第2話
国境のある南部地方から、北の首都へ向かうには、3つの道がある。ひとつはジュリアたちのいる山越え、ひとつは隣の山越え、もうひとつは谷を渡る道だ。ポピュラーなのはジュリア達のいる山を越える道だが、最近は盗賊が出るとの噂が広まり、一般の旅人は減っている。代わりによく使われるのは谷の道だが、こちらはひどく遠回りになるため時間がかかる。もうひとつの山越えは最もショートカットたが、高低差が激しく道が険しい。
「どのルートを取るかの情報は一切ないんですか?」
盗賊の1人がアレックスに訊く。
「残念ながらそこまでは掴めなかった。ただ、今回は荷が大量だ。険しい山越えはしないのではないかと考えている」
「谷の可能性が高いな。時間はかかるが道は整備されているから、腐るものじゃなきゃ谷ルートが無難だ」
ヒューゴが腕を組んで発言すると頷く者が多い。
「警備を強化して、この山を越える可能性もある。目立つのは避けるだろうから、強化すると言っても限度はあるだろうがな」
アレックスの言葉にも多くが頷いた。
「じゃ、隊を半分に分けますか?」
ライラが言うと、アレックスとヒューゴが視線を交わした。
「そうだな。半分は谷ルート、半分は山ルートだ」
盗賊たちは細かな打ち合わせを始めた。
谷ルートを指揮するアレックスと山ルートを指揮するヒューゴは、額を突き合わせて最後まで話し合っていた。朝食の片付けと昼食の仕込みをしながら耳の端で作戦会議を聞くとはなしに聞いていたジュリアは、ハッとした。迷った挙句、遠慮がちに近づき、アレックスの肩をそっと叩いた。
「どうした?」
ジュリアは机の上の地図の谷ルートを指差して首を横に振る。
ヒューゴが首を傾げる。
「嬢ちゃん、何が言いたいんだ?」
ジュリアは机の上の紙とペンを手に取り、説明した。それは長文だったが、アレックスとヒューゴは根気強く待ってくれた。そしてジュリアの書いた文章を読み、2人は驚いた。
「これが本当なら…使えるかも知れん」
ヒューゴの呟きにアレックスが頷いた。
隊が帰ってきたのは朝がただった。全員疲れた様子だったが、その表情は晴れやかだ。作戦が上手くいったのだ。
軽く食事を取ると、盗賊たちは各自の部屋ですぐに休んだ。再び皆が起き出したのは昼過ぎだった。遅い昼食をとり寛ぐ。ジュリアが片付けをしていると、アレックスに部屋に呼ばれた。そこにはすでにヒューゴもいた。
「嬢ちゃんのお陰で一網打尽だったよ。証言も取れて言う事なしだ」
ヒューゴが嬉しそうに言う。ジュリアは頭を下げた。
自然災害は天候によるものが多いが、中でも雨は良くない。特に山間の地は天候が変わりやすく、遭難から大規模な土砂崩れまで多様な災害が起こり得る。
その谷は水を吸収しない岩石の地形だ。かつての川が干上がって街道となった。土砂崩れなどの心配がなく、道としての安定感は抜群だ。しかし水を吸収しないと言う事は、降った雨は全て低い場所へと流れて行く。だからもし山間に集中豪雨があると、谷の道は鉄砲水の通り道となる。
実際、過去に何度も鉄砲水の被害が出ている。最近で言えば8年前と5年前、古くは100年ほど前の記録もある。とにかく割と頻繁に災害に見舞われる地形なのだ。
しかも最近の天候はどうも怪しい。西からの風に乗った湿った空気が山にぶつかり、気味の悪い雲が谷の北方に渦巻いている。昨日は雲の動きが早く、天候変化が急に起きそうな典型だった。風向きと雲の動きや形を見る限り、過去に鉄砲水を起こした時と気象条件が酷似していた。
アレックスたちはそれを利用した。読み通り、夜中に谷の道を大荷物を急いで運ぶ一団はすぐに見つかった。アレックスたちは谷には降りず、両サイドの高台からまず矢を射かけると、問いただした。問答していると、北の方から不気味な地鳴りのような音が聞こえてきた。アレックスはここぞとばかりに畳みかけた。
「お前たちのいる谷の道は、間も無く鉄砲水に襲われる。洗いざらい吐けば、ロープで引き上げてやる」
最初はくだらない脅し文句だと笑っていた一団は、轟音と振動がいよいよ近づいてきて、鉄砲水の話が真実だと気付いたらしい。南方へ何人か逃げたが、秒速数十メートルの鉄砲水に人の足で敵うはずがない。ほとんどが我先にと何でも白状しながら助けを乞うてきた。助け上げられたものたちは、轟音を上げながら猛スピードで下っていく濁流を眺め、恐ろしさに慄いていた。
狼煙で呼んでおいた山ルートチームと合流し、引き上げた全員を捕らえると然るべき者へと身柄を引き渡して、やっと帰ってきたのだ。
「お前のお手柄だ。よく分かったな」
アレックスが感心してジュリアを見た。
災害の仕組みも天候も、すべて本から学んだ。どちらも人々の暮らしの役に立つ知識だ。地質にも興味を持った時、近隣のみならず国内外の地質を調べ上げた。適切に観察し、情報を集め、それらの知識をリンクさせれば、鉄砲水の予想も出来なくはない。
褒めても笑顔も見せずだだ頭を下げるジュリアを、アレックスは不思議に思っていた。
彼女には深い事情があるのだろうが、その頭脳は間違いなく一級品だ。鉄砲水を予想した仕組みは彼女が書き上げたが、それは膨大な知識・理解力・観察眼、そしてそれを適切に応用する能力がなければなし得ない。これほどの頭脳が埋もれていることが不思議でならなかった。出来るなら連れ帰って参謀にしたいほどだ。
しかも彼女の文章は分かりやすく要領を得ていた。文字も美しくて驚いた。どう考えてもこの謎の少女は貴族の子女の教育を受けている。だがそれほどの高等教育を施された貴族の娘が、料理上手で洗濯も繕い物も出来るのはおかしい。
だが何者かはともかく、アレックスはこの謎の少女を手放したくなくなっていた。
「俺たちはここを引き上げる。お前も一緒に来ないか?」
ジュリアは驚いて顔を上げた。
「他に行くところがないならいいだろう。もちろん自殺するのは無しだ」
ジュリアは迷った。アレックスたちには恩があるが、自分は死ななくてはならない存在だ。アレックスたちがどこに帰るのかは分からないが、どこかで自分の身元が知れてしまっては困る。だがアレックスの言葉がジュリアの背を押した。
「お前の力が必要だ。一緒に来い」
ジュリアは頷いていた。
ジュリアの手綱捌きは見事だった。アレックスに「馬に乗れるか?」と訊かれて頷いたものの自信はなかった。乗馬は何年ぶりだろう。それでもいざ馬に乗ってしまえば身体が覚えていた。
ジュリアは乗馬が得意だった。だが苦手なフリをしていた。ヴァイオレットより上手くてはいけないからだ。乗馬だけではない。ダンスも演奏も文字に至るまで、すべてヴァイオレットより劣って見せなくてはならなかった。それがヴァイオレットの影であるジュリアの役割だった。
だがヴァイオレットはここにはいないし、自分はもう伯爵家の令嬢でもない。何に気兼ねしなくても良かった。そしてそれがこんなに楽だと初めて知った。
ジュリアの乗馬の巧さに誰もが驚いていた。アレックスもジュリアに合わせてゆっくり進む事を考えていたのだが、その必要は全くなかった。アレックスたちは速度を上げて帰途に着いた。
ジュリアは驚いていた。数日の旅の果て、アレックスたちは首都に入った。そしてあろう事か王宮の城門をくぐったのだ。さすがにジュリアが慌てて馬を止めるが、アレックスはジュリアに馬を並べて言う。
「心配するな。このまま入っていい」
そこで止まっているのも不審がられそうなので、ジュリアはアレックスに続いて城門を入る。
厩に馬を入れるとアレックスたちは城へと向かう。アレックスがジュリアも連れて行こうとするが、ジュリアは首を横に振って拒否した。万が一、ヴァイオレットの事を知っている者がいたら、ジュリアの姿を見咎めるかもしれない。アレックスは不満げだったが、ジュリアに「俺が戻るまで絶対に動くな」と言い置いて城へと急いだ。
ジュリアは困惑していた。兵士だろうとは思っていたが、まさか王宮に仕える軍人だとは思っていなかった。だとすれば、隊長のアレックスはそれなりの身分の貴族、隊員たちもほとんどが貴族だろう。誰もヴァイオレットの事を知らなくて良かったと心から安堵した。
厩で待っていると、思いの外早くアレックスが戻ってきた。アレックスは黒の軍服を着ていた。その姿は紛れもない美青年で、ジュリアはこんな立派な軍人が盗賊に身を窶していたことに驚いた。
「とりあえず俺の家に来い。王宮内に部屋も用意出来るが…」
ジュリアはブンブンと首を横に振る。アレックスは苦笑して馬の綱を解きにかかった。
アレックスの家はジュリアの想像より遥かに立派だった。門構えの紋章を見て、ジュリアにはそこが国一番の名門トリプレット公爵家の城だと気付き、馬上で失神するかと思った。トリプレット公爵家の名を知らない者など国内にいない。古くから国政に携わり、軍部にも絶大な影響力を持つ。実業家としても知られ、その資産は莫大だ。一方で名領主としても名高い。税は低く、領民が困った時には支援も惜しまない。
アレックスは厩に馬を預け、ジュリアを連れて玄関を入った。
「アレックス様、ご無事なご帰還、何よりでございます」
執事をはじめとした使用人がアレックスの帰りを出迎える。
「アレックス、お帰りなさい」
「母上、ただいま戻りました」
小柄な貴婦人がアレックスを優雅に出迎えて抱きしめる。ジュリアは緊張した。公爵夫人だ。ジュリアの知っている貴族の婦人は母だけだ。母は自分に無関心だった。ヴァイオレットと同じくらい愛して欲しいなどとは思わなかったが、せめて存在くらいは気づいて欲しかった。貴族の婦人は無感情で冷淡という印象しかない。
公爵夫人はジュリアに気づく。それにアレックスも気付いた。
「この子は今回の作戦の功労者です。しばらくここに滞在させます」
公爵夫人はジュリアに近づいて来た。ジュリアは慌てて頭を下げた。
「まあ、可愛らしいお嬢さんね。自分の家だと思ってゆっくりしてね」
公爵夫人は気さくにジュリアの手を取って微笑んだ。その手は小さく温かかった。
ジュリアは客室に案内された。トリプレット公爵家の客室だから当然だが、高価な家具が取り揃えられ、しかし華美にならない品の良さがあった。
すぐに使用人がドレスと靴を持って来た。ジュリアが裸足で薄汚れた粗い麻のワンピース姿なのを見兼ねたのだろう。ジュリアは首を横に振って辞退しようとしたのだが、古参らしい侍女に押し切られてしまった。確かに公爵家の城にいるのに、自分の姿は酷すぎた。
ジュリアは有り難く4年ぶりの湯を使い、身体を綺麗にした。自分には勿体無いと恐れ多い気持ちを抱きながら、滑らかなシルクのドレスを身につけた。髪は不潔に見えないように軽く結った。
ジュリアが身なりを整えると扉をノックする音が聞こえた。久しぶりのドレスと靴に足を取られそうになりながら、慌てて扉を開く。
「あぁ、食事の準備が…できた…が…」
アレックスは呆けたように口を半開きにしたまま固まった。目の前に見慣れない美少女がいたからだ。部屋を間違えたのかと思ったが、城内にいる客はあの謎の少女だけのはずだ。
ジュリアの肌は栄養不足で荒れてはいたが、透き通るように白い。深紅の瞳は潤んで大きく見開かれている。汚れを落とした灰色の髪は、本当は豊かなプラチナブロンドだ。しかし長年手入れをせずに放置していたからツヤがない。
ジュリアは黙ってしまったアレックスを不思議そうに見上げて首を傾げた。その仕草があまりに愛らしく、アレックスは急激に体温が上がるのを感じていた。
アレックスは何も言わずにジュリアの手を取ってダイニングルームへと連れて行った。ジュリアがダイニングルームに入ると、公爵夫人が思わず立ち上がった。
「まあ…なんて美しいのかしら!ねぇアレックス」
アレックスは相変わらず無言でジュリアを掛けさせると、自分もその隣に腰掛けた。
ジュリアは確かに美しかった。もともと整った顔立ちだったが、いつも自信なさげに俯いていたし薄汚れていた。だが今ジュリアは久しぶりにドレスを着て背筋を伸ばして、出来るだけ俯かないよう努力しているようだ。化粧はしていないし髪も簡単に結い上げているだけだが、その美しさは間違いなかった。
食事の間、夫人と公爵は楽しげにお喋りし、時折アレックスやジュリアに話を振るが、アレックスはほとんど無言だ。緊張のためかほとんど食事が進まないジュリアの様子を気にしながら、ジュリア自身を出来るだけ見ないようにした。またジュリアに見惚れて放心してしまいそうだったからだ。
食事を終え、アレックスがジュリアを伴って退室すると、婦人は公爵とヒソヒソと話す。
「あの子、とても綺麗だわ。そう思うでしょ?」
「だがまだ子どもじゃないか?それに随分痩せているし…」
「でもアレックスが初めて女の子を連れて来たのよ。若すぎるなら、取り敢えず婚約して何年か待てば…」
公爵夫人は楽しそうだった。
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