに八つ当たりしてしまう。
雨宮は律儀に謝罪しながら、気まずそうに口をつぐんだ様子だったので、さすがにこれは失礼だったと思い直し、こちらから声を発する。
「…知っています。有名な女優でしょう?」
「はい、そうです。凄いことですよ、あの花月林檎がわざわざ応募してくるなんて…」
「そうですか…?」
素人のような反応続ける時津に、雨宮もわずかにムッとした調子で反応する。
「そうですよ。だって、時津さんは…」
再び、無言。これは嫌な無言だと、鈍感な自分でも肌で感じた。
言いにくそうにしているので、こちらから続きを言ってやろうと、時津が口を開く。
「三流小説家ですからね」
映画の話なんて、奇跡中の奇跡だったのだ。
「あ、いえ、そのぉ、違います。ええっと…」
「いいんです。自分の分は弁えていますから」
「す、すみません」
だから、良いと言っているだろうに。
苛々した気持ちのまま、カチカチなる時計の針を目で追う。だが、頭は今時間のことなんて忘れていた。
胸の辺りが、じゅくじゅくと傷んだように疼いた。
多分、かさぶたが剥げたのだ。
いつまで経っても癒えない、未練と言う名の古傷だ。
沈黙の長さに、居心地の悪さを覚えたのだろう、雨宮が取り繕うような調子で言った。
「それにしても、どうしてなんでしょうね。花月林檎がわざわざ連絡を寄越してくるなんて」
こんな三流小説家の作品にね、と自分の中だけで補足しながら、時津は相手に見えるはずもないのに肩を竦め、首を振った。
「性格が悪いんでしょ」
「え?」
「何でもない」
時津は、詳しい話はまた明日聞くと言い残して、電話を切った。訝しんでいる様子の雨宮だったが、有無を言わさぬ時津の雰囲気に、大人しく引き下がったようだ。
大きなため息と共に、チェアに腰を下ろす。冷や汗が浮かんだ額に手を当ててから、祈るように両手をすり合わせる。
「何のつもりなの…花月」
――…私のことを、覚えていないのか。
いや、どうだろう。
分からない…。
花月とは、七年ほど前に、あの肌寒い夕暮れが忍び込んでいた学校の片隅で話して以降、まともに言葉を交わさずに別れたままだった。
時間という無慈悲で、平等な荒波が、記憶と一緒に飲み込んでくれると思っていた。しかし、それも全て甘い考え方だった。
「…消えないなぁ」
ため息と同居していた言葉は、吐き出されるや否や、宙に霧散し、呆気なく静けさに溶けて消えた。
(2)
映画監督に、原作者の自分も同席してほしい、と頼まれたときにちゃんと断れば良かったのだ。
自分の立場なんて、無視して、首を横に振る。
たったそれだけのことが出来なかった。
花月林檎は、昔と変わらず人好きのする笑みをたたえたままで、そこに立っていた。
ただ、髪型は昔のようにくるくる毛先を巻いたものではなかった。肩甲骨辺りまで伸びた茶色の髪は、サラサラとした肌触りが伝わってくるようだ。
彼女が入室してきたとき、時間が止まったかと思った。
彼女が来ると知っていたのに、実際、目の当たりにしなければ、それを現実として考えることが出来ていなかったのだろう。
『一口分の毒林檎』でヒロインのりんごは、復讐のために他人を陥れる、毒女として描かれている。
男女問わず、その魅力で翻弄し、騙し、利用し、不幸に陥れる。
純粋無垢で、虫も殺さないような顔をして、その実、ファムファタルとしての能力を遺憾なく発揮する。
もちろん、自分の手は汚さない。
体内に仕込んだ毒は、気付かないうちに相手を侵し、支配し、暴走させ、自己崩壊の一途を辿らせる。
この作品は、最終的にヒロインが、かつて自分の求愛を拒んだ女の元に向かう場面で幕を閉じる。
ヒロインのモデルは、目の前の彼女だ。
少女然としたあどけなさを失わず、それでいて華やかさを確かに育てつつある花月は、この作品の意図にどこまで気付いているのだろうか。
少なくとも、何も思っていないはずがないのだが、彼女の瞳は邪気なく、くるくるとして星みたいに輝いているばかりだ。
まさか、本当に偶然なのか…?
実際、彼女の視線は一度もこちらに向けられず、まるで関心がないように思えた。もちろん、わざとそうしている可能性もあるだろうが、そんな面倒なことをする意味が分からない。
審査員四人を前にしても、全く動じる気配のない花月は、用意された台詞を、たっぷり感情を込めて読み上げる。
目の前にいるのは、私が書いたヒロインそのもの、紛うことなき毒りんごだった。
これには審査員たちも、感心した様子で視線が釘付けになっており、結果は火を見るよりも明らかであった。
指定の台詞を読み終わった後に、監督が時津のほうを横目で覗いて、低い声で告げた。
「時津さん、何か読んでほしい台詞はないかい?」
急に名前を呼ばれてドキリとする。
動揺を悟られないよう、口をきゅっとつぐんで頷き、頭の中だけで『りんご』の台詞を書き起こす。
台本なんて、見る必要もない。
『りんご』は私であり、彼女でもあるのだから。
ちょうどいい台詞を思いついて視線を花月に向ける。そのとき、初めて彼女と目が合った。
七年の時を超えて、あの日の花月林檎と邂逅を果たす。
キラキラした瞳に広がった外宇宙は、どこまでも深く、私を見透かそうとしていた。
さらりと、伸ばし放題の黒髪に触れて、瞳を閉じる。
冷静さを保つための行為のはずだったが、かえって時津に余計な勇気を与え、無茶な決断を許してしまう。
「あの、花月さん」
久しぶりに舌の上に乗せた彼女の名前は、小さく震えていた。
「はい、どうされましたか?」
小首を傾げる仕草が、相変わらず様になる。そして、仮面を被るのも上手なままだ。
「この本ですが、最後まで読み終わりましたか?」
「ええ、もちろんです。ヒロインが、高校時代に拒絶された女の子の元へと向かうシーンで終わりますよね」
誰がモデルか気付いていないはずもない。それなのに、まるで動揺を見せない。
――これは、私たちの物語だ。
そう口にしそうになるも、何とか耐えて、花月との会話を続ける。
「はい。そこで、ご質問なんですが…」
台本に視線を落とすフリをしてから、上目遣いで彼女を見上げる。すると花月は、再び小首を傾げながら、「どうぞ、何でも」と小声で答えた。
『何でも言ってみなよ、私に分からないことなんてないから』
可憐な仕草と表情の向こう側で、あの頃の彼女が不敵に微笑んでいるような気がして、時津は挑みかかる気持ちで問いかけた。
「ヒロインであるりんごは、この女の子に再会したとき、初めに何と口にすると思いますか?」
ぴくり、と花月の眉が小さく反応した。
当然、そんな物語は本の中にはないものの、探す必要もなかった。
エンドロールの続きは、今目の前で行われているのだから。
花月は、難しいですね、と困ったように微笑んでから、悩む姿を装うために可愛らしい唸り声を漏らし、顎に人差し指を当てていた。
迷う必要なんてないでしょ。
アンタしか知らない、アンタの言葉だ。
時津も含めた全ての審査員が、次の彼女の発言を見守る中、ようやく思いついたというふうに花月は可憐な微笑を浮かべた。
あの頃にはしなかった、品のある笑みだ。
そこに、確かな時間の流れを感じる。
「そうですね…、私が『りんご』として演じるなら――」
視線が花月林檎に注がれる。
その眼差しに怯むどころか、むしろ恍惚さえ覚えていそうな艶やかな笑みで、花月ははっきりと告げた。
「――久しぶり、元気してたぁ?」
手首だけを小刻みに動かす、思い出の中の花月がよくする仕草。
「って、嫌味っぽく言ってあげますね」
悪戯っぽい口調ではあったものの、花月の表情だけはすっかり大人のものだった。
じんわりと、あの日の夕暮れ時に、彼女に噛まれた鎖骨が熱くなって、私は吐息を漏らすのだった。
(3)
オーディションが終わると、すぐに時津は退出した。
頭が混乱していたため、珈琲でも、と思って自動販売機のほうに向かったのだが、たまたますぐ後ろから追ってきていた監督に声をかけられる。
「やあ、時津さん。どうだった?」
気さくな女性だというのが、最初の印象だった。
若くして、そこそこ名の知れた監督だというのに、それを鼻にかけるような真似もしない。まあ、見栄など張る必要もないのだろう。
能力も成果も評価されている人間は、焦りなどない。自分を必要以上に大きく見せる意味など、どこにもないのだ。
「正直なところ私には、演技のことは分からない、というのが本音ですね」
肩を竦めて、芝居がかったふうに答える。
「はは、そうかもね。私にも文学めいたことは正直さっぱりだ」
でも、と彼女は前置きしてから、流れるような仕草で時津が買おうとしていた珈琲を購入し、手渡してきた。
あまりにスマートで、洗練された自然な動きに、思わず言葉を失ったまま缶を受け取ってしまったが、すぐに気付いてお礼を口にする。
「あ、ありがとうございます」
片手でそれをいなしながら、彼女は続けた。
その仕草だけで、随分モテるだろうな、という評価に変わる。
「花月林檎だけは別物だったろう?」
唐突に胸の中のしこりのような人物の名前が出てきて、一瞬だけ言い淀む。
「さすがとしか言いようのない演技だったが、ヒロインの名前も『りんご』なのは、どこか運命めいたものを感じるな」
「そう、ですかね」
「やはり、天賦の才と、運を持っているのかな。彼女のような人種は」
天賦の才や、運という言葉で片付けるのは少々癪だったため、何となく軽い調子ではあったものの反論してしまう。
「どうでしょう、私は、彼女からはそれだけでは片付けられないものを感じます」
「ほう」と興味深げに監督が不敵な微笑を浮かべた。
「あ、すいません。偉そうなことを言ってしまって…」
「いや、いいんだ。私も、同じようなものを感じることがある」
「花月…林檎にですか?」
珈琲のプルタブを引き抜きながらそう尋ねると、彼女は愉快そうに笑い、首を軽く振った。それからじっと、時津の目を覗き込むと、周りには聞こえないような小声でこう言った。
「いいや、君にだよ。時津胡桃さん」
「え?」と目を丸くしてから、すぐにからかわれたのだと思った。「またまた、御冗談を」
「冗談じゃないさ。今回の作品だって、ただの創作物ではないと思ったから、話に乗ったんだよ」
やけに勘が鋭いな、と反射的に眉間に皺を寄せる。その直後、監督が、「君は分かりやすいな」と呟いたことで、今度はカマをかけられたのだと察した。
「何のことか分かりませんけど…、私は大した人間じゃありません」
「おや、私の目を疑うのかい?」
「自分を信じていないだけです」
「そうか」と考え込むような仕草と共に口を閉ざした彼女は、良いことを思いついた、と言わんばかりに掌を打ってから、「今晩、君の才能についての話を肴に、飲み明かさないかい?」と言った。
随分気障だが、食事に誘われているようだと推測する。
「もちろん、無理にとは言わない」
パチリ、とウインクする姿が様になっている。
大人の魅力とはこういうものかと感心しつつ、自分の立場も踏まえて、どうするべきかと時津は頭を悩ませた。
正直、そういう面倒なことには関わりたくない。
だが、今後作家としてやっていくなら、パイプを作っておくことは決して無駄ではない。
…幸い、相手は女性だし、モテるから相手にも困らないタイプだろうし…。
いきなり取って食われる、ということは起こらないだろう。
そう結論づけて、時津が『喜んで』と返事をしようとした瞬間だった。
「監督ぅー。お久しぶりです」
甘ったるい、間延びした口調が監督の向こう側から聞こえてきて、二人は無意識のうちに顔をそちらに向けた。
茶髪に染めたセミロングを揺らし、それに連動させるような手首の動きをさせているのは、花月林檎だった。
どうして彼女がここに、と目を丸くし、口の中だけで彼女の名前を呼んだ時津を置いて、二人は親しげに話を始めた。
「やあ、オーディション、良かったよ。花月君」
「光栄です、ありがとぉございます」
閃光が散るみたいに破顔した花月を見て、監督は思い出したふうに時津を紹介しようとした。
「あ、花月君。もう知っているとは思うが、彼女が時津胡桃さんだ。まだ最近売れ始めた若手だが――」
「はぁい、存じ上げてますよ」
ドキリと、心臓が拍動する。
同級生です、と言われても、何も困らないはずなのに、何故か緊張してしまう。
しかし、花月が口にした言葉は、時津が予想していたものとは全く違うものであった。
「だって私、胡桃先生のファンですもぉん」
そう言って彼女が取り出したのは、時津の処女作であった。
花月の発言を真に受けた監督は、感動したように目を丸くし、声を高くしたのだが、廊下の奥のほうから別のスタッフに呼ばれて、後ろ髪引かれる様子で立ち去っていった。
去り際に彼女が、「さっきの食事の件、考えておいてくれよ」と念押ししたため、曖昧に笑って返事をする。
突然降って湧いた再会と、会話の機会に、時津は気まずくなって意味もなく缶を見つめた。すると花月は、何でもない様子で話の続きを始めた。
「あの、サインとかって貰えますか?」
「は?え、えぇ…」
その他人行儀な調子に、まさかとは思っていたが、花月が自分のことを忘れている可能性が浮上してくる。
いや、私なんて、たかが高校生の頃の同級生だ。勝手に思い出を深刻化して、彼女がいつまでも私のことを覚えているなんて思っていたのは、ただの思い過ごしだったのか。
自分の勘違いだということが分かると、急に恥ずかしくなってきた。
花月のことを思い、その過去を整理するために生み出した、『一口分の毒林檎』。
私は、それを読んだ彼女が、自分の元に訪れてはくれないだろうか、と心のどこかで期待していたのかもしれない。
自分の逞しい妄想力で、赤面していた時津は、花月にサインペンはないかと尋ねられて適当に首を振った。
「じゃあ、そこの控室のやつを借りましょう。ね?」
「あ、はい。分かりました」
どうしよう、元同級生ですと名乗るか?
いや、何だかそれも痛々しい。
どうせ彼女とは、これからの撮影のために一緒になることもあるだろう。
まだオーディションの結果も出ていないというのに、フライング気味に時津が判断し、控室のドアを開けたとき、不意に強い力で両肩を何かに掴まれ、わけも分からないうちに、背中を壁に押し付けられた。
鈍い音と、くぐもった衝撃音。
息が軽く詰まるも、すぐに酸素が復活する。
直後、パチン、という音と共に部屋の照明が消え、廊下へと繋がる扉の小窓から漏れてくる光以外、何もなくなった。
薄明かりが、唐突な暗闇と押さえつけられているという事態に驚き、怯えている自分の顔を照らし出す。同時に、自分の目の前で薄笑いを浮かべていた、花月林檎の毒々しい表情も。
桜色の唇を軽く開けて、彼女が息を吸ったのが分かった。
「ほんとぉ、昔から警戒心が薄いんだからぁ。胡桃ちゃんは」
その囁きかたと、名前の呼び方で、一瞬のうちに高校時代の私たちが脳裏に蘇る。
脳味噌まで砂糖菓子で出来ているのかと思ってしまうような、鼻にかかった、人畜無害そうな声。
例え、執筆中に筆が進んでいるようなときでも、花月の華やかな笑みの裏側に潜む毒々しさを、時津は片時も忘れたことはなかった。
「か、花月、覚えてるの…?」
花月はその問いに満面の笑みで返すと、一音、一音、はっきりと、丁寧なアクセントで告げた。
「『久しぶりぃ、元気してたぁ?』」
ひゅっ、と反射的に肺が膨らむ。
花月は悪戯な笑みのまま両肩を握った手に力を込めると、ぐいっと、一歩時津の内側に踏み込んだ。
甘ったるい、昔の花月とは違う香りが漂ってくる。いや、これだけ近いと、私から花月の匂いがしているみたいだ。
「馬鹿だなぁ、覚えてないわけないじゃん」
美しい黒い光を放つ、オニキスのような瞳は、どこまでも自分の心の底を見つめてきているような気がした。
それでいて、自分の思惑の一切を外部に漏らさない、どこか一方的な強引さに、時津は心をかき乱された。
二人の間には、昔のような身長差が、確かにそこには息づいていたものの、風化した時間と、ヒールの高さとで距離は縮んでいる。
当時より、わずかに近くなった位置で、花月が口を開く。
「何とか言いなよ、胡桃ちゃん」
その執拗な猛禽類を思わせる眼差しから、首をねじってかわそうとするも、さらに一歩詰め寄られ、彼女の鼻先と自分の唇とが触れ合いそうな距離になる。
そうして、沈黙を保っていた私の首筋に、彼女が顔を埋める。
その拍子に、体がびくりと跳ねた。
「あの頃みたいに無視するんだ。へぇ」
まともな会話もしていない段階で、一方的に責めるような言葉を受けた時津は、ムッとして相手を見下ろした。
「何で私が悪者みたいに言われなきゃいけないわけ?」
「だって、無視は良くないよぉ?」
今さらかわい子ぶった口調に戻る花月が、こちらを馬鹿にしているように感じて、時津は目力を強める。
「変わってないね、花月は」
ぴしゃりと言った言葉が暗闇を静かに打つ。
何かが花月の癪に障ったのだろう、明らかに彼女は自分を取り繕う余裕を失い、燃えるような激情を瞳でたぎらせ、時津を見上げた。
その激情が何に向けられ、一体どういう類のものなのかは、時津には分からなかった。
あらゆる種の感情が、花月の中でうねり狂っているのだろう。それを言葉に託して送り出そうとする様子が何度か見られたが、結局は上手くいかず、その度に花月は悔しそうな顔をしてみせる。
何も答える気がないのなら…、と時津が言葉を重ねる。
「一方的に絡んできて、自分の言いたいことばかりで…!」
ぎらりと鈍い眼光を向けられ、一瞬、言葉を詰まらせるも、そのまま勢いを途絶えさせることなく続ける。
「――こういうことも、する」
「…こういうこと?こういうことって、どんなことかなぁ?」
彼女が浮かべたのは、余裕を感じさせる笑みだったが、それが急ごしらえのプレハブ小屋みたいなものだとは、すぐに見抜けた。
だからこそ、時津は相手を追い詰めるように、話の根本にある問題に恐れず触れた。
「あの日、花月が私にしたようなことだよ」
暗い控室の中で、彼女の瞳がわずかに揺れる。それでも、彼女は果敢に言葉を紡いだ。
「あんなのさぁ、子どものお遊びじゃん。別に服を脱がせて何かしたわけでも――」
「最低」
時津の声には、はっきりとした拒絶が示し出されていた。
「あの日のアンタも、今のアンタも、最低だよ」
ショックを受けたように、花月の動きが止まった。
瞳は丸々と開いたまま固定され、その中心に時津の姿を映っている。しかし、徐々に彼女も我に帰り始めたのか、黒い目にはまた様々な感情が渦巻き出した。
そして、その渦潮の中心には、時津がいた。
無数の水泡を巻き込みながら回転する渦は、やがて抱えきれなくなった真珠のような涙を、その外側に浮かび上がらせる。
突然泣き出した花月を、唖然とした目つきで見つめていた時津だったが、弾き飛ばすようにして両手を離した彼女が、言葉もなく非難するように睨みつけてきたことで、いよいよ意味が分からなくなった。
「…どうして、花月が泣くの?」
無意識でそう尋ねた時津だったが、花月はその問いに答えることもなく、八つ当たりするように扉を跳ね開けると、そのままどこかへと消えていった。
何なの、意味が分からない。
あのとき、私の気持ちを無視したのは、
…花月林檎、あなたのほうでしょ。
(4)
配役は順当に決まった。
新進気鋭の作者による作品、という大それた評価のもと、まあまあ名の売れた者から、無名の者まで、あらゆる役者が抜擢された。
その中でも、花月林檎だけが明らかに異彩を放っていた。
子役の頃から芸能界で生き延び、若くして不動の地位を築いていた花月が主人公兼ヒロインを務める、ということもあり、前評判は十分だったといえよう。
彼女がその役に選ばれたのは、その腕前を加味しなくても、当然のことではあった。
何度も言うようだが、主人公のモデルが等身大の彼女なのだから。
撮影は一ヶ月と少しで終わった。怒涛のような毎日ではなかったものの、少なくとも暇ではなかった。
撮影現場には、なるべく顔を出さないようにしていた。
現場に行けば、花月と会う可能性があったから。
彼女だって、忙しいため、いつだって撮影現場にいるわけでも、残るわけでもないことは重々承知だ。
しかし、会えば、あのときの涙の意味を尋ねてしまいそうだったから。そうならないように、細心の注意を払っていた。
それでも、時折彼女の姿を見かけることはあった。
撮影中の彼女は、もう私の知る花月林檎ではなく、その皮を被った何者かにすぎなかった。
そういうときは、決まって端のほうから花月の様子を見守った。
白い指先の一つ一つが、独立した意思を持つようにうねり、空気の流れを支配するかのように思えた。
普段は甘ったるく、鼻にかかったような声のくせに、演者に変身していた彼女の口から発せられる声は、酷く透き通っていて、完全に別人のものであった。
しばしば時津は、この作品、『一口分の毒りんご』にて、主人公である『りんご』を恒星に例えた。
地上から見上げる人々に、数多の星の中から見つけてもらえるよう、自ら光を放ち輝く恒星――シリウス。
それに対し、時津は、見上げることもしなかった人種である。
彼女という星に触れたとき――いや、正しくは触れられたとき――に、時津は得も言われぬ失望を感じたことを覚えている。
あれは、友人だと信じていた相手に、裏切られた失望だっただろうか。
あるいは、もっと別の…?
それを確かめることになったのは、映画が完成し、時津と花月の関係が一つの区切りを迎えた頃のことであった。
映画の上映予定の日付が決まり、時津がまた別の仕事に取り掛かり始めた頃、一本の電話が掛かってきた。
相手は、監督であった。
彼女は、『一口分の毒りんご』のスタッフと役者で、改めて食事でもどうか、という提案を時津に行ってきた。
クランクアップを迎えたときも、現場のメンバーで是非にということであったが、時津はそれを、次の作品の執筆が忙しいからと断った。
彼女は再び、その誘いを断った。
少しつまらなさそうな態度をしていた監督であったが、やはり、無理強いするようなことはなかった。
彼女は元々、友人も多く、引く手数多の人間のはずであったから、自分ごときに断られても、他のあてがたくさんあるのだろうと予測が出来る。
そうして、時津は自室に籠もって執筆に励んだ。とはいっても、次回作のプロットすら完成していない段階。行きあたりばったりで、アイデアだけを綴る時間が続いていた。
時計の時刻が一日と一日の狭間をたゆたった後、時津は気分転換のつもりで、お風呂を沸かし、体や髪を洗って、ゆっくりと湯船に浸かった。
高温のお湯と、じわじわと中から体を温める入浴剤の成分で、頭がぼうっとするのが分かる。
リフレッシュどころか、避けられぬ眠気に襲われた。時津は覚醒を維持するために頭を左右に振っては、舟を漕ぐことを往復していた。
何度目かの覚醒の後、ふと、窓の外から雨音が響いているのに気付いた。
そうだ、今夜は雨の予定だった。
やっぱり、食事会など行かなくて正解だったようだ。
時津は濡れ鼠になりながら外食する趣味を当然持ち合わせていなかった。
雨垂れの音に集中しているうちに、先ほどまで自分を苛んでいた眠気の一切が、跡形もなく消え失せていたことに我ながら驚く。
今なら、最高に集中して作業が出来そうだ。
風呂から上がった彼女は、ろくに体も拭かないばかりか、髪も乾かさずに作業部屋へと急かされるように移動した。
さらに三十分ほど、時津は物悲しいBGMをノートパソコンから流しつつ、執筆に没頭していた。だが、不意にけたたましい音を携帯が立てたことで、現実に引き戻される。
「良いところで邪魔をする…」
また、担当の雨宮だろう。この時間にはかけてこないよう、厳しく伝える必要があるかもしれない。
そんなことを考えながら、ディスプレイの文字も見ず電話に応答した時津は、すぐさま驚愕の表情を浮かべることとなった。
「あの…、胡桃ちゃん?」
携帯のスピーカーの向こうから、低く、戸惑いに満ちた女の声が聞こえてきたとき、時津はすぐに相手が花月だと理解した。
「花月…?どうして、これ、私の…」
「あ、ごめん。監督に聞いちゃった」
いや、あの人にも携帯の番号は伝えていないはずなんだけど…。というか、個人情報だぞ。平気で言いふらすなよ。
時津は大仰なため息を吐きながら、意味もなくチェアから腰を離し、窓際に寄った。
日頃手入れのされていない窓枠は、湿気で黒いカビがのさばっており、並べてあるサボテンの鉢のそばまで広がっていた。
それには触れないようにして、雨粒に打たれる窓ガラスの向こうへと、何を見るでもなく視線をやる。
外は酷い雨だった。
ガラスに付着した無数の雨粒によって、星を喰む七色の光が滲んでいる。光は、薄っすらと反射して見える自分の顔と同じぐらい、陰湿に思えた。
「それで?何の用」
努めて、冷たい声を出す。
この間のこと、まだ許したわけじゃない。
騙し討ちみたいにして、一方的に私を壁に押し付けた挙句、非難めいた台詞をぶつけてきたことだ
花月は問いかけを受けて、バツが悪そうに小さな唸り声を上げた。それから、半ば諦めたような調子で説明を始める。
「外、酷い雨なの」
「え?あぁ…、そうみたいだね」
雨脚は強くなる一方で、風だって決して弱くはない。なんなら、耳を澄ませば、遠雷だって聞こえる。
しかし、それが何だというのだ。
「私、さっきまで監督たちと食事に行ってたんだけど…、あ、胡桃ちゃんが来なかったやつね」
「分かってるよ。早く、要件を」
「…そんな言い方しなくてもいいじゃん」
いじけたように声を小さくし、独り言のように呟いた花月に、確かに少しつっけんどんな口調になっていたかもしれない、と反省する。
まあ、番号を教えてもいない相手からこんな時間に電話があれば、誰だって冷淡な態度を取ると思うのだが…。
花月でなければ、要件などろくに聞くことも考えなかっただろう。
そこまで冷静に自分を分析して、むしろ、なぜ花月なら良いと思ったのか、と時津は自分で自分が不思議に思えた。
仕事の話でもない、要件もさっさと言わない。そのうえ、この前回話したときには、ケンカ別れのような形になっていたのにだ。
時津は、己自身が、花月林檎という女性に求めているものを図りかねていた。
私はまた、高校生の頃みたいに、花月と一緒に静かな時間を共にしたいのだろうか。
それとも、ただ仕事の太いパイプとして?
あるいは、いや、まさかではあるが…、あの高校時代の片隅や、この間控室で彼女がしようとしたような、激しい熱を帯びた何かを…。
その夢想に、時津がわけも分からず顔を熱くしていると、花月が声を発した。
「雨…、酷いんだよねぇ…」
それはさっきも聞いた。
眉をひそめた時津が問う。
「だから、それがどうかしたの?」
「…傘もないんだけどぉ」
いくら鈍感な時津でも、この一言でようやく彼女の言いたいところがピンとくる。
「まさか、迎えに来いとか言わないよね」
「い、言わないよぉ。ただぁ…、そのぉ」
二人のときは、何でもかんでもズバッと言い切ってしまう彼女らしくない煮えきらなさだった。
もしかすると、前回のこともあって、彼女も少し遠慮がちになっているのかもしれない。
「もう、何?早く言ってよ」
催促の言葉に、花月が意を決したように息を吸うのが分かった。
「ちょっと、雨が止むまで部屋に入れてほしいなぁ…、なんて」
「はぁ?絶対に嫌」
そもそも、売れっ子女優なのだから、タクシーで帰るなり、その場に居合わせた連中に頼むなりすれば良かったのではないか。
花月林檎に送迎を頼まれて、嫌がる人間など限りなく少ないだろう。
「そんなこと言わずにさぁ、お願い。もうだいぶ雨に降られちゃって…、寒いんだもん」
「知らないよ、そんなの。タクシーでも拾えばいい。第一、花月は私の家知らないでしょ」
時津がそう尋ねた後、不可思議な沈黙が二人の間に流れた。
それは、靴紐が切れたり、グラスにヒビが入ったりするのに近い、予感めいたものを時津に与えた。
ただ、それらと明確に違うのは、予感させるものが、さほど深刻ではなかったという点であろう。
「もしかして…」
花月は、「あ、分かっちゃったぁ?」と叱られる前に、出来るだけ冗談めかした雰囲気にしようという子どものように、曖昧に笑った。
「私、りんご、今、貴方のマンションの前にいるの」
どこの都市伝説だよ、と時津は大きく肩を落としながら、片目を手で覆い、天井を仰ぐのだった。
(5)
時津は、花月を仕方なく部屋に上がらせた後、すぐにまだ十分熱い風呂に入れた。
確かに花月は、彼女が言っていたように、ずぶ濡れで、傘もささずにこの雨の中しばらく歩いていたようだった。
パステルグリーンのワンピースは、水気を含んで濃い色彩に変化しており、裾から滴る雫が作り出した小さな水たまりのように、見る者に重々しい印象を与えていた。
さすがにこのまま上がらせるわけにもいかず、タオルで体を拭かせた後、風呂場へと案内した。
途中、雨の重みで沈んだ、ウェーブのかかる髪の隙間から、花月が何か物言いたげな表情を覗かせたが、あえて無視して扉を閉めた。
それから、着替えをどうするべきか、と短い時間ではあるが頭を悩ませた時津は、結局、自分の新品の下着と古いジャージを用意した。
服装に気を遣わない自分が、新しい下着をクローゼットの奥に準備していたのは、最早、奇跡と言える。
まあ、存在を忘れていただけなのだが。
しばらくして、時津は着替えを持ってから脱衣所に向かった。
時津は、すでにシャワーの音は止んでいたので、今頃は湯船でゆっくりしているのだろう、と思っていた。
だが、扉を開けた目の前に、タオルで身を包んだ花月がいたため、反射的に身を硬くして、持っていた着替えを落としてしまう。
「あ、え、ごめん、わ、わざとじゃ」
猫のように大きい目をパチパチと開閉した花月は、狼狽し、しどろもどろになりながら視線をあちらこちらに彷徨わせている時津を見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
それから、彼女が落とした着替えを拾い上げる。
「えっちだなぁ、胡桃ちゃんは」
「だからぁ!わざとじゃないってば!」
狭い脱衣所で大きな声を出した時津に対し、くすくすと笑った花月は、「分かってるって、冗談だよぉ」と告げた。
化粧の落ちた彼女の顔つきは、華やかさという意味では確かに薄らいでいたが、むしろ、かつてのあどけなさを取り戻すことに成功しており、時津の目からすれば、十分、今のほうが魅力的であった。
「ふぅん」と拾い上げた着替えを観察しながら、花月がそう呟く。
「な、何」
「天下の大女優、花月林檎の寝間着にジャージを持ってくるのなんて、胡桃ちゃんぐらいのもんだよぉ」
呆れたような視線を送ってくる彼女に時津が、まさか泊まるつもりなのかと尋ねたところ、花月は当たり前のように頷き、「服が乾かないからしょうがないよね?」と悪びれる様子もなく答えた。
「あ、明日は一日オフだから、安心してね」
「知らないし。というか、初めからそのつもりだったんでしょ…!」
「えぇ、違うよぉ」
「絶対、嘘!だいたい――」
時津は、花月が誰に家の場所まで教わったのかを問いただそうとした。その個人情報の意識が希薄過ぎる愚か者を、怒鳴りつけてやろうと考えていたのだ。
しかし、彼女がそれを尋ようとする言葉を遮り、花月が言う。
「申し訳ないんだけど、そろそろ閉めてもらってもいい?私の裸と生着替えが見たいなら、別だけど」
あまりにこちらをかき乱し、振り回し、からかおうという姿勢が感じられて、羞恥と共に時津は扉を勢いよく閉めた。
馬鹿にして。
昔から、花月はそうだった。
本心は曝け出さず、私を振り回してばかりで…。
――…でも、あの日だけは違った。
私を床に抑えつけて、感情を波打たせ、声を荒げた花月。
自分の思い通りにならない私のことが、気に入らないんだと思った。
私に馬乗りになった彼女が叫んだ、『だったら、私を愛せよ』という言葉。
花月は、何を求めていたんだろう?
刹那的な快楽?
誰かを求め、応えてもらえるという安心感?
それとも、万人に愛されるという、全能感に近い何か…。
考え事をしながら、何気なく珈琲を準備していた時津の後ろから、いつ出てきたのか花月が声をかけてきた。
「あ、私の分もあるじゃん。ありがとね、胡桃ちゃん」
髪もすでに乾かしていた花月は、上気した肌のまま、少女のようにはにかんだ。
彼女の言ったとおり、確かに私は二人分の用意をしていた。しかし、意図してやったものではない。
これでは、私が彼女を歓迎しているみたいじゃないか。
ふん、と鼻を鳴らしてから、「ついでだよ。ついで」と呟く。
「はいはい、そういうことにしておいてあ・げ・る」
上機嫌に返事をした花月が、自分の後ろを通り抜けていったとき、普段、自身の髪や体からしているシャンプーなどの香りが漂ってきて、何だか奇妙な気分になってしまう。
それのせいで、調子に乗った花月の鼻っ柱をへし折ることに失敗した。
自室に戻ると、我が物顔で花月がソファに座っていた。その前に置いてあるガラステーブルに珈琲を置くと、彼女はすぐにお礼を言って手に取り、音を立てて液体をすすり始めた。
二人がけのソファなので、隣には十分なスペースがあったものの、何となく今の彼女の隣に腰を下ろすには勇気が必要だった。
時折、花月が見える獣じみた強引さが、また爆弾みたいに自分を襲わないだろうか、という不安もあった。
しかし、それよりも、今の自然体な花月のそばにいると、余計なことを聞いてしまいそうで怖かった。
そのため、時津は仕事用の席に移動しようとしたのだが、ぐいっと花月に手を引っ張られ、危うく珈琲を零しかけながら、ソファに留まることになった。
花月は、時津からの叱責も馬耳東風といった様子で受け流すと、ノートパソコンから流れてくるBGMに耳を澄ますように目を閉じた。
「静かだね」長いまつ毛が湿り気を帯びている。「雨と、ピアノの音以外、何も聞こえないや」
「そうだね…」
時津は、どこか物憂げな花月の態度に、先ほどまで抱いていた怒りと呆れの全てを失っていた。
しばらく互いに黙っていると、ことん、と花月の頭が自分の肩に乗った。
重い、と小言を漏らそうとした時津の目に、寝息を漏らしてうたた寝している花月の姿が映った。
起こすべきかとも思ったが、未だに各メディアから引っ張りだこの花月林檎なのだ。
忙しく、疲労の溜まる日々を送っているということは、想像に難くない。
自分は元々夜型の人間だし、執筆作業も夜中にやることが大半なので気にならなかったが、時刻はすでに丑三つ時だ。
昼間に働いている人は眠いに決まっている。
「ねえ、花月?」
名前を呼んで、彼女がしっかり眠っているか確認する。反応がまるでないことから、本気で寝ているようだ。
どうやら、本当に雨宿りに来ただけらしいな、と小さくため息を吐いてから、自分がそれ以外の何かを求めていたみたいな気になって、急に恥ずかしくなる。
ひとしきり心の中で言い訳を並べて、自分を落ち着かせた後、また花月の様子を窺った。
穏やかで、少女のような寝顔。
あのとき彼女が、私に無理やりキスしてきたり、ボタンを千切って噛み付いてきたりしたことが、嘘のように思える表情だ。
「花月はさ…、私をどうしたいわけなの」
無意識のうちに、ずっと疑問に思っていたことが口をついて出てしまう。
しまった、と思って花月のほうを見るも、依然として彼女は眠りの底に沈んでいた。
それで安心したのか、時津は花月に聞かれたら、どう思われるかも分からない独り言を続けた。
「何で、キスなんてしたの」
雨音が、絶え間なく続いている。
「そんなに簡単なものなの…?キスしたり、鎖骨に噛み付いて、痕を残したりすることって」
遠くで鳴っていた雷が、建物のちょうど頭上で低い唸りを上げている。
「友達にも…、するもの?」
窓の向こうで、目も眩む閃光が瞬く。
時津は、自分もしてみれば、その問いの答えが分かるかもしれないと思った。
冷静ではなかった。
熱は、冷めてなどいなかったのだ。
体をわずかに捻り、折り曲げ、
花月林檎という恒星に手を伸ばす。
今なら、確かに触れられると思った。
桜色の唇を一点に見つめていた瞳を閉じて、そのときを待った。
…だが、それは訪れなかった。
あとほんの少しで、互いの距離はゼロになるというところで、時津の動きが静止した。
直前になって、恐れをなしたのではない。
彼女の唇に重なる前に、違うものにぶつかったのだ。
それは、細長く、白い指だった。
天を衝くように立てられた一本の、指。
ゆっくりと見開かれた、オニキスの表面に、間抜けな顔をして驚愕している、自分自身の姿が映った。
「寝込みを襲うなんて、駄目だよねぇ」
艶かしく、かすれそうな囁きが目の前の唇から漏れる。
すっと、私を止めていた指が消え、代わりにその唇が一気に距離を縮めてきた。
私はそのときになってようやく、彼女がどうしたかったのか、そして、自分がどうしたかったのかが理解できた。
確かに、静かな夜だった。
濁流のような雨音や、爆音を轟かせる雷よりも、大きな、私自身の鼓動以外は。
「ずっと待ってたよぉ?胡桃ちゃんがこっち側に来てくれるのを」
お目通し、ありがとうございます。