生贄の巫女、1日だけ外で遊ぶ【純度100%百合短編】
小さな家屋の座敷牢の奥に、巫女様はいた。
海村の漣が静かに聞こえる中、私は巫女様と初めて出会う。
巫女様は畳の上で書物を開いていた。
その目は人形のように虚ろであり、とても幽鬼的な雰囲気を纏っていた。
扉の開く音が聞こえると、巫女様は顔を上げた。
女にしては大柄な私の体をじっと見つめる。
「誰?」
巫女様は短く私に問う。
昼間だというのに薄暗いその部屋では、巫女様の赤い瞳だけが照っている。
「私は、あなたの舟送り。明日が、あなたの命を神様に捧げる祭事の日なの」
私は長老から受けた言伝をそのまま巫女様に伝える。
巫女様は顔を伏せ、やがて小さな口を開いた。
「・・・・・・そう、ようやく私は神様の元にいけるのね」
巫女様は書物をそっと畳の上に置き、古ぼけた牢の黒い染みに首を向ける。
そこに感情は宿らない。ただ巫女様は淡々とその事実を受け入れていた。
「・・・・・・明日の正午の時間、あなたを沖にある鳥居の元にまで送っていくから。
だから、その、準備をしておいて」
「ええ、わかっているわ。私は生まれた時から、巫女のお役目を与えられているから。私はずっと、神様にこの身を捧げるために今まで生きてきたのだもの」
巫女様は淑やかに着物の袖を揃え、正座をする。
この閑散とした村には似つかわしくない綺羅びやかな衣装が微かに揺れる。
巫女様はとても美しかった。
雪のような白い肌に薄紅の頬を宿し、艷やかな黒髪を腰まで下ろしている。
『その容貌は人を超えた神聖な村の宝であり、神の捧げ物となるにふさわしい』
村ではそう評されており、この座敷牢の中でずっと巫女様は育てられてきた。
この村では10年に一度、美しい娘を神様に捧げる風習があった。
「・・・・・・・・・・・・」
私はその村のしきたりに思いを馳せ、黙り込んでしまう。
目の前の明日命を失う巫女様を見ていると、胸を締め付けられる思いになってしまった。
巫女様は部屋の奥の箪笥から、神事に纏う巫女服を取り出す。
丁寧にそれを四角形に畳み折り、畳の上に膝をついて綺麗に並べる。
「ねえ、あなたは何か、最後にやりたいことはない?」
私はぶしつけを承知で衣服を整える巫女様に尋ねた。
巫女様は一瞬首を傾げた後、そのまま首を横に振った。
「いいえ、ないわ。私は儀式の時が来るまでここで待つだけ。私はずっと、神様の捧げ物になるために生きてきたのだもの」
巫女様は先程と同じ言葉を繰り返す。
その赤い瞳には変わらない決然とした意志が籠められていた。
私はまた、どこかもどかしい気持ちになる。
そして私はとっさに座敷牢の鍵を開け、部屋の中に足を踏み入れた。
「ねえ、最後なんだから、何かしたほうがいいよ。
思い出を作るとか、その、そういうことをしたほうがいいと思うよ。
そのほうがえっと、あなたにとってもいいと思うんだ」
私はたどたどしく、巫女様に呼びかける。
自分でも何故こんなことを口走っているのだろうかと思う。
「思い出? 私に思い出なんて必要ないわ。今までだって思い出なんてなかったもの」
巫女様は突っけんどんに私の提案を跳ね除ける。
巫女様は目を瞑り、正座したままじっと動かずにいた。
「そんなことないよ! ほら、その、せっかくこれから外に出られるんだからさ。
外に出たら、何か楽しいこととかあるかもしれないよ。だから、ほら、立って」
私はいたたまれず、強引に巫女様の手を引いた。
その拍子に、巫女様は足をよろめかせ前に倒れそうになる。
私はとっさに巫女様の背中に手を回して抱き止める。
巫女様も勢いのままに私の背を抱き、私たちは互いに見つめ合う形となった。
*******
私と巫女様は舟の上にいた。
村の浅瀬で私は櫂を漕いで、海の上で当てもなく漂っていた。
巫女様は腿の上に両手を揃えて座り、ただじっと黙っていた。
「えっと。今日は、日差しが強くていい天気だね」
私は言い淀み、月並みな言葉で巫女様に呼びかける。
今更ながら自分が全く無計画なことに気づき、どうしたものかと考えあぐねてしまう。
けれど巫女様は空を見上げ、その双眸を眩しそうに輝かせて言葉を返した。
「ええ、太陽をこんなにはっきりと見たのは初めて。
私は窓の外からしか、太陽の光を見たことがなかったから」
巫女様は目を細めて、その燦々とした陽光に目を凝らす。
巫女様は初めて出た外界に心を奪われている様子だった。
私はまた胸を痛める。
巫女様にとって太陽ですら、当たり前のことではなかったのだ。
巫女様にとって、あの薄暗い座敷牢が自分の世界の全てなのだった。
その何も知ることができなかった巫女様は、今度は視線を海に落とす。
「この青い海の底に神様がいるのね。私はずっと、神様の元に行きたかった。私さえいなくなれば、この村はきっと神様が守ってくれる。私はずっと、その日を夢見てきた」
巫女様はまた独り言のように神様の話をする。
何かに取り憑かれたように、同じ言葉を繰り返している。
巫女様は他のことを考えられない。
それが巫女様にとっての、自分が生きる理由の全てだったのだ。
私はそれが嫌だった。
それは本当に巫女様が望んでいることなのだろうか?
私はずっとそれを疑問に思っている。
私は巫女様の頭の中から神様のことを追い払いたかった。
だから私は巫女様の服を脱がせた。
「な、なに?」
突然の私の乱暴な行動に、巫女様は狼狽えた表情を見せる。
雪のような白い面差しが、さっと赤く染まる。
きめ細やかな肌が、些細な抵抗とともに露わになる。
巫女様は真っ白な下着姿となった。
「泳ごうっ!」
私は思いつくままに叫んだ。
私も舟守の衣服を脱いで、下着姿となる。
そして私は巫女様を抱いて、海に飛び込んだ。
*******
夕日が沈むとともに、私と巫女様は海の上で手を繋いでいることに気づいた。
私の短い髪と巫女様の長い髪が海面の上にたゆたっている。
波に揺られるままに、顔だけを水上に浮かべて目を瞑っていた。
どれくらいこうしていただろう?
私は初めて巫女様と出会い、
巫女様は初めて海に触れたのだった。
「・・・・・・今日は、楽しかった」
巫女様は海水の中で、私の手を細い指で強く握る。
「海が、こんなに気持ちいいものだなんて初めて知った」
私も巫女様の手を大きな手で握り返す。
そして私はもう片方の手を漕ぎ、巫女様の傍にもっと近づこうとした。
「これなら、私も安心して神様の元にいけるわ」
けれど、巫女様は神様のことを忘れていなかった。
巫女様にとって、やはり神様は永遠の楔なのだった。
心の中で、いつまでも神様に囚われ続けている。
私は思わず泳いでいた手を止めた。
その水面に浮かぶ白い肌の距離は近いはずなのに、どこまでも遠くにあるような気がした。
そして私は、夕日に照らされたこの海が冷たいことを思い知らされる。
巫女様は明日、この冷たい海の中に沈むのだ。
その残酷な事実を前に、私は巫女様の手を離してしまう。
「どうしたの?」
巫女様は、海の中で片手を泳がせる。
私の手をまた探ろうとする。
その波紋は朱色の水面を揺らし、私の体の芯にまで伝わってくる。
けれど私はその度に、ますます海の冷酷な温度を感じ取った。
この海は結局、私と巫女様を離れ離れにしてしまう。
私はもう、巫女様と手を繋ぐ勇気が持てずにいた。
「・・・・・・今日は、ありがとう。私を誘ってくれて」
冷たい海の中、巫女様は微笑む。
けれど私の視界は濡れていて、巫女様の顔がよく見えない。
そしてその滲んだ景色はこれから先、永遠にぼやけたままになってしまうのだろう。
私は巫女様に微笑み返すことができなかった。
けれど巫女様は、長く自分の思いを紡いだのだった。
「私、こうして誰かと遊んだことなんてなかった。
嬉しいっていう気持ちも、楽しいっていう気持ちも、こんなに温かいものだなんて知らなかった。
これが、”幸せ”って感情なんだと思う」
巫女様は初めてなのにどこか懐かしむような、蕩けるような、そんな声音色の声で語る。
私は何も答えを返せない。
それでも巫女様はまた無垢な声で言葉を連ねた。
「だから、ね。
私は、この思い出を絶対に忘れない。
あなたとこうして一緒に泳いだ記憶を、永遠に忘れない。
例え私が消えたとしても、あなたのことをいつまでもずっと覚えている。
だから、ね。
私は神様の元に行くよ。
私はこの村のことを、あなたのことを守りたいから。
私は巫女としてちゃんと、私が今まで生きてきた理由を全うするよ」
巫女様は決然としてまた、私に温かく笑いかける。
その気持ちに嘘がないことが痛いほどに伝わってきた。
けれど巫女様は泣いていた。
私の歪む景色の中、いくつもの雫の筋が白い肌に伝っている。
やがて涙は、冷たい海に混じって消えていく。
巫女様も静かに目を閉じ、海を受け入れていた。
その決意を知ってしまうと、
私はもう、巫女様を見放すことしかできなかった。
「だらか、ね。
さようなら、ア――」
巫女様が言いかけた時、私は巫女様を抱き寄せていた。
私の名前が途切れて消える。
私は彼女に唇を重ねていた。
******
そして儀式の時は訪れた。
曇り空の下、潮風が吹き荒ぶ浜辺のほとりで、村中の人々が集まっていた。
私は浜辺から舟を漕ぎ出す。
私の正面には、巫女服に礼装した彼女が膝を折って座っている。
彼女は静かにその時を待つ。
ポツリポツリと雨が降る。
やがて浜辺の人々の姿は点となり、遠い遠い沖まで来てしまった。
「・・・・・・今日は、雨が振っているのね」
彼女は雨音の雫のようにポツリと呟く。
「こんなに、雨が冷たいものだなんて知らなかった」
そして彼女が静かに言葉を紡ぐと、彼女は体を震わせた。
顔を俯かせ、必死にその震えを抑えようとしている。
それは寒さのせいではない。
彼女はこの儀式を前にして、恐れの感情を抱いていたのだ。
神様の元へ行くこと、その直前には”死ぬ”という通路がある。
彼女は儀式のことも忘れそうなほど、心と体を震わせていた。
私は思わず漕いでいた舟を止めてしまう。
私は彼女に寄り掛かり、細い肩を抱く。
けれど彼女は首を横に振った。
震えたままの手で、私をそっと押し返す。
「・・・・・・ううん、行って」
彼女は覚悟を秘めて私に指示した。
その決意はやはり本物だった。
私にはもう、彼女を止めることができない。
私も舟を漕ぎ出すしかなかった。
雨の音は激しくなり、荒波が立ち込める。
そして鳥居の前まで着いた。
もはや村にいるはずの人影は見えない。
私は揺れる舟の上で、彼女と二人きりになった。
彼女は折っていた膝を伸ばし、真っ直ぐに整然と立ち上がる。
「これで、お別れね」
鋭い風の音が響く中、彼女は小さな声で私に告げた。
長い髪が無秩序に乱れ、荒れ狂う海を背にして私の前に立つ。
彼女の震えは止まっていた。
白と赤の巫女服は濡れそぼり、その全てを神様に捧げようとしている。
村の掟に従う彼女は、もはや神物の糧になろうとしている。
私は手を伸ばした。
大きく荒波に揺れる舟の上で、私は必死に彼女の名前を叫んだ。
その声は嵐の音に掻き消される。
神様を宿した海は、大荒れとなっていた。
――そして彼女は海に消えた。
大きな水飛沫を上げ、あっという間に濁流に飲み込まれる。
舟の上で私だけが取り残された。
その小さな木舟の上には、彼女がいた痕跡はどこにも残されていない。
舟底には波と雨の水流が溜まっていき、私の足に蛇のように絡みつく。
私の全身は冷たい水に塗れ、鉛のように重くなっていった。
けれど私は確かに感じ取っていた。
私の指先に触れた、彼女の仄かな温度を。
私が手を伸ばした時、彼女も手を伸ばしていた。
大きく開かれた手のひらの指の一本が、私の手のひらの上を掠めていた。
その海に消えゆく刹那の瞬間、私は彼女の赤い双眸を捉えていた。
――助けて――
彼女の瞳ははっきりと、私にその望みを伝えていた。
離れてしまった私の手を、もう一度掴み取ろうとしていた。
神様の憧れが彼女から消えて、私の姿を求めていた。
――だから私は、海に飛び込んだ――
荒波の中に呑まれ、全ての音が消えていく。
私は暗い海水の中にいた。
そして私は両手と両足を藻掻くように動かし始める。
沈むように濁流を掻き分け、海の底へと泳いでいった。
そして歪み切った景色の中、そこには彼女の姿があった。
彼女は両手と両足を力なく広げ、その身を全て海に捧げている。
私はそれに抗った。
無我夢中になって彼女の元に辿り着いた。
そして私は彼女の細い体を抱く。
力いっぱい足を動かし、そのまま海面の上へと目指す。
やがて私の面差しには、一筋の光が差し込む。
潮流の動きは穏やかとなり、反射する海面が目に入り込む。
私はその光を目指し、彼女を抱いて浮かび上がろうとした。
けれど私はその時、視界が暗闇に包まれる。
やがて私の瞼は重く閉ざされ、私の意識はそこで途絶えた。
******
目が覚めると、舟の上にいた。
そして気がつくと、私は彼女の口づけを受けていた。
彼女の湿った温かい呼吸が何度も、私の胸に送り込まれる。
どこでそんなことを覚えたのだろう?
彼女は必死に私の唇を食み、深い吐息を送り続ける。
私は水を吐いて、咳をした。
荒々しい呼吸を整え、私は舟底から起き上がる。
「ここ、は――?」
私は辺りを見渡す。
すると近くには鳥居があり、そこが村の沖合なのだとわかった。
けれど村は海に沈んでいた。
もはや人がいた形跡はどこにもない。
私が生まれ育った故郷はもうなくなってしまっていた。
「私は、神様を怒らせてしまったのね・・・・・・」
私と同じ方角を見ていた彼女は、囁くように呟いた。
青く澄み切った空の下、潮風が彼女の長い黒髪を揺らす。
「私は巫女なのに、神様に命を捧げなければならなかったのに、お役目を果たすことができなかった。私は、あれほど神様の元に行きたかったのに、もう神様の所へは行けなくなってしまった」
感情の宿らない瞳で、彼女は茫然として海に沈んだ故郷を眺めている。
そこに彼女の人生の中にあったはずのものは、もうどこにもない。
彼女が過ごした座敷牢も、彼女を縛り付けていた村の戒律も、そして彼女が憧れていた神様さえもいなかった。
そして彼女は抜け殻のように言葉を漏らした。
「・・・・・・私は、これから何をすればいいのだろう?」
太陽の陽だまりは、彼女の体を羽毛のように包み込んでいた。
波の音は穏やかであり、舟は揺り籠のように優しく揺れていた。
彼女の表情は無垢であり、世界のことを何も知らない。
それはまるで彼女が新しく、生まれたばかりの赤ん坊であるかのように思えた。
私はそっと、海を見つめる彼女に寄り添う。
「あなたは、あなたがやりたいことをやればいいんだよ」
彼女の肩に頭を乗せて、私は彼女に思いを伝える。
私の頬の上には、確かな彼女の体温が伝わってくる。
彼女は振り返り、甘える私をじっと見つめた。
「あなたはもう、巫女様じゃないんだよ。ここにはもう、神様もいない。あなたはもう、普通の女の子なんだ。だからこれからは、あなた自身が望んだことをすればいいんだよ」
そう告げると私は彼女からそっと離れ、何もない海原で櫂を取った。
私は舟を漕ぎ出し、前へ進む。
行く宛なんてどこにもない。
けれどそこには確かに、私が傍にいたい女性がいた。
「私は――」
彼女は立ち上がり、また私の傍に寄る。
櫂を持つ私の手に繊細な両手を重ねる。
そして彼女は、最初の願いを口にした。
「またあなたと、思い出を作りたい」