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第6話

 王宮の城門をくぐる。

 疲れてはいたが、隊員達の表情は明るい。

 作戦は全て成功した。隊には怪我人もなく、全員が無事に帰還した。

 それは作戦が良かったからだと誰もが思っていた。最初は面倒だと思ったが、ジュリアの作戦は最良だったのだ。彼女が立てたのは潜入作戦だった。恐らくかなり大掛かりな組織犯罪だろうと踏んだジュリアは、全ての罪人を逃さず捕らえることと、隊の安全を最優先した。それは密売に関わる者たちを洗い出しながら、各所に潜入する作戦だった。時間はかかるし潜入には手間もかかる。だがそれだけの価値はあった。国境を越える所から最終的な買い手まで、漏らさず逮捕することが出来た。しかも派手な戦闘もなかったから、怪我人も殆どいない。

 厩に馬を繋ぐのももどかしく、アレックスは走り出した。国王への報告は明日でいい。今はとにかく軍の詰所へ行きたかった。

 詰所に走り込むと、ヒューゴが先に気づいた。

「アレックス、戻ったか」

 ヒューゴの声にジュリアが書類から顔を上げた。ゆっくりと立ち上がり、控えめに微笑む。

 アレックスはジュリアに駆け寄り、そのまま強く抱き締めた。


 隊員達は声が出なかった。詰所で出迎えたジュリアは、見違えるように美しかった。もともと美しかったが、以前はガリガリに痩せて子どものようだった。しかし3か月ぶりに見たジュリアは、ほっそりとはしていたが女性らしい柔らかな曲線を身につけており、可愛いだけではなく上品で美しく、爽やかな色気さえ感じた。

「ジュリア!また綺麗になったね!」

 ライラがジュリアを抱き締めた。ジュリアも微笑んで抱擁を受ける。他の隊員達も次々とジュリアの周りに集まる。ジュリアは微笑んで隊員達を労っている。アレックスはジュリアから視線を外さずに、ヒューゴから報告を受けていた。

 アレックスがいくつか詳細を尋ねると、ヒューゴがジュリアを呼んだ。

「細かい事は嬢ちゃんのほうが詳しい」

 ヒューゴに呼ばれてジュリアが駆けてくる。アレックスの質問にジュリアは即座に書いて答えた。ヒューゴから聞いた時はにわかに信じ難かったが、彼女が集められた全ての情報を記憶していると言うのは本当らしい。何を聞いてもジュリアは考える様子もなく即答した。ジュリアはもはや隊になくてはならない存在になっていた。


 本当はジュリアを連れて帰りたかったのだが、何故かヒューゴが反対した。

「嬢ちゃんは公爵夫人から預かってる大切な子だ。妻はもう本当の娘みたいに可愛がってる」

 そこまで言ってヒューゴは声を落とした。

「アレックス、信じてない訳じゃないが、嬢ちゃんを連れ帰ったら、朝まで嬢ちゃんの純潔が保証できるか?」

 アレックスは答えに窮した。正直なところ、今ここで口付けたいのも必死で堪えているのだ。家に連れて帰ったら、ジュリアに襲い掛からない自信は…全く無い。

「可愛い娘の身の安全のために、嬢ちゃんは俺が連れて帰るよ」

 アレックスは残念そうに頷くしかなかった。


「…あの…父上、母上…もう一度、お願いします」

 アレックスはカトラリーを置いて食卓の両親に聞き返した。

「だからね、聖堂は候補を3つにまで絞り込んだから、あなたが決めてもいいわ。ドレスはもう一流のデザイナーと仕立て屋を予約してあるから大丈夫」

「招待客選びは任せなさい。披露宴の席次も考えてやる」

 アレックスは目を閉じて頭の中を整理する。

「…ですから、一体何の話ですか?」

 公爵夫人がニッコリと笑う。

「何言ってるの?あなたの結婚式に決まってるじゃない」

「………」

「アレックス?どうした?頭でも痛いのか?」

 頭を抱えた息子を公爵が眺める。

「…なんで勝手に俺の結婚式を企画してるんですか⁈そもそも一体誰と結婚させようとしてるんですか⁈」

「ジュリアよ」

 あたりまえでしょ?と言う顔でのたまう母をアレックスが驚いて見る。

「は?」

「は?じゃありませんよ。ジュリアをピジェル家の養女にする手続きはもう進めてありますからね。あなた達、もちろんここに住んでくれるわよね?」

「君は本当にジュリアを気に入ってるな」

 公爵が夫人に話しかける。

「だってあんな可愛い娘がずっと欲しかったんですもの。やっと念願が叶うわ。それに、あなただってジュリアを気に入っていらっしゃるでしょ?」

 公爵も嬉しそうにうんうんと頷く。

「あの子は賢い。話が尽きないのだよ。何を聞いても素晴らしい知識と見解を持っている」

 公爵がアレックスに向き直る。

「国王陛下にも承認をもらわないとならんが、ピジェル侯爵家とうちなら問題ないだろう。私達とヒューゴ達も承認申請に立ち会うからな」

 アレックスは思わず立ち上がった。

「ちょっと待ってください!ジュリアは何と言ってるんですか?」

 公爵夫妻はキョトンと息子を見上げた。

「あなた、ジュリアにまだ結婚を申し込んでないの?」

「そんな暇ありませんでしたよ!仕事が忙しくて…」

 夫妻は顔を見合わせる。

「じゃあ早く申し込め。もう既成事実は作ったんだろう?ジュリアも承知してくれる」

「既成事実?あなた、それってキスのことじゃありませんわよね?」

 夫人が公爵に詰め寄った。夫人の目がキラキラしている。

「ああ。夜中にアレックスがジュリアの部屋から出てきたのを見かけたんだよ」

「まぁ!アレックス、あなたにしては上出来よ!褒めてあげます」

 嬉しそうな夫人の様子にアレックスが慌てる。

「いやいやいやいや、違います!父上の勘違いですから!ジュリアにはまだ何もしてません!」

「まだって事は、するつもりは大いにあるんだな…」

「それにキスはしたでしょう?ジュリア、真っ赤になっちゃって可愛かったわ…」

 勝手に納得している父と目をキラキラさせている母を前にして、アレックスは困惑と混乱の中で心臓がドクドクと激しく鼓動するのを感じていた。


 アレックスは翌日、ジュリアを伴って作戦成功の報告のため国王に謁見した。そこは正式な謁見の間で、他にも大臣や官僚・役人が大勢いた。アレックスがドレス姿の美女を伴っているのを、国王はじめ誰もが驚いて見る。

「トリプレット将軍、報告の前に、その娘は?」

「はい。以前一度陛下にお目通りしております鉄砲水を予測した者です」

「あの時の娘か。様子が変わったから分からなかった」

 ジュリアが頭を下げる。

「彼女は…ジュリア・ピジェル。ピジェル侯爵家の養女です」

 ジュリアが頭を下げたまま驚いたようにアレックスに視線を送った。アレックスはそっとジュリアの手を取った。

「養女の話は聞いている。そうか、その娘のことだったか」

 国王は頷く。

「彼女は誰よりも今回の件に精通しておりますので、報告に同席させます」

 国王は納得したようだった。

「話が逸れたな。詳しく報告してくれ」

「はい」

 長い報告が始まった。


 アレックスの報告を聞きながら、所々ジュリアがメモを差し出して補足する。国王が尋ねるより早くジュリアがメモを書き始めることもあり、国王も官僚たちも2人のコンビネーションとジュリアの賢さに感心していた。

 報告が終わると、国王は満足げに大きく頷いた。

「やはりトリプレット将軍に任せたのは間違いなかったな。わしの最大の懸念事項をこれほど見事に早く解決するとは思っていなかった。よくやった」

「ありがとうございます、陛下」

 アレックスが姿勢良く礼をする。

「今回もピジェル家の娘が良い働きをしたのだな?」

「はい。彼女無しでは成功はあり得ませんでした」

「そうか」

 国王は頷いた。

「トリプレット将軍と隊の者には休暇と褒美を出そう。もちろんピジェル家の娘にもな。褒美の希望があれば言ってくれ」

「光栄です、陛下」

 アレックスとジュリアは揃って頭を下げた。


 謁見の間から下がると、ジュリアが何か聞きたそうにアレックスを見上げてきた。

「ジュリア、説明を…」

 アレックスが話そうとするより早く話しかけて来る者がいた。

「ジュリア嬢!初めまして。私は…」

「ジュリア嬢、少しお話を…」

「ピジェル侯爵家とは以前より懇意に…」

 ジュリアの周りにわらわらと若い男が集まってきたのだ。謁見の間に入る前からジュリアの美しさは注目を集めていたし、謁見中はその聡明さでさらに注目を集めた。社交界でも見かけた事のない極上の美女を、しかも名門侯爵家の娘を男達が見逃すはずがない。

「失礼。急ぎますので」

 アレックスは慌ててジュリアの腰に手を回し抱き寄せて、男ばかりの人垣を強引に突破する。制服姿のアレックスを見れば将軍だと分かるだろうに、男たちは構わずジュリアに群がってきたのだ。うかうかしていたらジュリアを拐われそうだった。

 アレックスは急いで馬車にジュリアを押し込む。自分も乗り込んですぐに出発させた。

 馬車の中で2人は一息ついた。

「ジュリア、大丈夫か?」

 ジュリアが頷くが、驚いた表情のままだ。ジュリアは何が起きたのか分かっていないようだ。それもそうだろう。劣等感に苛まれてヴァイオレットの影として生きてきたジュリアは、注目されたりチヤホヤされる事に慣れていない。まさか自分が貴族の男たちから猛烈にアプローチされるとは思っていないのだ。

 ジュリアがアレックスを見つめる。何か訊きたそうだ。

「さっき話した事は…帰ったら、全て説明する」

 アレックスは覚悟を決めた。


 アレックスはジュリアを伴って自宅に帰ってきた。両親に見つかるとややこしい事になりそうだったので、アレックスは城内に入らずにそのままジュリアの手を引いて庭へ出た。手入れされた庭園の片隅の四阿に腰を落ち着けると、アレックスは話し始めた。


 南方の土地は豊かで、そこを領地に持つアプトン伯爵家は、かつては裕福だった。何もしなくても暮らしていける生活は、危機感を失わせた。10年ほど前、伯爵は慣れない投資話に手を出し失敗。それは投資詐欺で、ほとんどの資産を失うほどの借金を負ってしまった。そこに手を差し伸べたのは首都の豪商だった。借金の肩代わりを申し出たのだ。伯爵は藁にもすがる思いで豪商の申し出を受けた。だがそれは、犯罪行為へ手を貸す事の代償だった。借金返済の代わりに、国境警備を引き上げ、通行証を発行すること。豪商に言われるがまま、伯爵は犯罪に引き込まれていった。

「領地と家を守るための選択だっただろう。犯罪に気づきながらも、伯爵はそうするしかなかった」

 だがそもそも、投資詐欺から仕組まれた事だった。はじめから密輸ルートを確保するのが目的で伯爵を陥れたのだ。

 表向き暮らしぶりの変わらない伯爵家を疑う者はなかった。伯爵は長らく犯罪行為に手を貸し続ける羽目になっていた。すでに泥沼にどっぷりと嵌まっており、抜け出す事は不可能だった。

 だが伯爵家の不幸はそれだけで終わらなかった。伯爵は愛娘の美少女ヴァイオレットを犯罪とは無関係の良い家に嫁がせたいと思っていた。しかし密輸組織はそれを許さなかった。ヴァイオレットは西方のリアストー伯爵家に嫁ぐ事になった。リアストー伯爵家の領地は西方の国境に面しており、密輸組織は密輸ルートを広げるつもりだったのだ。実際ここ数か月、西方からの密輸品が入り始めていた。

「幸いにも、ヴァイオレットはリアストー次期伯爵の求婚に自ら望んで応じたそうだ。次期伯爵は美男で有名だからな。ヴァイオレットとしては、好いた相手と結婚できたと思っただろう」

 それがジュリアの慰めになるかは分からない。しかしジュリアが敬愛するヴァイオレットが不幸な結婚をしたのではないことは知らせてやりたかった。

 あとはジュリアも知っての通りだ。密輸を手助けした罪に問われ、アプトン伯爵と夫人は捕らえられた。さらにリアストー伯爵夫妻とその息子夫妻も捕らえられたのだ。ジュリアの実の両親と姉は今、王宮内の牢に拘留されている。

 しかもリアストー伯爵家は、ヴァイオレットが嫁ぐはるか前から、隣国での薬物と武器の密造に関わり、莫大な利益を得ていた。ある意味では、リアストー伯爵家もまた黒幕であるとも言えた。アプトン伯爵家もヴァイオレット本人も、もちろんそんな事は知らなかっただろうが、図らずも密輸組織の強化に大きく手を貸す事になってしまった。そしてこれらのことは、ジュリアの推測をもとに捜査と取り調べを進める中で、証拠と自白を得て判明した事だ。ジュリアの千里眼は恐ろしいほど確かだった。

「どれ程の罪に問われるかは陛下次第だ。だが陛下は薬物と武器の密輸を深刻に捉え、俺に最優先で捜査をさせた。陛下はその問題の大きさを認識していらっしゃる。罰は恐らく軽くはないだろう。それに…」

 アレックスはジュリアの様子を伺いながら続ける。

「お前が証言してくれたアプトン伯爵家への訪問者は、密輸組織の関係者だと判明した。さらにお前が教えてくれたとおりの場所に、重要書類が保管されていた」

 ジュリアの恐るべき記憶力は、自宅を訪れた者の顔も日付までハッキリと覚えていた。ジュリアの証言をもとに描かれた似顔絵は非常に役に立った。またジュリアが偶然自宅の図書館で見つけた書類は、伯爵が巧妙に隠したつもりの書類だった。それが何なのか見つけた時の幼いジュリアには分からなかったが、その文面だけは一言漏らさず記憶していた。中身は借金の代わりに国境警備を引き上げるという内容のものと、通行証を発行した覚え書きだったのだ。それは揺るぎない物証となった。ジュリアは情報整理しながら、それらの事実を知る事になった。

 アレックスはジュリアの手を握る。ジュリアか顔を上げた。その表情は複雑だ。この結末を、恐らくジュリアは予想していた。それでも事件解決に向けてジュリアは協力を惜しまなかった。彼女の正義感と人々の安全な生活を守りたいという思いは、個人的な感情に優先したのだ。それがジュリアがもともと持っている価値観なのだろう。

 ジュリアは事件の全容を思った。アプトン伯爵家が関係している事も、恐らくヴァイオレットにも捜査の手が及ぶであろう事も分かっていた。分かっていて捜査に協力した。正義のためと自分を納得させてはいたが、心の底では両親と姉への復讐を願っていたのではないかと、ジュリアは自分の心に闇を感じ恐怖していた。

 知らずジュリアの2つの宝石から透明な滴が零れ落ちた。一度零れた涙は止まらなくなる。堪える事が出来ない。両手で顔を覆ってしまったジュリアを、アレックスは抱き締めた。

「お前は正しい事をした。お前のおかげでたくさんの人々が薬物と武器の脅威から救われたんだ。お前がこの国をより平和にした。正しい事をしたんだ。誇っていい」

 ジュリアは泣き止まない。

「自分を責めているならやめろ。どんな事情があっても犯罪は犯罪だ。もしお前なら、例え全てを失っても犯罪に手を染めたりしないだろう?それは正しい。それが正義だ。それをしなかった者が罰を受けるのはやむを得ない事なんだ」

 アレックスはジュリアを抱く腕に力を込める。

「それに俺はお前に感謝している。同じ思いで、同じ正義で一緒に働いてくれた。お前のおかげで俺の正義も果たせたんだ。隊のみんなも国王陛下も、同じ気持ちだ」

 ジュリアの涙が少しずつ収まっていく。アレックスの役に立てたのだろうか、隊のみんなの役に、国王陛下と人々の役に立てたのだろうか。死ななくてはいけないはずの自分が、誰かの役に立てたのだろうか。

 ジュリアが泣き止んでもアレックスはジュリアを離さなかった。ジュリアが戸惑いながらおずおずと顔を上げるとアレックスと目が合った。アレックスの目は優しい。だが優しいだけではない怪しげな光も宿している。

 アレックスはゆっくりとジュリアに口付けた。離れ離れの間に何度も反芻したとおり、ジュリアの唇は柔らかく、アレックスは夢中で貪った。ジュリアの唇を割ってその口内に舌を差し込む。ジュリアの身体がビクッと驚いたように反応するが、アレックスは構わずジュリアの小さな舌を絡め取って吸い上げる。さらに柔らかな唇に噛み付くように吸い付き、微かに震える甘い感触を味わった。

 存分に口付け、やっとアレックスがジュリアの唇を解放する。ジュリアの瞳にはまだ涙が残っていた。輝く宝石は驚きと戸惑いと、そして僅かな色香を含んでいる。それはアレックスを虜にするのには充分だった。しかもその唇はアレックスの唾液でまだ濡れている。

 アレックスは再びジュリアの唇を奪った。我慢できずに激しく口付け、勢いのままジュリアを長椅子に押し倒した。ジュリアの上にのしかかって口付け続ける。それは深く、ジュリアはそのまま食べられてしまいそうな錯覚に陥った。

 だがアレックスが突然唇を離した。ジュリアの上から退き、ジュリアを起き上がらせてまた抱き締めた。ジュリアを胸に抱いてアレックスは心の中でため息をついた。

(ヒューゴの言ったとおりだな。ジュリアの純潔の危機だ)

 アレックスの様子を訝しみながら、ジュリアは抵抗せずアレックスにされるがままになっていた。やっとアレックスが腕を緩めてくれたので、ジュリアは顔を上げた。今度はアレックスが優しく微笑んでいた。それは爽やかな好青年そのもので、さっき見えた怪しい光は見えない。ジュリアも控えめに微笑み返すと、アレックスがまたしてもギュッと抱き締めてきた。

(離せない…思った以上に重症だな…)

 アレックスも普通の健康な若者だ。恋人がいた事もあるし女を知らない訳でもない。だが恋人と言っても貴族の社交の一環として仕方なく付き合っていただけだし、相手の女性はアレックスの家柄と財産と見栄えにしか興味を持たなかった。仕事が忙しく気の利いたデートにも誘ってくれないし、高価なプレゼントもくれないアレックスにすぐに愛想を尽かして離れていった。アレックスもそれで清々したと感じたから、もとから相性が合わなかったのだ。恋人を作るのも面倒だし、そもそも次男の自分は結婚のプレッシャーもない。兄は早々に伴侶を見つけて結婚したから両親も安心している。仕事柄、危険も多いから家族を持つのに躊躇いもあったアレックスは、生涯独身でも構わないと考え始めていたのだ。

 だがジュリアに出会ってしまった。彼女は聡明で優しく、アレックスと同じ感覚で動く。刷り込まれた劣等感と自信のなさが玉に瑕だが、その心は高潔で強い。しかも見すぼらしい子どもに見えたジュリアは、磨くほどに輝き、気が付けば誰もが言葉を失うほどの絶世の美女になった。

(惚れるなと言うほうが無理なんだ…)

 自分の中で言い訳をしていると、腕の中でジュリアがもぞもぞした。腕を緩めるとジュリアが顔を上げて何か訊きたそうにしている。アレックスはやっと思い出した。

「ジュリア、さっき国王陛下の前で言った事だが、母が勝手に話を進めたらしい。お前はピジェル侯爵家の養女になる事になったんだが…今更だが良かったか?」

 ジュリアは困ったような顔をしている。ジュリアの考えている事は分かった。

「お前はもうアプトン伯爵家とは関係ない。そうだな?」

 ジュリアが頷く。

「ジュリア・アプトンは4年前に病死して、もうこの世にいない。お前はジュリア・アプトンじゃない。ただのジュリアだ。ただのジュリアがピジェル侯爵家に気に入られて養女に迎えられる。何か問題があるか?」

 ジュリアが瞬きをした。彼女の頭脳が回転している。そしてジュリアがゆっくりと微笑んだ。それはいつもの控えめな微笑みではなかった。嬉しそうに笑ったのだ。アレックスも笑うとジュリアをまた抱き寄せた。

 ジュリアは新たな人生を得た。ジュリア・アプトンとしてではない、ヴァイオレットの妹でもない、ただのジュリアとしての人生だ。新たな人生を得たジュリアには、死ぬ理由はない。ジュリアはもう自ら命を絶とうとはしないはずだ。

 ホッとするアレックスの腕の中で、ジュリアはアレックスがやたらと自分を抱き締めて離さないのを不思議に思っていた。それに出発の朝の口付けの意味を聞く前に、また口付けられてしまったから、意味も分からずまた口付けを受けてしまった。アレックスの口付けは心地良く、もっとして欲しいとはしたなく思ってしまったのをジュリアは恥ずかしく感じていた。

 ジュリアはアレックスを見上げた。

「どうした?」

 ジュリアが小さなメモ帳を取り出して何か書く。

 “これから、私はピジェル侯爵家でお世話になるのですね?”

 それを見てアレックスが困った。母の最終目的はそこではない。ピジェル侯爵家の養女のジュリアを、アレックスの妻としてトリプレット公爵家に迎える事だ。そしてそれは母だけでなく、アレックスの強く望む事でもあった。

 困り顔のアレックスをジュリアが心配そうに見上げる。

「まぁ…そう…いや…うん…それが……」

 ハッキリしないアレックスにジュリアが首を傾げる。その仕草の可愛らしさに、アレックスは再びジュリアを抱き締めそうになったが、何とかそれを堪えた。

「その…ジュリア…どう言えばいいのか……だから…お前が…ピジェル侯爵家の養女になってだな…」

 アレックスがジュリアを見つめる。ジュリアもまたアレックスを不思議そうに見上げていた。アレックスの心臓が壊れそうなほど早鐘を打つ。

「お前が、ジュリア・ピジェルになったばかりで悪いが……その………ジュリア・トリプレットになってくれないか?」

「…?」

 ジュリアの素晴らしい頭脳をしても、すぐに理解出来なかった。首を傾げる可愛らしいジュリアにアレックスの心は完全に射抜かれてしまった。アレックスはジュリアをいきなり抱き潰すほど力強く抱き寄せた。

「…俺と結婚してくれ!お前を離したくない。生涯俺のそばにいてくれ。ひと時もお前と離れていたくないんだ。お前がいてくれれば他には何もいらない。お前だけでいい。お前が欲しい。欲しくてたまらない!」

 ジュリアは心底驚いていた。アレックスの胸に顔を押し付けられて、大きな瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いていた。完璧な記憶力を誇るジュリアの頭脳は、アレックスの言葉を脳内で何度も再生した。それを理解しようと努めた。何度思考しても、結論は同じ所に行き着いた。

(アレックス様が…私と結婚したいと…仰っているの…?)

 アレックスは身動きしないジュリアの答えを待つ。ジュリアの事だ。また余計な事まで考えているに違いない。

 アレックスはジュリアに顔を上げさせる。

「何も考えなくていい。俺がお前を守るし、辛い思いは絶対にさせない。お前は俺の腕の中で笑っていればいい。余計な事は何も考えるな」

 アレックスはジュリアに口付けた。それは優しくジュリアを癒す口付けだった。

「…俺とのキスが嫌じゃないなら、結婚してくれ…」

 囁いてアレックスがまた口付ける。何度もジュリアに口付け、いつの間にかそれは深い口付けになっていった。

 長い時間アレックスに唇を奪われ続け、ジュリアは知らずアレックスに縋り付いていた。アレックスに触れている唇から、彼の情熱が流し込まれるかのようだった。アレックスは自分に縋ってくる小さな手を感じ、ジュリアが嫌がっていない確信を強めた。

 やっとアレックスが唇を離す。ジュリアの滑らかな白い頬に触れる。

「…俺の妻になってくれるな?」

 ジュリアは頬を染めてしっかりと頷き、花が美しく開くように笑った。

 アレックスも笑うと、2人は再び熱い口付けを交わした。


 ジュリアをピジェル侯爵家に送り届け、アレックスが帰宅した。本当はジュリアを離したくはなかったのだが、同じ家の中にいたらもはやジュリアに手を出さずにいられない事は自明の理だ。ジュリアの真面目な性格上、例え婚約者でも正式な婚姻前に夜を共にするなど考えられないだろう。結婚式が終わるまで、抱擁と口付けだけで我慢するしかない。

「お帰りなさい!アレックス」

「ただいま帰りました、父上、母上」

 珍しく父もアレックスを出迎えた。

「明日にでも国王陛下にお目通り願おう」

「は?」

 両親はいつになく上機嫌だ。

「ヒューゴにも連絡してあるからな。両家揃って出向くぞ」

「…あの…父上…?」

 アレックスの戸惑いをよそに、両親はウキウキしている。

「アレックスがもたもたしているから、ジュリアを他の家に取られてしまうんじゃないかって、気を揉みましたわ」

「ジュリアは人目を引く美人だからな。危ない所だった」

「…あの…」

 公爵夫人がアレックスの肩をトンと突く。

「ジュリアが泣いてたから、もう気が気じゃなかったわよ」

「だが随分情熱的に抱き合っていたな。さすがにお前がジュリアを押し倒した時には、どうしたものかと思ったが…」

「ええ。まさか我が息子が庭で女の子に襲いかかるとは思わなかったわ」

「お前もなかなかやるな、アレックス。こっそり人払いしてやれば良かったかな?」

「でもその後もずーっとキスして仲良さそうでしたもの。若いっていいわねぇ」

 アレックスは狼狽えていた。

「父上も母上も…覗き見とは趣味が悪いですよ…」

 どう考えても昼間のアレックスとジュリアを、両親はどこかからつぶさに観察していたのだ。

「だってどうしても可愛い娘が欲しいんですもの!あなたが失敗したら、私が口説き落とそうと思っていたのよ」

「何ですか⁈失敗って!俺の信頼度は随分低いんですね」

「当たり前だろう。まともに恋人も作れない木偶の坊を信頼できるか?」

「う…それは…」

「まあ、結果的にジュリアがうちの娘になってくれるんですもの。許してあげます。あぁ、楽しみだわ!ジュリアと何しようかしら〜!」

 当のアレックスを置き去りにして、スキップしそうな勢いで去っていく両親を見送り、アレックスは苦笑した。


 翌日アレックスが出仕すると、馬車の停車場あたりが騒がしい。何事かと近づくとピジェル侯爵家の馬車が止まっている。人だかりの中に頭ひとつ飛び出て見えるのはヒューゴだ。うんざりしたような顔をしている。

 ヒューゴはアレックスに気づくと手をあげて呼んだ。近づいて人だかりの理由が分かった。ジュリアだ。若い貴族の男たちがジュリアの気を引こうとしきりに話しかけている。中にはヒューゴに話しかける壮年の男の姿もあり、子息の相手にジュリアを望んでいるのだろう。

 当のジュリアは困ったように微笑んでいる。既にジュリアの手には何枚もの手紙や花束が押し付けられていた。アレックスは思わずカッとして人混みに飛び込んだ。

「仕事がありますので、失礼!」

 アレックスとヒューゴは両サイドからジュリアを守るようにして人垣をどうにか突破する。

「全く、勘弁してくれ」

 やっと詰所に入るとヒューゴが珍しく泣き事を言う。停車場だけではない、王宮内でも一歩ジュリアが歩くたびに貴族の若者が現れる。それをあしらいながら詰所に辿り着くのは難儀だった。

「昨日、屋敷に帰ってからも大変だったんだぞ。嬢ちゃんに会いたいっていうのが引っ切り無しに次から次に湧いてきて。全員叩き出してやろうかと思った」

 実際は侯爵夫人が丁重に断っていたようだが、ヒューゴはもはや怒っている。ジュリアが申し訳なさそうにヒューゴに頭を下げる。

「いや、嬢ちゃんのせいじゃないんだ。気にするなよ」

 ヒューゴがジュリアの頭を撫でる。

「それでアレックス、いつだ?」

「ああ、じきに来るはずだ。侯爵夫人も一緒にな」

 アレックスがジュリアの腰に手を回す。

「両家が揃ったら、国王陛下にお目通りする」

 ジュリアがアレックスを見上げて微笑むと頷いた。

「ええっ!ジュリア、本当にいいの⁈」

 ライラがジュリアに抱きついてくる。どうやらライラの抱き付き癖は、アルコールとは関係ないらしい。

「どういう意味だ?ライラ」

 アレックスがライラからジュリアを奪い取ろうとジュリアを強く抱き寄せる。

「ジュリア、隊長なんかで本当に後悔しない?お姉さんがもっと優良物件紹介してあげるよ?」

 ヒューゴが吹き出す。

「アレックスは不良物件か?」

「だって、隊長は女心なんて全然分かってないんだよ。女の子が好きなものも分からないし、どうせドレスやアクセサリーにも興味ないんだろうし、全然気が利かないし。ジュリアみたいな良い子、隊長には勿体無いんだもの」

「おい、上司に向かって酷い言いようだな」

 アレックスが凄むがライラは動じない。

「隊長の見栄えの良さは認めますよ。ハッキリ言って相当ハイレベルの美男です。しかも公爵家の子息で将軍ですよ?にも関わらず売れ残ってるのって何でだと思います?それは隊長が、鈍くて気が利かない木偶の坊だからでしょ?」

 ヒューゴが大きな身体を震わせて笑いを堪えている。

 アレックスは昨晩父親にも木偶の坊呼ばわりされた事を思い出した。どうやらアレックスの男としての周囲の評価は、木偶の坊という事で一致しているらしい。

「だからジュリア、考え直したら?」

 ライラがジュリアの顔を覗き込んで言うから、アレックスはジュリアを胸の中に抱き締めた。

「ライラ!余計な事をジュリアに吹き込むな!俺がジュリアに結婚を申し込むのに、どれだけ勇気を振り絞ったと思ってるんだ!」

「……………」

 ライラを始め、その場の隊員たちが呆れた目でアレックスを見る。

「…だから、そう言うところがダメなんですって…」

 ライラがボソッと呟いた。


 拙文をお読みいただき、誠にありがとうございます。お気に召していただけましたら、次話もどうぞ。


【次話へ進まれる前に】

・誤字報告、歓迎いたします。誤字脱字、その他日本語の用法の誤り等にお気づきのかたは、お手数ですが誤字報告いただけますと大変助かります。

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