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一口分の毒林檎  作者: null
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愛され方が、分からない

以前にもアップしていた分ですが、うっかり消してしまっていたところ、再アップの声を頂いたので掲載いたします。


わざわざ声をかけて頂いた方、ありがとうございます。


何かの縁でたまたま流れ着いた方は、百合が好きでしたらご一読頂けると幸いです。

(1) 


 人は、愛されてこそなんぼだ。


 愛され、褒めそやされて、大事にされてこその人生だと私は思っている。


 そのためには、周囲に愛される容姿、絶対的な力の象徴である金、名誉を一身に受けられる地位などが必要である。


 もしかすると、人の中にはそれらに価値を見出すことに抵抗があるものもいるかもしれないが、そんなもの、私から言わせれば、持たざるものの僻みだ。


 紙と一緒に便所へ流しても差し支えない。


 つまり、私が何を言いたいのかというと――。


「あの」と後ろから声をかけられる。


 緊張に満ちたか細い声だったが、その中には確かな期待も込められていた。


「どうしたの?」


 私はすぐに振り向き返事をする。

 その際も、振り向くときの角度、間延びした口調を忘れない。


 これは大事なものだ、最早、私にとってのアイデンティティーと言っても過言ではないのだ。


 私を呼び止めた自分と同年代の女子は、私と目が合うや否や赤面し、激しく視線を右往左往させた。


 それは私にとって見慣れた反応で、つまらないものだったが、そんな感情はおくびにも出さず小首を傾げて相手の発言を待った。


 女子は視線をやや俯けたまま、恐る恐るといった様相で言った。


「あのぉ、サイン、貰ってもいいですか?」


 自分と同じ服装をした少女が言った台詞に、廊下のあちこちに寄り集まっていた少女たちがアンテナを立てるようにこちらを見た。そうして、ひそひそ話を始める。


 こういう瞬間が私は大好きだった。


 今やこの場における全権は私に委ねられており、暗黙の不可侵条約を破った少女の生殺与奪はこの掌の上にあった。


 たっぷり十秒ほどの沈黙を横たえつつも、呆気にとられ、フリーズしている様子を演じることも忘れない。


 そろそろか、とタイミングを計り、ハッと我に返ったようなふりをする。


 それから少しだけ困ったような微笑を浮かべてから、少女のほうへと近づく。


 両手を曲げて、右手でペンを扱う仕草をする。


「え、と…、私のなんかで良ければ」


 光栄さと嬉しさを織り交ぜた、曖昧な面持ちで笑った私に対し、少女は一気に破顔した。


 ありがとう、と弾ける笑顔の少女に続いて、事態を傍観していた観衆が死肉に集るハイエナのようにして近寄ってきた。


 もちろん、彼女たちの要求にも嫌な顔一つせず応える。


 そうすることで生じる労苦と評価の比率が、後者のほうが多いことを私は身に染みてよく知っていた。


 ――本当、林檎ちゃんはファンサがヤバイよね。

 うん、知ってる。


 ――芸能人なんて、実物は大したものじゃないって思ってたけど、林檎ちゃんは本物のほうが可愛い。

 いや、だから知ってる。っていうか、当たり前でしょ。


 ――私、知り合いに林檎ちゃんと友達だって自慢しちゃった。

 へぇ、そうなんだ。ところであなた、誰だっけ?


 私、花月林檎(かづきりんご)は今をときめく人気アイドルである。

 もちろん、沢山いて名前を覚えられないような大所帯じゃなくて、私のためだけの『アイドル』だ。


 道を歩けば人垣に囲まれ、

 学校に行けば称賛の声を浴びせられ、

 メディアに出れば引っ張りだこ。


 順風満帆の我が人生は、最早、一点の曇りもなく、誰もが羨む日々であった。


 謙虚な笑顔の裏側で、己の人生を自画自賛していた花月の背後から、冷たく鋭い声が聞こえてきた。


 その声を聞き、首だけで振り返りながら、花月は閉口しながら考えた。


 そうだ。私の人生は完璧だ。


 誰もが、私のことを愛し、褒め称え、大事にしている。

 当然だ、それだけの容姿に加え、若くしてお金も持っている、地位だって輝かしいものを築いているのだから。


 そう、誰もが…。


「邪魔なんだけど」


 その一言で、すっと花月を取り巻いていた集団が、潮が引くように消えた。


 声の主は、クラスメイトの中でも、飛び抜けて身長が高く、やたらに肌の青白い女子生徒だ。

 ついでに言うと、まあまあの美人。

 系統は違うが、私と同様に人目を引く容姿だ。まあ、私には遠く及ばないが。


 流れるような黒髪が、人垣を左右に引き裂く。


 ああ、私のパトロンたちが…いや、どうだろう、愛の伝道師たちと喩えたほうが適切だろうか。それとも、私という、愛され少女が放つ愛を運ぶ蜜蜂か。


 ここで不服そうな態度を取るほど、花月は愚かではなかった。

 それだけ自分の積み上げたものが大きく、崩しがたいということだ。


 手首だけを小刻みに動かすような挨拶を彼女にする。


「おはよう、胡桃(くるみ)ちゃん」


 両手を胸の前で重ね、片目だけ閉じる。


「ごめんね、邪魔しちゃって」


 心底申し訳無さそうに謝罪する花月の前で、女は不快感を露わにするように舌打ちをした。


 そのまま壁際に避けたパトロンたちと、花月の間を進むと、彼女は教室の中へと消えていった。


 時津が花月の前でした無礼で無愛想な態度を、再び寄ってきたパトロンたちが口々に責める。


 何様だよ、と罵る彼女らにも同じ言葉をそっくりそのまま返してやりたかったが、一応自分の兵隊みたいなものなので、曖昧に笑って誤魔化し、寛容さをアピールする。


 時津があんなふうに怒りを表面化させた原因を、花月は分かっていた。理解した上で、それを刺激するような発言をしたのだ。


 彼女は、自分の下の名前である『胡桃』という名称を用いられることを酷く嫌っていた。


 …まあ、不愛想な彼女には明らかに不釣り合いな、可愛い名前だものね。


 誰も彼もが神の子のように私を愛する中、たった一人、時津胡桃(ときつくるみ)だけが私に一切の興味を示さなかった。


 気に入らないこともなかったが、彼女はいつも一匹狼を気取っており、何かと拗らせているのだろう、と考えることにしていた。


 哀れだと思う。


 私のことを愛せないのは、人間として激しい欠陥を抱えているということなのだから。


 こんな私のことですら愛せない彼女は、きっと、そもそも人の愛し方を知らないのだ。


(2)



 人に愛される、ということの中には多少の面倒も付きまとう。


 愛されるための努力、というのが往々にして面倒を伴うものなのだから、当然のことだろう。


 忙しい時間の合間を縫って登校してやっている自分に、雑用を押し付けるとはどういう了見なのだろうか、と花月は腹立たしく思った。


 ただし、その感情は一ミリも表に出さず、軽やかで優雅な足取りのまま、両手に持った教材を旧館の資料室へと運ぶ。


 重すぎる。あの教師、これを私一人に持たせるなんて、何を考えてるのか。

 私が一言パワハラだ、セクハラだと騒ぎ立てれば、お前の人生終了なんだからな。


 腹の中のどす黒いヘドロみたいな感情を丁寧にかき混ぜながら、花月は風になびく髪を抑えた。


 ゆるふわ系の体現者であろうとセットしている髪は、やや赤みがかっていて、毛先がくるくると巻かれていた。


 これが、今の年齢の自分に一番似合う髪型だと確信している。


 旧館の人気のない廊下を進む。

 一歩踏み出すごとに妙な音を立てて軋む床板が、この建物の老朽化を如実に指し示している。


 こんな建物、さっさと壊してしまえばいいのにと思ったが、そう簡単ではないのだろうと考え直し、瞬きを何度かした。


 開閉するシャッターの奥、古びたネームプレートの掛けられた扉が見える。

 プレートには、手書きで『資料室』とかすれた文字で書き込まれていた。


 多分、鍵は開いているはずだ、と口にしていた教師の顔が浮かぶ。


 あまり私になびかない女教師の冷えた顔、そういえば彼女も私を愛していない。社会不適合者である。


 両手がうまっているため、片足を使って開けようかという考えが脳裏をよぎる。しかし、うっかり誰かに見られでもしたらお終いだと思い、一度荷物を置いてから扉を開けた立て付けが悪くなっているらしい扉は、妙な悲鳴を上げながら横にスライドした。


 室内は照明が点いてなくとも、西日のおかげでやや薄暗い程度だった。


 分厚い木で作られた長方形の机がいくつも並んでおり、それを囲むように丸椅子が四つずつ配置されている。

 おそらくは、元は資料室ではなかったのだろう。


 こんなサイズ感が必要なのかと疑わしくなるほど大きな窓から、燦々と光が降り注いでいて、窓際はとても明るい。


 誘蛾灯に引かれるようにして、何となくそちらの日向のほうに進みながら、そういえば、どこに置いておけば良いか聞いていないなと考えていた。


 淡い黄色の光の中、両手の荷物の重さも忘れ、花月は立ち止まった。


 天の川のように黒々と美しい長髪、それを押し潰すようにはめられた黒のヘッドフォン。

 か細くもしなやかそうな手で掴んだハードカバーの本。

 その頁の上に落ちる、知的で鋭い瞳。


 一瞬、呼吸が止まるかと思った。いや、実際に止まっていただろう。


 だが、それは驚きのためばかりではない。


 確かに驚きはしたが、それを十分に上回る感動があったのだ。


 人の気配のない資料室の奥、日当たりが最も良い場所の壁に、背をもたれかけて座っていたのは、時津胡桃だった。


 彼女は、本に集中しているのか、それともヘッドフォンから聞こえてくる音楽に集中しているのか、花月が部屋に入って来たことには気が付いていない様子である。


 時津は、ぺらりと頁を一枚捲るごとに瞬きを一つした。


 その際に踊る長いまつ毛が、異様に花月の心を揺さぶる。


 普段であれば、相手が誰であろうと気さくに話しかけるところなのだが、不意を打たれたような形になり、花月は自分がするはずのテンプレート行動を忘れていた。


 それどころではなかったと言ったほうが正しいかもしれない。


 数秒、あるいは数分の時が流れたか、正確な時間は分からない。


 とにかく、冷静さを取り戻した後、花月は適当な机の上に教材を置いた。そのドスン、という鈍い音か、振動かで気が付いたのか、ようやく時津も花月のほうへと視線を移した。


 みるみるうちに、その端正な表情が歪む。自分の嫌いな虫でも見つけたみたいな反応に、ほんの少しだけ口元が引きつる。


 時津胡桃、何て女だろうか。この私と二人きりになれるなんて、こんな幸運、よっぽど前世で徳を積んでないとそうそう起こらないぞ。もっと、もっと有難そうな反応をしろよ。


 ヘッドフォンを外した時津が舌打ちか、それか黙って去って行こうかしているのが空気を通して伝わって来たので、先制攻撃を仕掛けるつもりで花月は口を開く。


「わぁ、びっくりしちゃった。胡桃ちゃん、こんなところで何を――」


「あなたに関係ない」


 こちらの言葉を遮るようにして時津が呟く。その取り付く島もない様子に、思わず言葉を失って彼女を見つめていると、時津が横目でこちらを睨んだ。


「何?」


「…何してたのかなぁ、って…」


「だから、あなたに関係ない」


 コミュ障かお前、という言葉はどうにか飲み込む。


「えぇ、教えてくれても良いんじゃない?」


「見て分かることを、どうして教えなきゃいけないのか、意味不明」


 時津は、ぱたんと閉じた本を軽く指の裏で叩いた。


 確かに、読書していたのは見て分かる。でも、私が聞きたいのは何をしていたのかじゃなくて、何でこんなところに、というほうだ。それぐらい言わずとも普通分かるのではないか。


「じゃあ、何でこんなところで本を読んでいたの?」


「答える義理はなくない?」


 結局、何も答えたくないんだろ、と心の中だけで叫ぶ。


 埒が明かないので、適当な話題を振って、適当な会話だけしてこの場を去ろうと思い、花月はとりあえず視界に入ってきたものについて触れた。


「本、好きなの?」


 ぴくり、と彼女が反応する。


 今までは横目で花月を捉えていたオニキスの瞳が、今度は真っすぐ正面から自分にぶつかって来た。


「好きだけど」初めてまともな返しを貰えた。「へぇ、ちょっと意外」


 思わず零れ出た本音に、時津がぎろりとこちらを睨む。


 慌てて話題を逸らそうと、「どんな本を読むの?」と尋ねたのだが、へそを曲げたのか、次は横目ですら花月を見ようとしなかった。


 しょうがないじゃないか。だって、一匹狼を気取って、誰ともつるまない不良みたいなイメージだったから、てっきり帰ったら同じような人種と騒いでいるか、反社会的な行動をしているとしか思わなかったのだ。


 まさか、放課後は誰もいない資料室で読書に耽っています、なんてさぁ…。


 閉じられた本のタイトルを盗み見る。


 そこには、最近どこかで聞いたことのあるような堅苦しい表題が刻まれていた。


 時津は、もう話は終わりだと言わんばかりに再び本を開いて読み始めた。その態度があまりにもふてぶてしくて、花月の高いプライドを刺激した。


 そうか、この私と話したくないということか。


 この国に、私と一言二言話せるだけで狂喜乱舞する人間がどれだけいると思っているのか。とにかく…、そっちがその気なら、私にだって考えがある。


 花月は微笑みを浮かべ、ゆったりとした足取りで彼女の前に移動した。


 黒々とした髪と、真っ白な頁を、黙って上から覗き込んでいると、痺れを切らした様子で時津が顔を上げた。


 訝しむような、鬱陶しがるような顔つきに、ますます花月の中の負けん気が燃え上がる。


「何」と迷惑さを押し隠さずに時津が問う。


「ねえ、その本面白い?」


「面白くないなら読まないよ」


「確かに」出来るだけ自然な所作で時津の隣に腰を下ろす。


「ちょっと、何で隣に座るの」


「立ったままだと話しづらいから」


「話すことなんてない」


「そうなんだぁ、でも、私にはあるかなぁ」


 相手が苛々することが分かっていて、あえて間延びした口調を維持する。


 時津は、しばし逡巡するように、視線を花月の顔と虚空と行ったり来たりさせてから、ややあって諦めたように小さくため息を吐いた。


 バタンと本を閉じて、無機質な数字でも読み上げるように呟く。


「手短に」


 同じ目線で見つめる彼女は、本当に美しかった。


 その他者を拒絶する吹雪のような美しさが、一度落ち着きを取り戻していた花月の心を、再び激しく揺さぶった。


「ねぇ、胡桃ちゃん、私のこと嫌いでしょ」


 口にしてから、しまった、と内心で後悔した。


 ここまでダイレクトに聞くつもりはなかったのに、私を見上げる彼女の目を覗き込んでいると、どうしてか、言葉を選ぶ余裕がなくて、頭に浮かんだものがそのまま投下されてしまった。


 あからさまに怒っている人間に、『怒っているの?』と尋ねるのと同じレベルで、自分が行った質問は愚かな質問だった。


 案の定、時津は苛立ちを露わにして舌を鳴らした。


「何となく、そうなのかなって思ったんだけど…」


 慌ててフォローの言葉を口にするも、やはり彼女はムッとした表情のままだった。


「ごめんね、気に障った?」


「どうでもいいけど、下の名前で呼ぶのをやめてくれない?」


「あ、そっち?」彼女が苛立っていたポイントが意外であって、でも意外でなくて、花月は苦笑いを浮かべた。「自分の名前、嫌いなの?」


 時津は何も答えず、立ち上がった。


「ちょっと、胡桃ちゃん」ぎろり、と時津がこちらを肩越しに睨みつけてくる。「ごめんね、でも、私は胡桃ちゃんの――」


 時津は花月の話を弾き返すように顔の向きを変え、そのまま静かな怒りを込めた足取りで資料室から出ていった。


 叩きつけるようにして開け閉めされた扉が、酷く哀れであった。


「――名前は可愛いと思うけど…アレじゃあねぇ」


(3)



 その後も、時津胡桃は花月のことを邪険に扱った。


 というよりも、彼女は誰に対しても基本的に同様の態度だったわけだが、それでもやはり、人目を引くうえに、人当たりの良い花月に対する反抗的な立ち振る舞いは悪目立ちした。


 一方、それに対し、花月は嫌な顔一つすることはなかった。


 もちろん内心では悪態を吐くことも少なくはなかったが、それでも、本気で相手を嫌うような気持ちはなかった。


 それはきっと、花月の代わりに周囲の有象無象が時津を影でけなしていた、という理由もあるだろうが、花月からしてみれば、不幸なのは時津のほうだったのだ。


 時津は、人を愛する能力に欠陥がある。


 誰にでも愛されるよう、神様に創造された自分を愛せないのだ、なんと可哀想な人間なのだろうか。


 彼女は、きっと誰も愛せない。

 その喜びも知らず、そしてまた、愛を求めることもない。


 それが、花月の出した時津への評価だった。


 時津とわずかに言葉を交わした日から、一週間ほど過ぎたある日だった。


 花月は、旧館の資料室へと向かっていた。理由は明確であって、明確ではない。


 その不思議な矛盾に自分自身、ふわふわとした心地になりながらも、資料室の扉をノック無しに開いた。


 奥へと足を進め、以前時津が座っていた場所に移動するが、彼女の姿はなかった。


 あるのは、西日に漂う埃と、暖かくなった床板だけだ。


 折角、面白い話を聞かせてやろうと思ったのに。そう考えながら、花月はその日は踵を返し、学校を後にした。


 そして、次に学校に行った日。前回の虚しき訪問から、四、五日ほど経った日のことだった。その日は雨が降っており、放課後の穏やかな西日が注ぎ込まれることはなかったものの、その代わりにか、以前と同じ場所に彼女はいた。


 今日も時津は、花月が入ってきたことに気が付かなかった。今日はヘッドフォンを着けていないので、集中しているのだろう。


 ハードカバーのデザインが変わっていて、違う本を読み始めたらしいことが推測出来たところで、花月は少し遠めの距離から、時津の視界に入るよう掌を振って見せた。


 驚いた様子で目を見開いた彼女は、瞬時に鬱陶しそうな顔を花月に向けると、ため息を交じりに本を閉じた。


 放っておくと、そのまま立ち去りそうな勢いの彼女の腕を掴んで引き止める。


「ストップ、ストップ、胡桃ちゃん」


「何、触んないで」


「本当、私のこと嫌いだね」


 ここまで徹底されると、もう笑いが零れる。


「しつこいし、呼ぶなって言っているのに名前で呼ぶ。これで嫌いにならないほうがおかしいと思うけど」


「うわ、ショック。私って、自分で言うのもなんだけど、結構みんなに愛されるんだけど?」


「そう、良かったね。じゃ」


「あ、もう、待って」


 何を言っても立ち去ろうとする彼女を引き止めるため、一先ず本題に入ることにした。


 迷惑さを全面に展開する時津の眼前に、一冊の本を掲げる。


 時津の身の丈は花月の身長よりも、およそ10cm以上は高いため、自然と腕の角度がきつくなる。


 時津は訝しがるように目を細め、何事かを言おうと口を開いたのだが、そうして声を発する直前に、凍りついたふうに固まった。


 みるみる驚愕の表情に変わった彼女は、右手の人差指を本に突きつけた。


「これ…」


 そうして時津は、その本の作者の名前を『先生』の呼称付きで呼んだ。


 その人物の名は、今彼女の左手に握られているハードカバーの表紙にも印字されている。

 ただし、花月が持ってきた本には、印刷機によって印字されたものではなく、手書きのサインが書き込まれていた。


「やっぱり、胡桃ちゃんが好きな作者さんのだったんだぁ、これ」


「それ、ど、どこで」

 普段の冷徹さは見る影もなくなり、時津は言葉を詰まらせている。


 それを見ていると、何だか気分が良くて、思わず頬をすっかり緩めた顔つきで花月は胸を張った。


「ふふふ、胡桃ちゃん、私が誰だか知らないの?」


「はぁ?」


 遠回しな表現がお気に召さなかったようだ。


 しょうがないので、一つ息を吐いてから自分の顔がよく見えるよう、前髪をかき分けながら告げる。


「私、今をときめく人気アイドルなんだけど?」


 あ、やばい。素が出た。


 花月の心配をよそに、時津は本に夢中だった。


 花月が芸能人だというステータスを思い出すことで、その本に書き込まれたサインが本物だと、彼女の中できちんと実証されたのだろう。


「ちょっと貸して」


 時津は迷うことなく花月の持つ本に手を伸ばした。


 ひらりと、本を胸元に引いてその手を躱す。ほとんど反射的な動きだった。


 じっと、時津が花月の可愛らしい顔を、穴が空くほど睨みつけた。

 その眼差しには、確かな憤りと捨てられない希望が閃いていた。


 故意的に意地悪をしようと思っていたわけではない。


 ただ、彼女が敬愛しているかもしれない作者の、サイン入りの本を見せたらどんな反応をするだろうかと興味があっただけだったのだ。


 彼女の反応は、花月の予想を遥かに上回る、というか斜め上のものだった。


 その様子をまじまじと観察しているうちに、花月は、もっと別のものに飲み込まれていった。


 こちらの様子を窺う瞳の、鮮やかな黒い煌めき。


 切れ長で、黒目がちの両目が印象的ながらも、他のパーツも整っている美人顔。


 休日もずっと本を読んで過ごしているのか、白く、雪のような肌。


 その雪原に咲いた、季節を違えた花のような唇。


 勝てない、と思った。何の勝負なのかは自分でも分からない。

 ただ、胸の奥から巻き上がる嫉妬の炎が、正体不明の圧倒的な力にねじ伏せられて、風に乗ることも出来ず燻っていた。


「…からかうために、持ってきたわけ?」


 静寂を破る時津の声に、ハッとする。


 不服そうにこちらをじっとりと睨みつける彼女を微笑んで見返しながら、必死に頭を回転させる。


 あれ、私は何がしたかったんだっけ。


 からかう…つもりがあったわけじゃなくて、ただ、そう、鉄面皮な態度を崩さない彼女がどんな反応するのか見たかっただけだ。

 ならば、これからどうしようか。


 自分が宝石の原石だと気付かず、私を愛せない哀れな時津胡桃。


 彼女をこれ以上、不幸な存在にするのはさすがに気が引ける。


 花月は、その本を手渡そうとした。


 普段の彼女が被っている仮面を装着して、誰もが愛したくなる弾ける笑顔で、ただ一言、プレゼントだと言って手渡せば良い。


 そうすれば、今日から時津胡桃も、晴れて私のファンの仲間入りだ。


 そう考え、本を胸元からわずかに離した花月は、そこでぴたりと動きを止めた。


 …でも。


 無意識のうちに、口元が歪む。


 彼女自身は気が付いていなかったが、加虐的な性格が垣間見えるその歪な微笑は、花月林檎の本性の一部を覗かせていた。


 もう少しだけ、と花月は仮面を外す。


「ねえ、胡桃ちゃん。この本欲しい?」


「馬鹿にして…!」


 怒気を露わにする彼女を受け流すように、本を時津の胸元に素早く押し付ける。


「良いよ、あげる」

「え」


 意外そうに目を丸くした彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めて本を両手で握った。だが、すぐにその上から、花月の両手が重ねられる。


 そこには、逃がすまい、という強く粘着質な意思が込められていた。


「その代わりぃ、お願いがあるんだけどぉ」


 わざとらしく、可愛い子ぶった口調で小首を傾げる。


「ちょ、離して」


「聞いてくれる?胡桃ちゃん」


 有無を言わさぬ花月の言葉と笑みに、時津が初めて怯む。


 言葉に詰まって視線だけを右往左往させている時津の至近距離に、ぐっと踏み込む。それでいよいよ彼女は困惑した様子になった。


 同性にも効果のある自分の可愛さを再認識し、自信を取り戻した花月は、相手が飛び退かないギリギリの近さまでさらに近寄ると言った。


「今後も、『胡桃ちゃん』って呼んでもいい?」


「何で…」


「それあげるから」


「いや、だから何で…」


「駄目なんて言わないよね?」


 時津にとって垂涎の品であるはずのサイン本と引き換えにしているのに、渋られることが予想外だった。


 そんなに私に名前を呼ばれたくないのか。いいよ、上等だ。


「だって、欲しいんでしょ?」


「それは、まぁ」


「じゃあ、我慢しなくちゃね」


 絶対退かない。


 ここまで来たら、相手が首を縦に振るまで執拗に続ける。


 既に彼女からはしつこい、という評価を受けているのだ、今さら遠慮する必要はない。


 私はすっぽん並に一度噛み付いたら離れない。それが配役だろうと何だろうと。


 実際、花月は、その後も粘り強く抵抗する時津が折れるまで、同じ質問を延々と繰り返したのだった。


(4)



 時津胡桃と花月林檎が仲良くしている、という話題が広まるのに、たいした時間はかからなかった。


 牙を剥き出しにしていた時津が、まるで調伏されたように大人しくなったことは誰の目にも明らかだったものの、それに触れる者はいなかった。


 花月は、そうして周囲が表には出さないものの、興味津々で自分たちを観察しているのが面白くてしかたがなかった。


 時津胡桃と私の関係は、不思議な共生関係といえるものであった。


 私は時津が興味のありそうな話や品物を持ってくる。


 そして時津は、私にとって非常にありがたい人避けとしての機能を果たす。


 自分に押し潰すような人の群れや声は、確かに恍惚を与えもしたが、疲れもした。

 一日中仮面を着けているのでは、窒息死する。


 花月は、息の出来ない美しい水中から逃れ、息継ぎをするための場所として時津を利用していた。


「ねぇ、胡桃ちゃん。私たち、すっかり仲良し扱いだね」


 あえて猫なで声を出して、隣で本を読んでいる時津をからかう。


「ええ、そうね」


 淡白な反応だ。ここ最近、こういう返しをしてくるようになった。それがつまらなくて、私はぐっと身を乗り出しながら首を傾ける。


「光栄?」


「もう、邪魔」


 時津の片手によって逆に押し返されて、花月は頬を膨らませる。


「ちょっとぉ、邪魔ってなぁに?」


「邪魔のものは邪魔。読書中、分かるでしょ」


「わかんなぁい」


「あのねぇ、邪魔はしないって約束だったじゃん」


「私はぁ、邪魔してるつもりないもぉん」


「ああ、そう」時津は興味がなさそうに呟くと、数十センチほど、座ったままで床を移動してから口を開いた。「暑いから離れてよ」


「あー、信じられない。私、花月林檎なんだけど」


「知ってる」


「一目だけでも生で見たい、握手でいいから触れてみたい…っていう人気アイドルなの」


「はいはい」


「私に近づかれて、『離れてよ』なんて言うの、世界中どこを探したって、胡桃ちゃんぐらいだよ?」


「へぇ、凄い光栄」


 半笑いの表情で答えた時津に少し苛ついて、嫌がらせ目的で彼女に体重をかけてしがみつく。


「本当にさぁ、もぉ…」


 汚い文句の一つか二つ、時津胡桃相手なら、もう遠慮なく言っても構わないのではないだろうか。


 時津は、その冷徹に見える性格と佇まいのために、人から避けられることも少なくはなかった。


 しかし、基本的にこちらから、何か、時津にとってマイナスになるようなことをしなければ、彼女は無害である。


 誤解とは恐ろしいものだと他人事のように思いながら、やはり、愛される才能に恵まれた自分と、恵まれなかった者とではこうも差があるのかと痛感した。


 しがみつかれた時津が何も怒らないことが不思議で、彼女のほうを緩慢な動きで見やる。


 すると、彼女は目を見開いて、こちらを見つめていた。

 その片手は不自然な場所まで持ち上げられており、自分と目が合うと、何もなかったかのように速やかに浮かせた手を床についた。


「ど、どうしたの」


「別に」彼女はこちらを見ようともしない。「ちょっと、驚いただけ…、暑い、離れて」


 時津は優しい手付き、というかたどたどしい手付きで花月の体を剥がした。


「ふぅん」と花月はその横顔を観察する。


 本に視線を落としている時津の頬は、ほんのりと赤らんでおり、口元がかすかに動いていた。


 普段なら、機械みたいに文字を追い、速いテンポで頁をめくるその指と目が、完全に固まっている。


 もしや、と花月は半信半疑で思ったことを口にする。


「胡桃ちゃん、もしかして照れてるの?」


「違う、から」今にも裏返りそうな声に、にやりと悪戯な笑みが浮かぶ。


「そうだよねぇ、同性に抱きつかれたくらいで顔が赤くなったりしないよね」


 時津は何も答えない。


 だが、その沈黙は彼女が得意としている、一方的な無視とは違い、声なき言葉は雄弁であった。


「…当たり前でしょ」


「そうだよねぇ?当たり前だよねぇ?」と呟きながら花月は再び、時津と距離を縮める。


 いつか彼女が私にしたように、穴が空くほどその端正な顔を見つめ続ける。


 すると、とうとう堪えきれなくなったのか、時津は大袈裟にため息を吐きながら、立ち上がった。


「花月の距離感がおかしいだけ」背を向けたままで、時津が続ける。「…近すぎ」


 いつもはきっぱりとした口調を一貫している時津が、時折見せる、弱々しさ。いや、可愛らしさ…とにかく、時津胡桃のこのギャップが目の前に曝け出されて、花月は底知れない感情の昂りを感じた。


「ああん、胡桃ちゃん、かーわーいーい!」


 ぎゅっと、相手が躱す間もなく、白い手を掴み、巻き込むように腕を絡ませる。


「や、もう!軽々しく触らないでよ、あなたそれでも芸能人なの?」


「ま、私って可愛いからさぁ、無理もないよぉ」


「こっちの話を聞いてよ!」


「ちゃんと分かってるじゃん、胡桃ちゃん。私、ちょー可愛いよね」


 時津を無理やり再び床に座らせ、怒っているのか、困っているのか分からない彼女を見つめる。


 その視線と、西日をまともに受けた時津は、羞恥を誤魔化すように大きな声を出して言った。


「最近の花月、ちょっと素を出しすぎなんじゃない?みんなが見たら驚くよ」


「まあまあ、いいじゃん。私も仮面つけっぱなしだと肩が凝るんだってばぁ」


「仮面なのに肩が凝るの?」時津が本心から不思議がるように言う。「そう、凝っちゃうの。だから胡桃ちゃんでリフレッシュ」


「うわ、迷惑…。何で私が」


「だって、胡桃ちゃんって最初から私に興味なかったでしょ」


「それはそうだけど、良いの?私が花月の本性晒しちゃうかもよ」


「しないよ。そんなことしても、胡桃ちゃんに得がないもん。何も貰えないし、面白い裏話も聞けない」


 指先を時津の鼻っ面に立てて告げる。


「何か複雑な信頼のされかた…」


 信頼、というのはまた違う気もした。


 私は、時津胡桃という人間のコントロールの方法を学んだだけだ。


 彼女が私と離れない、裏切らない理由を、延々と提示し続ける。そうすることで、私もちょっとしたストレス発散の機会を手にすることが出来ているのだ。


 花月は、時津胡桃が離れない理由としては、切り札級のものを今回持ってきていた。


 正確には少し前から用意をしていたのだが、より現実味を帯びてからと思っていた。


 …じゃないと、もしも彼女をぬか喜びさせることになったら、少し、嫌だから。


 携帯を操作し、とあるメールを表示する。


 それを不貞腐れたような、いじけているような時津の顔の前に持っていく。もちろん、腕は掴んだまま離さない。


 彼女は怪訝な顔をして画面を覗き込んでいたが、すぐに目を爛々と輝かせ、花月に食いつくようにして言った。


「凄い、これって、少し前に先生が出した作品の映画化の話だよね?え、花月、主役なの?」


「ヒ・ロ・イ・ン。まぁ、まだ決まっていないけどぉ。次が最終選考なの」


「…花月って、本当に凄いんだね」しみじみと感心するように呟く時津に、肩を落としながら花月は答える。「えぇ、今更?」


 何度も画面を見返す彼女を見ていると、花月は誇らしい気持ちになれた。


 いくら人気アイドルといっても、簡単に役を取れるわけじゃない。


 私では比較にならないぐらい演技の才能がある人、容姿が整っている人、声の通る人…、強大な競争相手となる人間を挙げれば、枚挙に暇がないほどだ。


 しかも、今回は、そこそこに著名な作者が原作を務めている作品の映画化なのだ。ここから有名になろうと野心を燃やす逞しいライバルたちはそこら中にいる。


 だが、それでも私は、掛けられるふるいの網の目を渡りながらここまで来た。


 どんなに能力の勝る相手だろうと、全員薙ぎ倒しながら、ここまで。


 それが出来るのは、ひとえに、私の愛されるための才能が抜きん出ているからである。


 もちろん、技術や容姿を磨くのは忘れない。

 そのうえで、多少の差は天賦の愛嬌でカバーする。


 人から好まれる術を、私は幼い頃から分かっていた。しかし、媚びるような真似をしないことも肝心だ。


 そうした卑しさは、いずれ自分の足を引っ張る。


 花月が花月である限り、永遠に続くであろう苦労の日々を思い返していると、唐突に、誰かに褒めてもらいたくなった。


 未だに画面に釘付けになっている時津に向かって花月が言う。


「もっと褒め称えてくれてもいいんだよ?」


「うん、凄い凄い」


 時津の眼差しは壊れたみたいに動かない。話を聞いていないのだ。


「今回、結構大変だったんだから。正直、原作は私には難しいから、読み込むのに時間が必要だったし」


「うん」


「滅茶苦茶努力したんだよ」


「うん」


「ちょっとぉ、聞いてないでしょ胡桃ちゃん」


 渇いた音を立て、軽く時津の太腿をスカートの上から叩く。すると、彼女は苦笑いのままでようやくこちらを振り向いた。


「だから、聞いてるし、知ってるよ。花月はいつも誰よりも努力してるし、誰よりも凄い。それぐらいは、私でも知ってることだから」


 困ったような笑顔の時津の、大人びた低いトーンの声が、不意打ちで花月の鼓膜と脳と、心臓を震わせた。


 時津はさらに続ける。


「まあでも、無理はしないように。たまにはここに来て、こうして息抜きしなよ。あ、邪魔はしないでね」


 時津の声は、嘘偽りのないものだった。


 私が今まで耳にして来た、中身のない賞賛ではなく、心の底から私を認め、評価し、案じてくれているものだと直感できた。


 この賛辞には、愛想笑いも謙遜もいらない。


 時津の言葉は、ずっと昔、まだ花月が幼く、子役として活動を始めた頃に母から言われた言葉を思い出させた。


 純粋に、花月を称賛し、可愛がってくれていた母の言葉。


 今は濁ってしまった祝福の言葉が記憶の底から蘇り、そしてまた、新しい形となって花月の前で美しく響く。


 あれ、こんなふうに褒められるのって、いつぶりだろ。


 私、がらにもなくちょっと感動してるみたい。


 だって、みんなは私の出す結果しか見てないし。


 輝かしい舞台の上の私しか、知らないし。


 色んなものに疲れて、孤独と静寂に満ちた場所を求めている私を知るのは、胡桃ちゃんだけだもの。


 気は利かないし、空気も読めない奴だけど。


 嘘を吐いたことは、今までだって一度もなかった。


 私の、分厚い皮だけを笑えるほど必死に愛するようなことも。


 花月はやや俯いた姿勢で、隣に座らせた時津の肩にもう一度もたれかかった。


 普段なら文句を言う時津も、少し唸っただけで、その後ため息を吐いてから黙り込んだ。それから、何枚かの頁をめくる音が聞こえた後に、ぼそりと零す。


「まあ、それなら許す」


「何を?」静かで、慈しみを感じさせる独り言みたいな声だ。「別にいいの」


 もう一言、声を発そうと口をわずかに開く。しかし、ほんの少しだけ吸い込んだ息を戻した花月は、そのまま口を閉ざすことを選んだ。


 胡桃ちゃんのために頑張ったんだよ、なんて…、私は一体何を言おうとしていたのだろうか。



(5)



 いつの間にか、駆け足になっていた。


 一日の締めくくりである、帰りのホームルームの終わりを知らせるチャイムが鳴ったときは、私はまだ靴箱あたりを早足で移動していたはずなのだが、階段を上がり、廊下に出てからはすっかり走り出していた。


 軽く息を切らしながら、教室へと向かう途中、ファンらしき生徒たちに声をかけられたが、今は忙しいと、振り払うようにして追い抜いた。


 手に掴んだ紙切れが、風を受けてばたばたと揺れる中、やっと教室へと辿り着く。


 花月は今までで一番教室を遠くに感じていた。


 まだほとんどのクラスメイトが残っている中、急いで時津の姿を探す。別に急ぐ必要はなかった。


 用事がなければ彼女は、放課後には資料室に行くので、決していなくなりもしないし、会えないこともないはずだから。


 それでも花月の動作は機敏にならざるを得なくなっていた。


 クラスメイトの視線が突き刺さる中、一人、興味のない様子で鞄に教材を詰め込んでいる時津を見つけた。


 ほっと胸を撫で下ろし、深呼吸して落ち着いてから時津の席のそばに移動する。


 数メートル近づいたところで、彼女も花月の存在に気付いたらしく、瞳だけで挨拶してきた。


 声を出せ、声を。本当に、時津胡桃は人気アイドル花月林檎に挨拶が出来るという幸せが…、あぁ、もうそんなことはどうでもいい。


「胡桃ちゃん、ちょっと」


 時津が返事をするよりも早く、彼女の手を掴む。


 非難がましい言葉を時津が並べるが、そんなものを気にする余裕はない。


 ついでに言うと、ざわめきに満ちたクラスメイトたちの声と姿も、今の花月の意識からは弾き出されていた。


 諦めたように手を引かれるままになっていた時津は、資料室に入って、花月がその扉を閉めたところでようやく抵抗を見せた。


「花月、いい加減離して」


 繋いだ手を眼前まで持ち上げられ、花月は軽く謝る。だが、すぐに軽口を叩いた様子から、彼女がたいして反省していないことは明確だった。


「これって、もしかして、スキャンダルかなぁ。パパラッチに二人の愛の逃避行を撮られたり」


「はぁ、もういいから離して」


 そう言いながらも、無理やりには解こうとしないのが、何とも時津らしい。


 相変わらず私のありがたみが理解できていないみたいだ。


 だけど、さすがに、さすがに今回は泣いて喜ぶだろう。時津胡桃。


「ふふ、これを見てもそんな態度が出来るのかなぁ?」


 ひらひらと手に握っていた紙切れを、時津の顔の前で揺らす。


「何それ」と乱暴な手付きでそれを奪い去った彼女に、一瞬だけムッとする。


 だが、いつぞやのとき以上に驚愕の色へと染まっていく時津の顔を見ていると、すぐにそれも吹き飛んだ。


 時津に見せたのは、例の映画の試写会のチケットだった。


 そこにはちゃんと主演女優として花月林檎の名前が印字されている。そして、原作者のところには時津が敬愛する筆者の名前もある。


 誇らしげに微笑した花月は、すっかり魂が抜け落ちている時津の体を引きずって、定位置の窓際へと連れて行く。


 初めて彼女とここで遭遇したときよりも、随分冷たい日差しになっていた。


「凄い…、花月、選ばれたんだ」ようやく現実に帰って来た時津がうわごとのように呟く。


「ま、私が本気出したらこんなものよね」


 ふふん、と胸を張り、時津が躍るように喜ぶ姿を見せるのを心待ちにしていた花月だったが、予想とは裏腹に、時津は残念そうに小さく息を吐き、名残惜しむように指先を動かして、チケットを私の掌に押し当てた。


 てっきり喜んでもらえると思っていた花月は、落胆したように暗い目をして時津の表情を見返した。


「正直、羨ましいな」


「何が」期待を裏切られたような、不貞腐れた口調で聞き返す。


 自分をコントロール出来ていないな、と客観的な自分が自分を評価する。


「会えるってことでしょう?先生に」


「…うん?うん」


「おこがましいけど、私も一度会ってみたいと思うから」


「会えばいいじゃん」時津の言っていることがよく分からなくて、突っぱねるような言い方になる。


「いや、会えるわけがないでしょう…。私は花月と違って、芸能人でもなんでもないんだから」


 唇を尖らせ、拗ねたようにぼやく彼女の横顔に、ようやく今何が起こっているのかピンとくる。


「あー…、なるほどねー」


「何?何がなるほどなの」


「これ、胡桃ちゃんのだよ」風に揺れる木の葉のようにチケットを揺らす。「え?」


 ぽかんとした表情の時津に、今度は誤解がないように説明する。


 配役が決定した際に、試写会のチケットを何枚か貰ったこと。


 これがそのうちの一枚で、元々時津にあげるつもりで持ってきたこと。


 さらに、少しだけなら先生に会わせてあげられる予定であること。


 間延びした口調でたっぷり時間をかけて、それらを説明したところ、時津は、初めは他人事のように呆然と聞いていたのだが、話が終わって彼女の空いた片手に無理やりチケットを握らせたあたりで、ようやく我に返った様子で口を動かした。


「え、ちょ、わ、私の?え、えぇー…」


 よく分からない言葉を断続的に発していた彼女は、握っていたチケットをまじまじと見つめてから、ぱあっと瞳を輝かせ破顔した。


 その表情を至近距離で見ることとなった花月は、初めて目の当たりにする時津の、年相応の愛らしさにぎょっとした。


 か、可愛い…。こいつ、美人系のくせにこんな顔も出来るのか。


 何だか押し負けているような気持ちになって、とにかくこちらのペースに持ち込もうと声を発しようとしたとき、途端に時津が私の体を抱きしめた。


 長い手で絡め取られるようにして、一回りほど小さい花月がその柔らかな牢の中に閉じ込められる。


 あまりに不意に訪れた人生初の柔らかみに、思考がかき乱され、パニックになりかける。そのうえ力の差は歴然としていて、両手で引き剥がそうとしてもびくともしない。


「く、胡桃ちゃん、苦しい…」首が締まっているのか、顔も熱くなってきた。


「あぁ、花月、ありがと、ありがとう!凄い、本当に楽しみ。夢じゃないよね?ね?」


「離して、は、離せ…」


「あ、ごめん」


 不意に花月を抱きしめていた手を解除したため、両手に力を込めていた花月は、その勢いのままお尻から床に激突した。


 この野郎、と荒々しく呼吸を整えながら時津のほうを睨みつける。


「ちょっとぉ――」


 視線を彼女の足元から、顔にかけて上らせたとき、しゃがみ込んだことで緩まった胸元から白い肌が顔を覗かせているのが見えた。


「ごめんって、大丈夫?」


 あ、見えそう…。


 白い鎖骨を縁取った先に、青い下着の紐が見える。


 後少し屈んでもらったら、雪のような斜面がその美しさをさらすことになるだろうと予測がつく。


 湧き上がる情動が、私の背中を酷く乱暴に突き上げた。その衝撃に何とか耐えて、ぐっと視線を逸らす。


 無防備で、穢れを知らない。


 自分がどう見られる可能性があるかなんて、時津胡桃は何一つ考えていない。


 同性だからかもしれないが、甘すぎる。しかし、それでいて時津胡桃らしいと花月は思った。


 錯綜した思考を悟られないように、小言を言いながら立ち上がるも、ほとんど時津は上の空だった。


「どうしよう…、私、お洒落な服なんて持ってないし…。どんな恰好で先生に会えば良いのかな」


「何でもいいと思うよぉ?別にぃ」


「そういうわけにもいかないんだって、あぁ、本当にどうしよう…」


 あーでもない、こーでもないと迷う時津に、今度は不満が込み上げてくる。


「あのぉ、胡桃ちゃん。もうちょっと私に感謝してもバチは当たらないと思うよ?」


「もちろん、感謝してるって。花月、本当にありがとう。何か、花月にお礼しなくちゃね」


 満面の笑みで感謝を口にされ、それ以上何も文句が言えなくなったところで、花月はこっそりとため息を吐き出した。


「まあさぁ、お礼はいいよー?胡桃ちゃん、喜んでくれたみたいだしぃ、ついでにハグも貰ったし」


 その言葉は本心だった。


 そもそも花月は、他人から何かを与えられる、ということに過剰な期待をしないタイプの人間だった。


 愛されることこそ、彼女にとって誰かから得られるものの中で、最上級の贈り物だったわけだが、その定義は曖昧で、抽象的である。さらに加えると、花月は、その行為を時津にはまるで求めていなかったのだ。


 時津胡桃は、私に興味がない。つまり、周囲の人間の一切にも。


 だから、人避けとしても、憩いの場としても誰よりぴったりだった。


 その事実が、何故だか今は酷く花月を苛立たせた。


 自身の予期せぬ感情のうねりを、内心不思議がりつつも、不自由に捉えていた花月だったが、その直後に時津が顔を赤らめたのを見て、釈然としない衝動に駆られた。


「先生に会える、うわぁ…、こんな幸せなこと、あっていいのかな…」


 …何だ、その顔。


 知っている、私は知っている。その表情を。


 花月は出来る限り自分を落ち着かせつつ、窓枠に腰掛けて、床に座り込んだ時津を見下ろした。


「えっとぉ、胡桃ちゃんさ、あの作者さんのこと、好きなの?」


 驚きに肩を跳ねさせた時津は、何も答えなかった。それが答えだとも言える。


 おかしい。そんなの、おかしい。


 だって、時津胡桃は…。


「あ、愛してるって感じ?」


 声が裏返りそうになって、心臓がきゅっとなる。だが、言葉を口にするのをやめても、まだ心臓の様子はおかしかった。


「ば…、馬鹿、やめてよ…恥ずかしい」


 顔を赤らめ、膝の間に頭を突っ込む時津。


 時津胡桃は、人を愛することに関して、欠陥を備えた人間だったはずだ。


 だから、私のことも愛せない。興味もない。


 それが、違った?


 私のことはどうでもいいけど、あの女物書きのことは愛してるって?


 …は?


 ふざけんな。


 いいわけないじゃん、そんなの。


「胡桃ちゃん、やっぱり、お願いしたいことあるんだけど…、聞いてくれる?」


 自分でもぞっとするぐらい、普段どおりの声が出た。


 舌っ足らずで、間延びした、スイーツみたいに甘い声。

 今考えると、随分毒々しい色の声だ。


 時津は、そんな毒虫みたいな女がそばにいて、しかも、その頭の中は、沸騰しそうな怒りや悔しさ、羞恥、そして、破壊的な支配欲によって埋め尽くされているということを知らなかった。


 想像のしようもなかったといって良い。


 それだけ花月は、その感情の嵐を表面に出さなかったのである。だから、彼女は何の疑いもなく首を縦に振って言った。


「もちろん、これだけのことをしてもらったんだから、何でも――」


 最初に浮かんだものは、柔らかいな、という陳腐な感想だった。


 次は、ねじ込んだ舌先から感じる、異様な熱への興奮、それから次に、思いのほか筋肉質ではない時津胡桃の肩の感触。


 何が起きているのか、まるで見当もついていない様子の時津を尻目に、少々強引に彼女を冷たい床に押しつける。


 そのときになってやっと、時津は何か声にならない声を上げていたが、耳を貸さず、馬乗りになって上からまた口付けを落とした。


 ざらりとした舌の感覚、舐め上げた歯茎の、ぞっとするほど性を感じさせるリアルな形。


 抵抗を試みているのか、それとも頭が真っ白になっているのか、どちらとも分からない微妙な手足の動きと、鼻だけで行われる風が抜けるような息遣いに、花月はますます自分の昂りが抑えられなくなっていった。


 変な声出すなよ、時津胡桃。


 っていうか、私を愛せよ、変な女じゃなくて、私を愛せ。


 元々誰もいらないなら、それで構わない。許す。


 でも、誰かが欲しいっていうんなら、他の誰でもない、私じゃなきゃ駄目だろ。


 馬鹿にするな、冗談じゃない。


 自分を誰にも明け渡すな。


 そうじゃないなら、私のものにならなきゃ駄目だろ、時津胡桃。


 私自身の呼吸も覚束なくなったところで、ようやく胡桃が私の体を押し上げた。


 馬乗りになったまま、上から見下ろす彼女の顔は、形容し難いいくつもの感情によって彩られていた。ただ、少なくとも明るい色ではない。


「な、何するの、花月」


 声が震えている。それすら今の私にとっては劣情の炎への薪にすぎなかった。


「いいじゃん、胡桃ちゃん。ちょっとぐらい、さ」


「や、め」


「減るもんじゃないって、ねぇ、胡桃ちゃん」


 もう一度、花びらみたいな唇にキスをしようと上半身を折り曲げる。


「やめて、おかしいって、花月!」


 ぐっと、押し返された瞬間、私の中で渦巻いていた禍々しい気持ちの全てが、濁流のように喉を突き破って飛び出す。


「おかしいのは胡桃でしょ!」


 怒号に、胡桃の体が怯み、抵抗が止まった。


「あの女が、胡桃のために何をしてくれるの?してくれないじゃん、一方的に胡桃が憧れてるだけじゃん!だったら…、私を愛せよ!」


 怒鳴りつけた勢いで、彼女の制服の一番上のボタンを引き千切る。


 あらわになった白い首元、鎖骨を見て、劣情が加速し、思わずかじりつく。


 甘い、どんな花やスイーツよりも甘い匂いにあてられて、くらくらする中、無意識のうちに白い肌に強く吸い付いた。


 品のない音が鳴ると同時に、胡桃はいよいよ身の危険を感じたのか、全力で体を動かし、私の軽い体を弾き飛ばした。


 肘が近くの椅子にぶつかり、鈍い音を立てると同時に、痛みで、ほんの少しだけ冷静さが戻ってくる。


 ハッと、自分がしていたことの恐ろしさに気付き、花月は勢い良く時津のほうへと顔を向けた。


 そこには、変わらず、読み取り難い表情をしたまま、こちらを睨みつけている時津の姿があった。


 彼女は花月と目が合うや否や、唾を吐き捨てるかのように言った。


「馬鹿…!私は、私は…、あなたを…!」


 彼女は言葉の途中で涙ぐむと、荷物と死骸みたいなボタンを置いて、はだけた姿のまま資料室から走り去っていった。


 あなたを…何だろう。


 信じていた?愛していた?

 友達だと思っていた?善人だと思っていた?


 分からない、分からない。


 違う、私は、ただ…、胡桃ちゃんが…、何だろう、胡桃ちゃんが、一体何だって言うんだろう。


 欲しいものは、いつだって私の手の中に転がり込んできた。


 愛も、地位も名誉も、全部。


 そうだ、欲しいもの。胡桃ちゃんが、私は欲しいだけだ。


 愛されたい、だけだ。


 あれ、今まで…どうやって、欲しいものを手にしてきたんだっけ。


 おかしい…、


 愛され方が、分からない。

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