第1話
ジメジメとした地下牢で、ジュリアは這いつくばって手を伸ばした。放り込まれた小さなパンを掴むと、ホッとしてズルズルと壁際に戻って痛む身体を何とか起こし、壁に背を凭れさせた。
ジュリアが身動きするたびに重い鎖がジャラリと音を立てる。鎖の繋がった手枷に小さなパンを持ち、半分に割る。半分は使い古したボロ布に包んで胸元にしまった。そうしないとネズミに盗まれてしまうからだ。もう半分は、カビを爪でカリカリと削ぎ落として少し齧った。固くパサパサしたパンが口の中で消えてその余韻も無くなるまでゆっくりと咀嚼する。そしてもう一口。
パンの味より血の味の方が濃いが仕方がない。ついさっき殴られて口の中が切れているのだ。
パンがもらえるのは3〜4日に一度だ。大切に食べなくてはいけない。水の桶は週に一度取り替えてもらえるから、水分の心配はしなくていい。
固いパンに齧り付きながら、ジュリアは城内がザワザワと浮き足立っているのを感じていた。
「ごめんなさい…」
幼いジュリアは深々と頭を下げた。身に覚えのない叱責だったが、自分が身に覚えが無いという事はヴァイオレットに違いない。しかしジュリアは言い訳も告げ口もせずに叱責を受け続け、何度も謝った。
ヴァイオレットは華やかで可愛らしい。物心ついた頃には、ジュリアは劣等感を感じる余地さえなかった。ヴァイオレットは父母はもちろんのこと、誰にでも好かれる明るく活発な少女だった。ヴァイオレットを見ると誰もが笑顔になる。幸せを振り撒いて歩いているようだった。
双子の妹であるジュリアは、顔こそヴァイオレットにそっくりだったが、性格は正反対。人前に出るのを嫌がり、無口で内気で引っ込み思案。ヴァイオレットの後をついていくのが精一杯だった。
成長すると、ジュリアは自然とヴァイオレットの引き立て役になった。ジュリアという影を得て、ヴァイオレットはより光り輝いて見えた。時にはヴァイオレットの失敗をジュリアは黙って被った。敬愛する完璧な姉を立てるのが自分の役割だと思っていたからだ。
ツヤのある美しいブロンドをなびかせ、その名の通りすみれ色の大きな瞳を輝かせるヴァイオレットは紛れもない美少女だった。毎日使用人に念入りに手入れさせている髪も肌も爪の先までパーフェクトだった。ジュリアはプラチナブロンドを引っ詰めて、使用人と一緒に炊事や洗濯や掃除をした。もはやジュリアは、自分が伯爵令嬢である価値さえないと思っていたからだ。
ただひとつだけ、ジュリアにはヴァイオレットにないものがあった。頭脳だ。城の図書館の本はほとんど読破した。どんな難解な内容でも難なく理解できたし、一度読んだ内容は全て記憶できた。だがその賢さが、かえって仇となったのだ。
盗み聞きするつもりはなかったが、ジュリアはつい扉の前で立ち止まってしまった。中からは父母と執事のルーベンの声がする。
「…社交界デビューの前には…」
「…やはりヴァイオレットが相応しい…」
「…病死ということにすれば…」
「…ヴァイオレットが結婚するまで…」
途切れ途切れに漏れ聞こえる言葉の端だけで、14歳のジュリアは全てを理解した。
地域によって多種多様な伝承や神話がある。一時ジュリアは興味を持って調べた事があった。そして気づいてしまったのだ。ある地域では双子は最悪の凶事をもたらすと信じられていること、そして自分の持つ深紅の瞳もまた、恐ろしく不吉な印であることも。
ジュリアは一切の抵抗をせず、声も上げず、泣きもしなかった。ただ唇を強く結んで床を見つめていた。
ジュリアが鎖で縛られるのを側で見ていた執事のルーベンには、ジュリアが密かに歯を食いしばっている事にも、その華奢な身体が微かに震えている事にも気づいていた。だが気づかないフリをすることしか出来なかった。
アプトン伯爵と伯爵夫人は、ジュリアが縛り上げられるのを見届けると、ジュリアに興味を失ったかのように奥の部屋へと引き上げてしまった。もともと父も母もヴァイオレットは溺愛したが、ジュリアには無関心だった。こうなる前から、とっくに両親の気持ちは決まっていたのだ。
ジュリアは腕や身体に食い込む鎖に顔をしかめる事もしなかった。表情を崩せば泣き出してしまいそうだったから、全力で無表情を作っていた。
兵士に引き立てられて連れて行かれたのは地下室だった。いや地下牢と言うべきだろう。はるか高い位置に小さな窓がひとつ開いているが、非常に薄暗く、湿気が強く埃っぽい部屋は、頑丈な厚い鉄の扉の向こうにあった。一旦鎖を解かれたが、すぐに手枷と足枷が嵌められ、足枷は壁とつながっていて入口まで辿り着けない長さになっていた。
重い鉄の扉が閉まり、ガチャンと鍵がかけられた。それでもジュリアは、泣かないように歯を食いしばり続けていた。
地下牢に閉じ込められて4年。3日に1個の小さなパンーーたまに腐りかけた野菜の切れ端や果物の皮がもらえる事もあったーーと水しか口にしていないジュリアは、14歳の頃とほとんど体格が変わらない。むしろひどく痩せこけて、その身体は小さくなったようにさえ見える。
華やかな楽隊の音楽が風に乗って時折小さな窓から聞こえてきた。それはヴァイオレットの結婚披露宴に違いない。
(お姉様、おめでとうございます)
ジュリアは暗闇の中で微笑んだ。ヴァイオレットはさぞかし美しい花嫁だろう。姉が幸せを掴んだことを心から嬉しく思った。伯爵家の披露宴はきっと素晴らしく豪華な宴だろう。それにヴァイオレットの夫となる人は伯爵がそれ以上の爵位の持ち主に違いない。ヴァイオレットの将来もアプトン伯爵家の未来も安泰だ。
(これで…やっと死ねる…)
ジュリアは地下牢暮らしの終焉を思い、もう一度微笑んだ。
夜の闇の中、鎖で縛られたジュリアが歩く。頭からスッポリと被せられた黒い布のせいで視界はゼロだ。裸足の足の裏で感じるのは土よりも木の葉や木の根が多い。傾斜もあるから山の中に入った事は確かだ。
首を吊らされるのか、毒を飲まされるのか、それとも剣で胸を突かれるのか…どれでも山中なら放置した死体は獣が食べてくれるから処分する手間はない。とっくに覚悟を決めているジュリアの心は落ち着いていた。
周りに何人いるのかは正確には分からないが、足音から4人だと推察した。先導する兵士、ジュリアの左右から鎖を引く兵士、ジュリアの背後にいるのは靴音から兵士ではなさそうだが、ジュリアの死亡を見届けるための誰かだろう。誰も一言も発しない。
遠くに微かに音がし始める。それが瀑音だと気付いた時、ジュリアは黒い布を被せられたまま微笑んだ。自分の最期は、暗く冷たい滝壺の底に沈むのだと理解したからだ。
(少し苦しいかも知れないけど、痛くはなさそう)
安堵とともに、森の匂いと足の裏に感じる大地の感触が急に愛おしく感じられた。もうすぐ自分は何も感じなくなる。一歩一歩を感慨深く踏み締めながら、ジュリアは死へ向かって歩を進めた。
突然バタバタと多数の足音が聞こえた。同時に剣が鞘から抜かれる音。
(盗賊…山賊…?)
「武器と荷物を置いていけ。命まで取る気はない」
静かな、むしろ涼やかな若い男の声だ。覆面でもしているのか声がくぐもっている。ジュリアを連れてきた兵士たちが剣の柄に手をかけて抜こうとするがそれは抜かれなかった。ジュリアの背後の誰かが止めている。間も無く剣が鞘に入ったまま地面に投げられる音がした。兵士たちが武器を放棄したのだ。兵士の足音が後ずさると、来た道を駆け戻っていく。ジュリアの背後の誰かは逡巡するようにしばらく立ち尽くすと、ゆっくりと後退り兵士に続いた。だが不思議なことに、その人物は最後にジュリアの肩にそっと手を置いた。それは温かく、どこか懐かしいような気がした。
その場には鎖で縛り上げられ頭に布を被せられたジュリアだけが取り残された。複数の足音がジュリアに近づく。
「売り物にしては貧相だな。こんな痩せっぽっちな子どもが高値で売れるとも思えんが」
年配の男の声だ。ジュリアは男が自分を値踏みしているのを感じていた。
「いろんな趣味の人間がいるからな。そんなのでも欲しがる物好きがいるんだろう。だが…」
最初に聞こえた若い男の声だ。今度はハッキリと聞こえた。覆面を取ったのだろう。
ジュリアは自分の身体が急に宙に浮くのを感じた。がっしりした誰かの肩に担ぎ上げられたのだ。
「暴れるなよ」
さっきの年配の男の声だった。言われなくてもジュリアに暴れる気などない。
滝壺に突き落とされて死ぬはずだったが、どうやら盗賊に殺される事になりそうだと、ジュリアは担がれながら人ごとのように冷静に考えていた。
1時間か2時間かよく分からないが、盗賊の一団は黙って歩き続け、アジトらしき建物に入った。ジュリアは床に下され、椅子にかけさせられた。
「傷つける気はないから大人しくしていてくれ。いいな?」
ジュリアは怪訝に思いながらも頷いた。年配の男はジュリアの身体に食い込む鎖を解いてくれる。幾重にも巻きつけられた鎖から解放されると身体が軽くなった。続いて頭に被せられた黒い布も外される。ジュリアはやっと周囲の様子を把握できた。
そこは粗野な盗賊のアジトとは思えないような居心地よく整えられた広い部屋だった。盗賊たちは椅子にかけて思い思いに寛いでいる。ざっと20人くらいはいそうだ。彼らは小綺麗な身なりをしていて、とても盗賊には見えないほどだ。装備も立派だし荒くれ者という印象はない。中には女性もひとり混じっていた。
「大丈夫か?」
ジュリアは年配の男を見上げた。年配といってもせいぜい50歳前後だ。口元も顎も髭で覆われているが不潔な感じはしない。がっしりした体躯はよく鍛えられているし姿勢も良い。
ジュリアが不思議そうに見上げて頷くと男が笑った。それは優しい笑みだった。
「はい、温ったまるよ」
ジュリアの目の前の机に湯気の立つカップが置かれた。持ってきたのは紅一点の女盗賊だ。彼女も優しく微笑んでいる。コップからは甘い匂いが立ち昇っていた。ホットチョコレートだろう。
「オヤジさんにはこっちね」
年配の男の前には琥珀色の液体の入ったグラスが置かれた。
「こりゃ有り難い」
オヤジさんと呼ばれた男は嬉しそうに腰かけるとグラスを一気に空にした。グラスにはすぐに次の酒が注がれる。いつの間にか周囲は酒盛りの様相を呈していた。
「冷めないうちに飲みなさい」
男に促されるままジュリアは湯気の立つカップを両手で取った。ゆっくりと口元に運んで一口飲む。それは温かくて甘くて幸せな味がした。もう一口飲む。
ジュリアがホットチョコレートを飲み始めたのを見て安心したように頷くと、女盗賊は酒宴に混ざっていった。
ジュリアがホットチョコレートを飲み干した頃を見計らうように、青年がやってきた。
「怖い思いをさせて悪かったな。落ち着いたか?」
それは山中で聞いた声だった。彼は若いが、どうやら盗賊団の頭領らしいとジュリアは気付いていた。ジュリアが観察した限り、酒宴の様子に上下関係はほとんど見えなかったが、彼にだけは誰もが敬意を払っているのを感じていた。
ジュリアは正面に腰掛けた青年に頷いた。青年は髪も目も漆黒で夜の闇のようだった。長身の割に細身の身体と相まって、しなやかで誇り高い狼を思わせる。やや長めの髪は少し癖っ毛で飛び跳ねてはいるが、身なりは良いし、その顔貌は整っており美青年と言ってもいい。
「人買いかと思って出たんだが、どうも様子が違ったようだな」
青年がジュリアを見つめる。
「人買いに連れられていたのではないな?お前を連れていたのはどこかの城の兵士だった」
ジュリアは素直に頷いた。だが妙な感じもしていた。盗賊がなぜ人買いを襲うのか?人殺しが目的なら相手は誰でもいいはずだし、人買いから奴隷を奪っても、その奴隷を売り捌かなくては金にならない。だったら初めから身なりの良い旅人を襲って金品を奪った方が手っ取り早い。
「どこから来てどこに向かっていた?お前は何者で、なぜ捕らえられていた?」
静かな青年の問いに、ジュリアは俯いた。説明するには自分の身元を明かさなくてはならないが、自分はアプトン伯爵家の恥だ。家の恥を晒すことはできない。それにもうジュリアは自分がアプトン伯爵家の人間だとは思っていなかったし、恐らく自分は14歳で病死したと届出が出されているだろうから、自分の存在ごと抹消されたはずだ。つまりそもそも今更名乗ることも出来ない。
何も言わないジュリアに青年とオヤジさんと呼ばれた男が顔を見合わせる。どうやら訳ありらしいと2人も気付いたのだ。
「言いたくないならいい。ヒューゴ、この子に何か食べさせてやってくれ」
ヒューゴというのがオヤジさんの本名らしい。立ち上がろうとするヒューゴにジュリアは首を横に振った。
「腹が減ってないのか?」
ジュリアは頷く。もちろんお腹は空いていたが、死ぬ予定の自分に食べ物は必要ない。ホットチョコレートだけで十分この世の良い思い出が出来た。
青年とヒューゴは再び顔を見合わせた。
翌朝、ライラが困ったような顔で近づいて来た。
「隊長、どうも妙ですよ。あの子…」
いつもズケズケと遠慮なく物を言うライラが言い淀むのは珍しい。
「どうした?」
青年ーー盗賊団の頭領は書き物から顔を上げた。ライラの話はこうだ。紅一点のライラは2人用の寝室を1人で使っていたから、謎の少女をもう1つのベッドに案内して使うよう言ったのだが、少女は首を横に振ってベッドを使おうとしなかった。ライラは酒も入っていてすぐに寝入ってしまったが、朝起きると少女は床の上で丸まって眠っていて、ベッドを使った形跡がない。さらに夜の間はランプしか光源がなく気づかなかったが、少女をよく見ると、骨と皮だけに痩せこけた剥き出しの腕にも足にも無数のアザや傷がある。それも昨日今日のものではない。古いものから新しいものまで様々だ。頬や目元にもまだ生々しいアザが見て取れる。少女が長期間暴力に晒されていたことは一目瞭然だった。
青年は眉をひそめて考え込んだ。
ジュリアは水を飲んだ。首を横に振って朝食はいらないと伝え、水だけもらった。
彼らが自分を殺すならそれでもいいし、ジュリアに興味を失って解放されれば、どこか他人に迷惑のかからない場所で自殺すればいいと思っていた。いずれにしても間も無く死ぬつもりのジュリアの心は穏やかだった。
そんなジュリアの様子をアレックスーー青年は遠巻きに眺めていた。急いで調べさせたが、少女の身元は分からなかった。本人が語らない限り、その正体は知れないだろう。アレックスは息を吐いた。
「お前を捕らえておくつもりはない。好きに出ていっていい」
アレックスが告げると、ジュリアは驚いた風もなく無表情のまま頷くと出口へと向かった。
ジュリアは深々と頭を下げると森の中に入っていく。扉にもたれかかってその背中を見送るアレックスが頷くと、そっとカイが森に滑り込んでいく。音もなく少女を追っていった。少女がどこへ行くのかが分かれば、その身元か目的地か出発地がわかるかも知れない。そう考えて泳がせることにしたのだ。
カイは隊の中では最若年だが、この道は長い。もともと路上暮らしだったカイは、軽業を見世物にして日銭を稼いでいたのだが、アレックスに見込まれて隊に入ったのだ。足の速さ、すばしっこさ、サルも顔負けの運動能力は並ぶものがない。天性の才能だった。少し仕込むと尾行や侵入もすぐにものにした。今まで失敗したことはない。
アレックスは謎の少女に興味を持ち始めていた。本来の目的ではないが、何らかの犯罪行為が疑われる以上、放ってはおけない。
森は静かだ。ジュリアの足音もカイの気配もしない。アレックスは室内に戻っていった。
「もう、すっげー大変だったんですよ!この子、全然言うこと聞いてくれないんだから」
カイがジュリアの手を掴んだままアレックスに訴えた。アレックスは片手で顔を覆う。
「悪かったよ、カイ。これは予想外だった」
ジュリアは盗賊のアジトに連れ戻されていた。カイを部屋から出し、アレックスの部屋でジュリアと2人きりになった。
「なぜ死のうとする?」
絞り出すようにアレックスが訊いた。
アジトを後にして森に入ったジュリアは、山の上を目指した。訝しみつつもカイが後を追うと、ジュリアは切り立った崖に向かい、そのまま崖の先端に歩いていく。
「おい!何やってんだよ⁈危ないな!」
すんでのところでカイがジュリアの手を掴んで引き戻した。ジュリアは驚いた顔でカイを見つめると、謝るように頭を下げ、また崖の先端へと向かう。
「だから!危ないってば!」
カイはまたジュリアを引き戻した。そんな事を何度も繰り返し、ジュリアも諦めたのか崖に背を向けて再び森の中を進んで行った。
しばらくするとジュリアは突然立ち止まって上を見上げた。そっと後をつけていたカイも上を見るが、そこには木と空しか見えない。
ジュリアは器用に木を登ると、なぜか枝からぶら下がった。一瞬の思考時間の後、カイは少女が木に絡まる丈夫な蔓で首を吊っていると気づいた。慌てて駆け寄って剣で蔓を切断し、落ちてきた少女の身体を受け止める。そこでカイはやっと気づいたのだ。さっきから少女が自殺を図っていることに。
手を繋いで歩くと、少女は抵抗せずに自分に引かれて歩くが、手を離したらまた自殺を図るに決まっている。カイはジュリアの手を一瞬も離さずにアジトへと戻ってきたのだ。
ジュリアは黙って俯いていた。なぜ死のうとするか?そんなの決まっている。自分は死ななくてはならないからだ。もはやこの世に存在しないはずの自分。生きていると知れたらアプトン伯爵家もヴァイオレットもダメージを受けてしまう。死ぬ以外、何も思いつかない。
「それも言いたくないのか…困ったな」
ジュリアはアレックスに深く頭を下げた。彼を困らせたいわけでは無いのだが、結果として困らせてしまっている。ただ申し訳なかった。
「まあいい。しばらくここで暮らすといい。何があったか知らないが、気持ちが変わるかも知れない。…ただ、ひとつ約束してくれ」
アレックスがジュリアの手を取る。
「ここにいる間は、死のうとするな。いいな?」
ジュリアは戸惑いながら頷いた。
炊事も洗濯も盗賊たちが交代で分担していたが、ジュリアはそれらの仕事を全てをこなした。アジトの掃除も繕い物もした。城で使用人たちと同じように働いていたジュリアには苦もない事だったが、盗賊たちには大層喜ばれた。
ジュリアは次第に彼らが盗賊ではない事を確信しつつあった。盗賊にしては統制が取れすぎているし、頭領のアレックス始め、誰もが紳士然として中流階級以上の匂いがする。アレックスの事を頭領ではなく隊長と呼ぶのもそうだ。ジュリアは彼らが兵士で、何らかの目的で盗賊を装っているのではないかと考えていた。
盗賊たちは昼間に出ていくこともあれば夜中に出ていくこともあった。どうやら何らかの情報を得て組織的に動いているようだった。今日は日が暮れてすぐ出発し、数時間で帰ってきた。
ジュリアは帰ってきた盗賊たちに食事を出し、酒を注いだ。
「お嬢ちゃんは料理が上手いな」
盗賊の1人に何気なく声をかけられ、ジュリアは驚きと戸惑いを感じた。ペコリと頭を下げて慌てて別の大皿を運ぶ。
ジュリアは人に褒められたことが無かった。いつも褒められるのは姉のヴァイオレットの専売特許だった。
「ヴァイオレットは本当に上手ね」
「さすがはヴァイオレットだな」
ヴァイオレットが褒められるのをいつも聞いていた。自分が褒められることは無かった。別に妬むこともしなかった。自分には褒められる要素など無いと分かっていた。だからいざ自分が褒められても、どう反応すればいいのか分からない。ヴァイオレットなら可愛らしく微笑むだけでいいのだろうけど、ジュリアは咄嗟に頭を下げて感謝を伝えることしかできなかった。必死で感情を押し殺して暮らすうちに、表情の動かし方も忘れてしまった。
宴が終わり各自が部屋へ向かうと、最後まで残っていたアレックスとヒューゴの机に呼ばれた。椅子にかけるよう促される。
「嬢ちゃんがいてくれて、みんな助かってるよ。ありがとう」
ヒューゴは酒も入って上機嫌だ。ジュリアは再び戸惑いながら頭を下げた。
「ちゃんと食べているか?」
アレックスも飲んでいる。やや目が据わっているが見た目にあまり変化はない。
ジュリアは頷いた。ここにいる間は自殺しないと約束した手前、食べないわけにもいかないから、1日に1つだけパンをもらっていた。
「そろそろ事情を話す気にならないか?」
アレックスの声は優しい。アレックスだけでない。盗賊たちは皆ジュリアに優しかった。得体の知れない自分を受け入れてくれていた。だがどうしても話すわけにはいかない。家のために、姉のために。
黙って俯くジュリアをアレックスとヒューゴは優しい目で見つめていた。
「無理強いするつもりはないが…その気になったら話して欲しい。それが我々の役に立つかも知れない」
アレックスの言葉には含むところがあると気づいてはいたが、ジュリアは口を開かない。しかしそこでヒューゴがある事に気づいた。
「嬢ちゃん…ちょっと上を向いてくれるか?」
ジュリアは言われた通り天井を向く。ヒューゴはジュリアの喉に目を凝らす。
「まさか、嬢ちゃん…喋れないのか?」
アレックスも驚いてジュリアの喉を見ると、そこには明らかに刃物でつけられた大きな傷が走っていた。
ジュリアは申し訳なさそうに頷いた。
地下牢に入れられてすぐ、ジュリアは喉を切られた。もちろん声を出せないようにするためだ。喉の傷が癒える前から暴力を加えられるようになった。父母の命令なのだろうと思ったが、兵士たちは毎日ジュリアを殴り、蹴った。全身の至る所を打撲・骨折し、常に痛みを抱えて過ごした。まともに動ける日が減っていったが、ジュリアは耐えるほかない。
それでも生かされていたのは、ヴァイオレットのためだ。美しく誰もに愛されるヴァイオレットだが、思わぬ妬みややっかみを買わないとは限らない。万一の時はヴァイオレットの代わりにジュリアを犠牲にしようと、そのためにジュリアは生かされていた。ジュリアはヴァイオレットのための捨て駒だった。ジュリアもその自覚があったから、何とか生き延びてきた。ヴァイオレットの幸せのためになるなら、生きている意味があると思ったのだ。
それもヴァイオレットが結婚すれば終わる。有力な貴族の妻として地位が確立されれば、ヴァイオレットはもう心配ない。だからジュリアはヴァイオレットの婚儀が無事終了するのを待ち望んでいた。やっと自分の役割が終わる。やっと死ねる。
顔を見合わせたアレックスとヒューゴは、この謎の少女の事情は余程のものだろうと考えざるを得なかった。喉を切られ、暴力を受けて、どこかの城の兵士に鎖で縛られて連れられていた少女。全く想像はつかないが、少なくともこの少女が幸せいっぱいに生きてきたのではない事は確かだ。
アレックスはもう一度本気で少女の身元を洗う必要を感じていた。
ジュリアは早起きして朝食の準備を始めていた。いつもは各自が適当な時間に起き出してくるのだが、今日は全員が揃って朝食を食べた。それはその後の作戦会議のためだった。
拙文をお読みいただき、誠にありがとうございます。お気に召していただけましたら、次話もどうぞ。
【次話へ進まれる前に】
・本作はファンタジーです。現実の科学、法、伝承、社会制度等は無視しております。“そんなこと科学的にありえない”、“史実の社会制度にそぐわない”等のダメ出ししたい点が散見されるかと思いますが、そのあたりは大目に見て読み流して頂けるとありがたいです。繰り返しますが、本作はファンタジーです。
・誤字報告、歓迎いたします。誤字脱字、その他日本語の用法の誤り等にお気づきのかたは、お手数ですが誤字報告いただけますと大変助かります。