第二章 狂える瞳(二)
※本作では“ ”(ダブルコーテーション)で括られている箇所が何か所かあります。これは、「作中世界の人物による著作(本など)」の引用部分です。
改行に乏しいなど一部の文章がとても読みにくかったり、文体が異なる箇所がありますが、ご理解くださいますようお願いいたします。
◆ 2
校内は、三週続けて起こった動物の「斬殺事件」、「虐殺事件」で持ちきりになっていた。
今回の事件の「被害者」は学校の池で飼われていた鯉一八匹。
死んでいた鯉のうちの一匹が、体を真っ二つに引き裂かれていた、という話までが聞こえてきた。
問題なのは、むしろこうした具体的とも言える情報が簡単にそこら中で語られる、という事実の方ではないか──と郡湊都は思った。
時は三時限目。
三年生は授業が選択制になっているため、このコマに授業のない湊都は、図書室の閲覧ルームで一人、高校の授業とはまるで関係のない一冊の本を読んでいた。
K県Y市にある国立Y大学の、宮腰俊一郎という元教授の書いた新書版の本だ。
湊都は超常現象的なもの、あるいはオカルト的なものを信じる方ではなかったが、常々そうした民話や伝承、あるいはフィクションを「話としては面白い」とは思っていた。
もちろん、演劇に傾倒する者の一人としてだ。
宮腰教授(現役の教授時代の著書もあるので、この呼称でいいだろう)の本のいいところは、何と言ってもセンセーショナルに「売ろう」という意識がまるで感じられない、あくまで学究的な、シンプルなところである、と彼女は思っている。
飾りのない文章。
それ故逆に面白い。
昔で言ういわゆる『カストリ雑誌』とは、似て非なるもの、なのである。
一般にオカルトと言われるものの代表的な例は「霊」、「死体蘇生」、「錬金術」、「不老不死」、「黒魔術」、「悪魔召喚」、「魔女狩り」、「妖怪あるいは怪物」、「忌み数」、「生命なきもの」、「名前なきもの」等々、簡単に思いつくだけでもいろいろあるが、湊都が今まで読んできた宮腰教授の著書から察するに、彼が傾倒しているのは、「霊」(彼は近似値として「思念」という概念を使っている)、「死体蘇生」、「不老不死」の三つだと言えそうだった。
そうしたものを暗に明に扱っている彼の著作の中には、今回このH高校で起きている一連の事件のような「猟奇事件」的なものを紹介している物もあった。湊都は、彼女が入学した直後に借り出して読んだ、図書室にある唯一の彼の著作を、今回改めて読み返してみようと約二年半ぶりに手に取っていたのである。
「あら? 郡さん。……ふん、いい気なモンね? みんなが受験で苦しんでいるこの時期に、下級生に混じって推理ゲームかしら?」
声をかけてきたのは白井友香。
一年程前まで演劇部の同僚だった生徒だ。
湊都が手にしている本のタイトルは『悪魔信仰』。
かつて演劇部で脚本を担当し、数々の文献を参考資料として読んできた友香が、そのいかがわしい文字の羅列を今回の事件と結びつけて考えないはずがなかった。
「友香、あなたは今回の事件、どう思う?」
湊都は彼女と話すときはいつも、かつてそうしていたのと全く同じように、友達口調に徹することにしていた。
もともと彼女との関係の悪化を望んでいたわけではないし、彼女の本当の笑顔を知っているだけに、いつも彼女に対しての門戸は開いておきたかったのだ。
「あたしにそんなことを考える暇があると思う? はっきり言って迷惑してるのよ。先生たちも浮き足立ってるし。
……郡さん、あなたも自分のことをもう少し心配した方がいいんじゃない? ウチの学校のイメージが悪くなったら、推薦、取り消しになるかもよ?」
最後にふふふっ、と笑って、白井友香は図書室にある自習席へと向かっていった。
湊都の思いとは裏腹に、彼女の方は明らかに壁を作っていた。
(友香──)
湊都はやるせない思いを抱えながらも、再び手にしている本へと視線を戻した。
そして、目次と過去の記憶から割り出していた、あるページを開く。
(これだ──)
『第三章 儀式』
新書版の本ということで、この本からはそれほどの権威は感じられない。
しかし逆に、だからこそ読みやすいし、かつ高校の図書館に置かれる、ということにも繋がった。
そういうところがこの宮腰教授の偉大なところなんだろうな、と湊都は思っている。
“神に対し、人間はその庇護を得るために(あるいは悪魔を排除するために)、様々な「儀式」を展開する。誰がどこで、どのような理由付けでそうすべき、と決めたのかは定かでないことも多いが、そうした儀式は、ことを行う順番や必要な道具を欠かすことなく行われなければ、その効果はない、もしくは神の怒りをかってマイナスに作用することさえあると思われているものが多い。つまり神のその魔術的な力は、言い表せぬほどの神聖な儀式の挙行、神々に相応しい英知を越えた儀式的な術を施すことによってのみ、また、神のみぞ知る不可解な象徴によってのみ、これを達成することができる、という非常にハードルの高いものだ。
神に対抗するものとして、頓に西洋では、「悪魔」が台頭した。人は必ずしも平和や幸福ばかりを願う存在ではない。時として人は、他人を恨み、妬み、嫉み、憎み、怒り、あるいは興味本位で、そんな平和や幸福を「破壊したい」と願う。そんな願いを叶えてくれる別の意味での神が「悪魔」である。「邪神」という存在もあるが、それはここで扱う「悪魔」とは利用価値が異なるもの、とこの場では定義した上で話を進めたいと思う(※「邪神」は「神」であり、その時代その時代で、また地域や信仰によって、全く同一の存在が「善の神」にも「邪神」なりうるのであるし、また「悪魔」と呼ばれるものの中にも「邪神」と同視されるものもいる)。
神に対して「儀式」があるのと同様に、いやそれ以上に、「悪魔」に対しては厳しい儀式がある。「悪魔」が神と決定的に違うのは、規模・大きさ、である。つまり、それを利用し、かつそのことによって恩恵を被ろうとする者の範囲がきわめて小さいということである。更には、その「儀式」も当然、神に対するような大がかりなものではなく、数人レベル、あるいは一人でも用意、実行できる程度には簡略なものになる(といっても、術者がその的確な方法を突き止められるか、そしてそれを実行できるかは別問題だが)。
もちろん、大きな災厄を「悪魔」のせいにした事例はある。しかし、それらに対する宗教者の考え方の中には、「悪魔」は「地獄」あるいは「魔界」という世界の住人であり、そこには厳然たるヒエラルキーが存在しており、「悪魔」のトップをはじめとした多数の「悪魔」が大挙して猛威を振るったから、という解釈さえある。逆説的に言えば、「悪魔」が、単独でなし得ることはそれほど大きくない、ということになる。
またこれは、「悪魔」の暗躍に「心を痛めた」いわゆる「善の神」たちが、それを討伐するために英雄(聖人)をつかわしたり、あるいは聖獣を放ったり、時には神の一人が人間の姿で降臨したりする、ということにも現れている。更には、「悪魔」の中に、本来神に仕えるべき存在であるはずの天使の堕ちた姿、「堕天使」が数多く存在することも一例である。
しかしこうしたことが、逆に実効性のある存在としては、「神」よりも「悪魔」の存在を身近にした。神は集団のものだが、「悪魔」は基本的に個人や小集団にも「扱える」ものなのである(もちろんいわゆる邪教に崇められたり、サバトの主賓あるいは主催者になったりすることもあるが)。そしてその無数の個人たちが、時代と地域を越えて様々な「儀式」を作り出してきたのである。
前述したように、神でさえも「儀式」をきちんと過不足なく行わないと、いわゆる「祟る」ことがある、と信じられている。もちろん、あまり細かいことにこだわらない「寛容な」神もいるが、基本的には「神」も怒らせれば「祟る」。だからこそ、基本的に「祟り」のある意味象徴でもある「悪魔」が、誤った「儀式」をしたとき「祟らないはずがない」という思い込みが生まれるのは至極当然の結果である。そして「悪魔」の場合は、その「祟る」範囲が自分とその身辺、つまり個人の範囲である、ということも。
それ故、「悪魔」を利用しようとする者は、その「儀式」を是が非でも完璧にこなさなければならなくなる。そして多くの場合、完璧にこなすためにはそれなりの犠牲を要する。これが「悪魔」を信仰する者が一〇〇パーセント陥る諸刃の剣というジレンマだ。つまり「悪魔」とは、個人レベルの例えとしては不適切かもしれないが、現代における核兵器のような「禁断の秘剣」なのである。
「悪魔」とは、本来は実体のない「霊」のようなものと言われ、精神的に作用を及ぼす程度の存在に過ぎない。(中略)そして、そうした悪魔信仰は「黒魔術」を、神信仰に基づく錬金術論は「白魔術」を生み出した。
そうした魔術の「儀式」(あるいは祭礼と言った方が良いか?)には、「戸外」や「裸」といった「不敬」的な行為と映るものも多く、(中略)。
アイテム(道具、あるいは「材料」と記した方が適当か)には、主に以下のようなものがある。羅列すると、処女の血、ハーブ、蟾蜍の目玉、蝙蝠の羽、イモリの目玉、犬の舌、あるいは魔女のミイラ、嬰児から栄光の手(絞首刑にされたあとミイラ化した、しかも殺人犯の手)、なるものまである。(中略)
また、守るべき日時、つまり日にちに纏わるものも多い。例えば二月の二日、四月三〇日から五月一日にかけての夜、八月一日、九月一四日、一〇月三一日から一一月一日にかけての夜。
この中から五月一日前夜である「ヴァルプルギスの夜」についてざっと紹介しよう。この日は、魔術を行うために必要な「魔力が最も強くなる時期」と言われている。これは豊穣の夏の祭りで、盛大なものであったと言われる、ドイツから出た「悪魔信仰」の一つで、強まった魔力を使って「悪魔」を呼び出し、魔宴を行うと信じられていたものである。この夜は、「死霊秘法」など大型の魔術を行うのに適している、とも言われている。
パズルのような場合もある。例えば(略)”
宮腰教授は、こうした「儀式」について大ざっぱに、しかしある程度は具体的に紹介していた。
ただ、彼自身はこうした「儀式」のほとんどが術者に向けた気休め程度のプラシーボ効果か、他人が気持ち悪く思う程度の「呪い効果」程度しかない、と考えているようだった。
つまり、『フィクションとしては大変興味深いが、実際に使えるかというと、それは自分と相手がいかに信仰に厚いかに左右される概念である』としているのである。
つまり神への信仰心の高い人ほど「悪魔」の餌食にしやすく、また「悪魔」への信仰心が高い人ほど墓穴を掘りやすい、ということだ。
逆に、信仰に不熱心だったり、極めて自己中心的な信仰心しか持っていない人だと、助かったり、あるいは上手に利用できたりする、という。
そこで湊都は考える。
問題なのは、今回の一連の事件の「儀式性」だ。
もしも、「猫」や「鯉」が、何らかの「儀式」のための「アイテム」だったら。
そしてそれらの臓器その他で欠けているところが、もしあるのだとしたら。
あるいは「殺すこと自体」が儀式の一環だったとしたら。
更には、「日にち」までが「儀式」と関係があるのだとしたら──。
【登場人物】
古代 希:私立H高校2年A組。県内の強豪である演劇部で脚本・演出を担当。自分の実力に大きな自信をもっており、自他ともに妥協しない実力主義者。半面、演劇部の活動以外では大人しく目立たない。元文芸部員で、郡湊都からヘッドハントされた。