薬中は死んでいません。
よろしくお願いします。
布団の中から出てくるのは、情けない姿をした泥田父だと思っていた。
妹さん越しにおよそ人の形をしていない黒い生物と目が合い、反射的に手を伸ばす。妹さんの驚愕の顔が見えたが無視して、伸びきったシャツの襟を乱暴に掴み、ちゃぶ台の上で引き摺る形で妹さんをこちらへ避難させる、
布団の中ながら這いずりでた獣。痩せ細り、食に飢えた獰猛な目を持った黒い犬だった。こちらから目を離さない。カリカリと畳に傷をつけ、犬歯を覗かせる口からは涎が糸を引いている。浮かび上がる骨を覆う薄い皮、逆立てる体毛。先が鋭く尖った耳を持ち、黒い鼻をスンスンと動かしている。
「なっ!なんでぇ いっ!いぬがうぅちにぃ!」
口をあうあう動かして、混乱する泥田くんの腕を掴み、自分の後ろに追いやる。黒い犬はのらりくらりとちゃぶ台の弧をなぞるようにこちらに近づいてきた。
なるほど、この中で一番健康的な自分に興味があるらしい。痩せ細った兄妹には目もくれず自分から目を離さない。
「ドンッドンッドンッ!ドンッドンッドンッ!ドンッドンッドンッ!聞こえてますかー?」
玄関の外には薬中、目の前に飢えた獣。
これが背水の陣か。いや、犬に食われるよりマシか。
「泥田くん、玄関の方っ!」
「でっでもぉ!変な人いるっ」
「今食われるよりマシだから」
泥田くんは妹さんの手を引き、後ろの方へ逃げる。黒い犬は、2人に目を向けず、自分と向かい合う。黒い犬の呼吸は荒くなり、涎の量は増す。体勢を変え始めたあたりでこちらも姿勢を低くし、両手を構える。それと同時に荒々しく玄関ドアが壊れる音がした。
「ギャァッ!!」
「どもどもおはようございますー!こんばんはー!キャッキャッ!!」
泥田兄妹は蹴り壊された玄関扉にの下敷きになり、さらに薬中がその上に乗り悲鳴をあげた。薬中は悠々と中に入ろうとするも黒い犬と目が合い、扉の上に乗ったまま停止した。
「えっ!えっ!えっ!えっー!嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘ッーーーー!」頭を振り乱し、扉の上でタップダンスを踊るように地団駄を踏む。カチカチと歯を鳴らし、脂汗を流す。黒い犬を見た途端、パニック状態になり雰囲気が一変した。
黒い犬が自分に向かって跳んだ。鋭い爪を出し、前脚を伸ばした状態で跳んで来た。構えていた両手は鋭い爪を持った前脚を掴み、片足を黒い犬の腹に当てた。そのまま、跳んでいた方向に合わせてこちらも体重を倒す。
巴投げ
後ろに投げられた黒い犬は、扉の上でタップダンスを踊る薬中へ向かっていく。
「ギャンッ!!」
顔面で黒い犬を受け、汚い悲鳴を上げた。鼻血を噴き出しながら、後ろに倒れ、大の字になった。黒い犬はそのまま外に飛ばされ、外からはグシャリと犬が叩きつけられる音が聞こえた。
「エェッ!ゲエェェッ!血がぁぁ チガッ!チガッ!チガチガチガッ!」
ヨロヨロと立ち上がり廊下に出る。鼻血を垂れ流し、床を汚し何時ながら、ふらふらと階段へ向かう。惨めな気持ちになる。何でこんな目に。何で俺がこんな目になるのだろう。盗まれた物を回収しなきゃ。どんどん不安に追いつめられる。いつもみたいに笑えないのは薬の効果が切れてきたからだ。息が切れてきた。苦しい。急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ
「回収しなきゃっ!かっ回収しなきゃッッッッッ!かっかいしゅうぅかいしゅうかいしゅうぅぅぅぅうううううう」
そのとき
クイクイと服の裾を引かれる。後ろを振り返ると誰もいない。視線を下に下げると小さな女の子がいた。
黄色い帽子を被る女の子
おかっぱ頭の小さな女の子
ふっくらした白い頬の女の子
くりくりの丸い黒い目の女の子
かわいいかわいいかわいい女の子
女の子はふっくらした小さな掌をこちらにかざしてきた。
とんっと
押されて、ふらりと後ろに倒れる。そのまま階段から落ちそうになるも片足を後ろに踏み出し、踏み止まる。
そのとき、ガッコンッと不吉な音がした。
古びた階段の段差に体重を掛けてしまい、抜けてしまった。視界が反転し、ボールのごとくゴロゴロ転がり落ちる。頭から着地し、逆さまになってお尻を上に向けてしまうような情けない姿になってしまった。全く本当に俺が何をした。でも、頭を打ったことにより久々に俺は少し正気に戻っている。身体は痛いけど気分は清々しいので悪くない。実に悪くない。
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