笑い袋パンデミック
『前略
二千五百年の君へ。
果たしてこの手紙を君が正しく読めるか、ぼくには分からない。
何せ、二百年も先のことだ。
文化だって変わるし、言葉だって変わるだろう。
二千三百年のぼくらが、二千百年の先人達の文化を、言葉を、正確に理解することができないように。
それでも、偉大なる先人達がそうしてきたように、ぼくも記録を残そうと思う。
紙と万年筆なんて、古臭いどころか、最早化石とすら言えるかもしれないけれど。ぼくらの時代ですら、絶滅危惧種と言っていいぐらいだからね。』
おれが受け継いだ婆さんの遺品は、随分と古めかしい金庫と、それに仕舞われていた、そんな書き出しの、随分と古ぼけた、拙い文字で綴られた、手紙だった。
やたら古臭い、骨董品みたいな絡繰りが好きな婆さんだった。
その金庫は、作成されてから年月が経ちすぎたのだろう。最早基礎の文法すら変わってしまったプログラムは随分と難解で、つい最近になってようやく開けられた。
それは完全に偶然と幸運の産物だったけれども、ある事情により万年金欠気味なおれにとっては正に渡りに船で、いくら古臭くても金庫ならば高値で売れるものの一つや二つ入っているだろう、と意気も揚々に扉を開けた。
そんなおれを嘲るように、金庫の中には古ぼけた封筒が一つあるだけだった。
確かに、骨董品としてはそこそこの値にはなるだろう。あくまでそこそこで、遺品を手放すほどではないけれど。
落胆しながらも、どこか安堵があった。……存外に、あの婆さんのことを、好んでいたらしい。
丁寧に封を開けた。他人のものを勝手に開けるのは、少々の抵抗感があったが、金庫にまで入れられていた手紙だ。どうにも好奇心が抑えられそうになかったし、紙の様子からして、書かれて数十年は経っている。時効と言っていいだろう。
そっと、覗き見るような心地で、手紙を開いた。
それは、二百年前の先人からの伝言だった。
『ぼくも、手紙なんて書くのは初めてだから、読みにくくても勘弁してほしい。
このまま、文明が何かしらの理由で大きく後退したり、懐古主義が高じて紙の復権運動でも起こったりしない限り、君の時代でも大凡殆どの情報はコンピュータ上で扱われているだろうから、ぼくの言いたいことは分かってくれるだろう。
……もしかすれば、コンピュータという呼称すら変わってしまっているかも知れないけれど。
『閑話休題。
無駄話が長くなってしまう悪癖は、紙の上でも変わらないものだね。反省しないと。
『ぼくがこれから君に伝えたいのは、君もきっと知っているだろう、二千二百九十八年、S−008事件の話だ。
どんな風にかは分からないけれど、きっと君の時代の歴史の教科書にも、この事件については載っているだろう。
世界中の人々が、たった一晩で笑顔になった、別名、笑い袋事件。
パニック、なんて軽い響きのカタカナが、実際には随分と冷たく重たいと思うほどに、直後の混乱は酷かった。
ハンドルを切り損ねた車が建物に、笑い転げて足を止めた歩行者達に突っ込んだり、互いにぶつかり合ったり。スクランブル交差点は血液と煙で溢れ返って、悲鳴の代わりに笑い声が響き渡ったそこは、正しく地獄のようだった。
車掌がまともに運転できなくなった電車達は、そこかしこで脱線して、横転しては数百人単位の人間を圧殺していった。管制室も、乗務員も、乗客も、みんなして笑い転げた結果、鳥のように飛んでいた飛行機は、猟師に撃たれたかの如く、墜落していった。
座礁した船から、燃料が漏れて海も随分と汚れた。魚も腹を見せて、魚を食べていた鳥達も、腐りきった魚の死骸の上で、飢えて墜ちた。
打ち間違えられた一手から、金融は混乱して、株価も為替もおかしな値を叩きだしていた。
どれほどの人が死んだのか、あれから三年目の今でも分かっていない。
ただ、数億という数字では効かないだろうことは確かだ。
……もしかすれば、君の時代には分かっているのかもしれないけれど。
『そんな事件発生直後から数週間して、人々は家に閉じこもる、という自衛法を当たり前として身につけた。
政府の人達が、笑い転げながらも、どうにか必死に紡いだ言葉も理由としては大きいだろう。
街は廃墟のように人通りと活気を失いながら、絞り出すような、枯れて擦れた笑い声が家々から響いていた。
もう百三十年も前から、インフラ関係の公共設備は無人化が完了していたし、その二十年後には最低限自国民を養える程度の農産物の生産プラントが機械のみの労働力で稼働し始めていたし、調理や配達の自動化は二千百年代初頭には実現していた。勿論、人の手で手間隙かけられたものの方がいいって人もそこそこいたから、それ以前に比べれば激減したとはいえ、料理人や配達員、農業従事者といった職種の人々がいなくなった訳ではないけれど。
兎も角、そんな背景もあって、人々のいない街並みが当然のものとなった。
『とはいえ、人間には休息も必要だし、眠れないこともないけれど、浅い眠りで精一杯、というこの状況は深刻で、人々が狂ったように笑い続ける現象——通称、笑い袋現象に終止符を打つ必要があったのは確かで、辛うじて機能していた各国政府は共同で対策本部を設置し、原因究明と現状の打破を急いでいた。
その結果、対策本部は笑い袋現象の原因を特定するに至った。半強制的に数週間徹夜した彼らは、現象発生から二十日で原因となったウイルスを発見し、その大凡の対策を打ち立てた。
S−008、と名付けられたそれは、顔と喉、腹の筋肉を刺激し、人間を強制的に笑わせるものだった。空気感染するその恐ろしいウイルスは、おそらく人工的に生み出され、散布されたものだろうと推測された。
このウイルスに似た構造を持つウイルスが随分と昔に生み出されていた。その時の研究記録が残っていたからこそ、対策本部はこれほど早期に対策を打ち立てられたのだ。
その対策とは、ウイルスの活動を抑制し、症状を緩和するワクチンと、“ウイルスの効かない”人間だ。
このウイルスの抗体は大凡大抵の人間の体内では生成できないが、極々稀に生成できる人間がいた。
偶然にその人間を見つけられたのは、きっと彼らにとって幸運だったのだろう。疲れきった笑顔に浮かべた涙は、きっと歓喜の涙だった。
どうにか掻き集められた数十人は、実働班として、ワクチンや注射器の扱い、その他必要な知識や技能を短期間に徹底的に叩き込まれた。
人々にワクチンをうつため、また、おそらくこのウイルスが散布されている大本であると推測される施設へ赴き、散布を止めるためだ。
この数十人の中に幾人かの医療従事者がいたことにより、より早くワクチン接種が可能になった。訓練の必要がない人材がいたのは本当に幸いだった。
『そうして、実働班は主にワクチン接種を始めとした医療行為を行う、医療従事者の人達を中心とした医療担当と、散布を停止させるため動く散布元担当に分かれた。
医療班の活躍で、人々の症状は緩和し、最低限寝られる程度には緩和された症状により、それまでとれていなかった休息をとれるようになり、緩和して猶、中々止まらないしゃっくりにより、細かい作業は難しいとはいえ、一応は労働力の確保が可能になった。それにより、復興は進んだ。
散布元担当は、対策本部の実働班以外の人々が割り出した散布されたウイルスの濃度が不自然に高い箇所を巡り、調査し、ウイルスの濃度を下げることを主目的に開発された、霧状ワクチンもどきの散布を行った。
散布元担当が赴いた箇所はワクチンを接種した者でも、赴くには再発のリスクが高かったために散布元担当のみが赴いた。
『数十カ所を巡って尚、散布元の箇所には当たらなかった。
このウイルスは、かなり特殊なもので、自然に増殖したり、発生したりはしないのだ。継続的にウイルスが散布されているだろうことから、散布元にはそれ用の機械があると思われた。
『そうして、医療班に優先して人員を配置している都合上、少数であった散布元担当は、百八カ所目にして漸く、大元と思われる施設へ侵入を果した。
『そして、そこを担当していた二人の散布元担当の人員——表情のあまり動かない少年と、無骨なガスマスクを装着した少女は、ウイルスをバラまいた犯人と対峙した。
そう、君も知っているだろう。
スマイル=ジョンソン。
生物学者であり、哲学者でもあった彼は、人類の幸福を追い求め、今回の凶行に走ったと語った。
“人類の幸福とは何か。それは人により回答の異なるものであり、容易に分かり合えるものではない。”
“けれども、人間が簡単に幸福を感じることはできる。”
“笑えばいいのだ。声を上げて笑う、それだけの行為で人間は存外幸福を感じるものだ。”
“ならば、全人類を笑わせることができれば、人は、人類は須く幸福になれるだろう。”
彼は自身の理想たる、全人類の幸福を成し遂げん、と。
そう笑った。
少年と少女は、施設に設備された武器類や配備された外敵排除を主目的としたドローンを操るスマイルを打倒し、捕縛。ウイルス散布用設備の稼働を停止させた。
『それからは、散布元担当は残った高濃度箇所において霧状ワクチンもどきを散布、医療担当はワクチン接種等を継続し、数ヶ月後には空気中に漂っていたウイルスも殆ど死滅し、対策本部が改良したワクチンにより、体内中のウイルスを殺すことも可能になり、事件は一応の収束を見せた。
死者を悼みながらも、復興は進み、事件から二年もすれば、減少した人口を除き、表面上は事件の前と殆ど変わらない日常が戻った。
『以上が、ぼくの知るS−008事件の全てだ。
詳細に関しては、メモリーカードでも見てくれれば分かるだろう。読み込める機器も、まあ、扱いとしては骨董品とか、化石みたく扱われているのだろうけれど、存在しない訳ではないだろうし。これでも、この時代じゃ最新式だからね。
それに、紙にすると紙幅が広すぎて、手紙には不適切になってしまいそうだし、そもそも、そこまで詳細を話したいわけではないし。
『さて、そろそろ〆としよう。紙も無いし。』
『二千五百年の、あるいは、もっと先の君へ。
どうか、ぼくが書き綴った出来事を、語り継いだ顛末を、忘れないでほしい。
頭の片隅でいい。
消し去らないで、そっと、置いておいてほしい。
いつか、君たちか、あるいはその先で、小さな助けになれると思うから。
かつて、名も無い先人達が、ぼくらに残した足跡のように。
草草不一』
宛名も無ければ、差出人の名前も無い古ぼけた手紙は、そんな言葉で終わっていた。
……この手紙の差出人が誰なのか、きっと知らないやつはいないだろう。
歴史の教科書に名前を残す人物の一人。
S−008事件対策本部実働班の一人であり、世紀のテロリスト、スマイル=ジョンソンを捕縛した英雄の片割れ。
以降の経歴、本名すら失伝してしまった、謎に包まれた英雄。
封筒の裏に貼られた紙と大差ない厚さのメモリーをそのままに、おれは丁寧に手紙を金庫に仕舞うと、掛かっていた電子錠が、二度と掛からないよう物理的な細工を施して、安物のダイヤルロックを掛けた。
昔、婆さんがこっそりくれたメモ帳と、ボールペンを、鍵付きの引き出しから取り出した。
おれは、かの英雄のような非凡な存在ではないけれど、何かを残したいと、そう思った。
『前略。
いつかの誰かへ。
おれの話を聞いてくれないか?
平凡なだけの、つまらない男の話かもしれないけれど。
どうせなら、人に聞かせられるほどの人生にしたいと、誰かの助けになる、そんな足跡を残したいと、そう思うんだ』